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兄は月島と他愛ない話しを続けて昼頃自室へ戻った。
自分も友人の部屋へ避難し、夜の八時を回る頃まで友人とゲームをしたり漫画本を読んだりして適当に時間を潰した。
さすがに腹が減ったので友人の部屋を後にして財布を取りに自室へ戻る。
扉を開けると勉強机に向かっていた月島が両腕を天上へ伸ばし、凝った肩を解しているようだった。

「おかえり。帰ってこないかと思った」

それには特に返事をしなかった。
月島は自分に散々文句を言うくせにおはようとか、おかえりとか、挨拶だけは欠かさない。随分しっかりと教育されてきたのだろう。
返事をしてやればいいのに、反発心から無視をすることが多いが、月島は特に傷ついた顔もせず、それが当然かのように振る舞うし、今更だと思う。
ベッドに腰かけて鞄を手繰り寄せると、月島も机の引き出しから財布をとりだし、クローゼットから厚手のパーカーを引っ張り出した。

「…出掛けんのか」

「夕飯買いに行くんだよ」

「まだ行ってなかったのかよ」

ちらりと窓の外を見た。秋口を過ぎた今は八時でも深夜のようにどっぷりと暗い。
兄に言われた言葉を思い出し、何故まだ明るいうちに買い物に行かないのかと苛立つ。
そして何故自分が怒らなければいけないのかと慌てて訂正する。
関係ないと思ったし、月島になにがあったもむしろいい薬くらいに感じた。
だけど、細い首や腕を見るとそれでいいのか疑問に思う気持ちもある。
月島からしても自分などに心配されたくないだろうが。
せめぎ合う二つの気持ちに決着がつかない内に、彼は自分の前を通り過ぎようとした。その腕を咄嗟に掴んでしまい、しまったと溜め息を吐きそうになる。

「…なに」

捕まれた腕を睨みつけながら月島が言う。
本当に、なんだろう。自分が知りたい。

「…俺も行く」

「はあ?」

「俺も飯買いに行こうと思ってたんだよ」

「…ああ、そ。それは好きにすればいいけど腕放せよ」

心底嫌そうな口調に加え、ゴミを見るような瞳を向けられた。
心配した自分を今すぐぶん殴りたい。こいつに慈悲など必要ない。だからと言って完全に見捨てられないお人好しな性格が憎い。
青筋を立てながら、月島の後ろ姿を眺めた。
街頭の少ない夜道をきょろきょろしながら歩く。本当に兄が言うような変態がいるのだろうか。そんな人間が世間に存在するという事実も理解できないのに、それがこんな近くに。
噂が大きくなっただけではないか。そんな変態が存在してたまるか。
だが、日々ニュースで騒がれる居た堪れないニュースを見れば他人事ではないのかもしれない、とも思う。
変態からすれば東城は天国だろう。見目麗しい男はほんの一握りだが、こんなに暗い夜道をなんの警戒心も持たずにふらふら歩いている。
女子高生ならともかく、男の自分は大丈夫という不確かな自信に驕ってしまう。
自分には関係ないとか、自分は大丈夫という慢心から事件に発展してしまうのかもしれない。
月島はいいカモ。兄はそう言ったが、こいつの毒舌に変態も逃げ出しそうだけど。
コンビニで各々適当に明日の分まで食糧を買い込んで、また彼の後ろを歩く。

「…なあ」

小さく声を掛けるとぴたりと足を止めてこちらを振り返った。
暗闇の中、少し先のぼんやりとする街頭の光りを浴びた月島は、確かに見た目だけなら儚く見える。
綺麗、そう形容するのが正しいとは思わないが、これは確かに、と納得した部分もある。

「なに?」

「……お前、痴漢にあったことある?」

「…は?なに言ってんの。あるわけないだろ」

「…だよな」

がしかしと頭を掻いた。やはり兄の取り越し苦労か。

「いや、なんでもない。気にするな」

「…もしかして、あの噂のこと気にしてんの?心配しなくても君を襲う奴なんていないと思うけど。僕がその変態だったら真田先輩とか綺麗な人を狙うね」

「んなこと心配するわけねえだろ」

呆れたように言った。こいつは頭がいいくせに人の機微には滅法疎い気がする。

「本当に?怖いから一緒にコンビニ行くなんて言い出したのかと思った」

鼻で笑われ、本当に、なんで自分はこんな奴の心配を一瞬でもしてしまったのかと思う。俺の親切心を今すぐ返してほしい。

「俺じゃなくてお前の心配したんだろ。ばっかじゃねえの」

擦れ違い際に頭をばしっと叩いてやった。後ろから痛いという声が聞こえたが無視して歩いた。
月島に善意とか親切とか柔らかい気持ちを与えても無駄だというのがよくわかった。
あげた分を返せなんて言わないが、もう少しあるだろう。気遣ってくれた人間に対する態度というものが。
馬鹿馬鹿しい。あいつにそんな素直で可愛らしいものを要求する方が間違っている。
もう知らん。変態に尻を撫でられようが嬲られようが、後から泣き喚こうが。月島に限って泣くわけないだろうけど。むしろどうやって社会的に抹殺しようかじっくり考察し完全犯罪を成し遂げそうだ。
自分が心配するほどやわじゃない。誰かに守られるような玉じゃない。
苛立ちは引いていき、むしろ安堵した。それこそ月島薫という人間だ。

自室へ戻り、袋を漁って腹を満たした。大浴場へ行くのも面倒で、お互い小さなシャワールームで済ませる。
携帯ゲームにも飽きてそれを机上へ放り投げた。
月島はすでにベッドに入り、こちらに背を向けている。自分ももう眠ろうと電気を消した。
豆電球のオレンジ色の光りをぼんやり眺めていると、隣のベッドで身じろぐ気配がした。

「……ねえ」

声をかけられ驚いてそちらを見た。もう眠ったものだと思っていたが、もしかして起こしてしまっただろうか。

「なんだよ」

「さっきの本気で言ったの」

「さっき?」

「…僕の心配したとか」

今更その話題かよ。できれば忘れてほしい。ただ少し兄に毒されただけだ。月島にとっては庇護される存在と認識されたのが気に喰わないのだろう。

「すいませんね。もう心配なんてしませんから」

「別に文句言ってるわけじゃない。ただ、どういう風の吹き回しかと思っただけ」

「…兄貴がお前はいいカモだから気に掛けろって言っただけだよ。お前はそんな玉じゃねえのがよくわかったからもう構わねえし、安心しろよ」

「ふーん。香坂さんの差し金か。てっきり楓ちゃんになにか言われたのかと思った。君楓ちゃんに言われると嫌だって言えないからな」

図星なのでなにも言い返さなかった。
惚れた弱味を抜きにしてもあの人には家族全員世話になっている。
兄も母も。あの人が家にいると、家の中がぱっと明るくなる。いつもは個々それぞれ個人行動が多いが、あの人がいるだけで彼を中心に全員がなんとなく集まるのだ。強制されているわけでもないのに自然と引き寄せられ、そして全員が小さなことで笑っていられる。
彼の前では気を張らずに済むし、大人ぶりたいような、子ども扱いしてほしいような、不思議な気持ちになる。あんな不思議な人に初めて出逢ったので惹かれたのかもしれない。兄貴のモノじゃなかったら。意味もないたらればを願うのはもう飽きたのについ考えてしまう。

「…まだ楓ちゃんのこと好きなの?」

「お前には関係ねえだろ」

「関係ないけどちょっと同情もするよ。相手が悪かったね。別の人なら略奪愛も成功したかもしれないのに」

比較されるような言葉に舌打ちをした。

「はいはい、どうせ出来の悪い弟ですよ」

もう兄と比較されるのは慣れたはずなのに、昼間の会話のせいか古傷が疼く。
自分にはなにが足りない。兄にあって自分にないものは何だ。兄のようになればいいのだろうか。
小さな脳みそでいつも考える。自分は兄のようにはなれない。生まれ持ったものが絶対的に違う。なのに背伸びをするから苦しくなる。
月島にはわからないだろう。この兄弟の場合持っているのは弟の方で、兄が不自由な想いをしているだろうから。
本当に兄弟を交換できたらよかったのに。彼が兄ならもっと素直でいい子に自分もなれたかもしれない。変にひねくれたり、非行の道に走らずとも存在価値を見出せたかもしれないのに。

「そんなこと言ってないよ。ただ、恋愛に関しては香坂さんの方が一枚上手ってだけだし、あの二人は色々あって今の形に収まったんだろうからそれを覆すのは容易じゃないってこと」

「…俺と兄貴が同時に口説いたとしても兄貴を選んだよ。あの人は」

「そんなことないと思うけど…」

「実際兄貴を選んだだろ」

「そりゃそうだけど、そんなに卑屈にならなくても。別に君が香坂さんより劣ってるから楓ちゃんが振り向かなかったわけじゃないってことだよ」

「いいんだよ。慣れてるから。元カノだってみーんな兄貴を好きになって俺を振ったし」

言うと月島にしては珍しく言葉を呑み込んだ空気が伝わった。
いつも立て板に水ですらすらと誠に嘘をふんだんに盛り込んで話すのに。

「…君は君だよ。いつか君がいいって言ってくれる人が現れるよ。その相手は楓ちゃんじゃないかもしれないけど」

月島の口から出た言葉とは思えなくて、暗闇で表情は見えないのに慌ててそちらに首を捻った。
月島は顔を隠すように布団を鼻までぐいと押し上げた。

「…どうした。熱でもあんのか」

「失礼な奴。ただ君の気持ちが僕もわかるだけだよ。僕も君と同じだ。もうこの話は終わり。おやすみ」

月島は再びこちらに背を向けたが、暫くその背中から視線を外せなかった。
君と同じ。月島の言葉を反芻し、もしかしてこいつ兄貴に惚れていたのかと勘繰ったがそれはないとすぐに訂正した。
だとしたら、兄に苦労をしている部分に共感したのだろうか。
兄弟ってものはどんな出来であれなにかと比較されるものだ。悪意がないものであっても。そのせいで月島はこんなに捻くれたクソガキに成長したのだろうか。

考えても彼の本心など探れないのでやめた。底が見えない沼と同じくらい暗くて複雑だろうから。
ただ、月島の言葉に少し心が軽くなったので、最悪な一日の締めくくりとしては上出来だと思う。



END

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