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オフィス街の中にあるこじんまりとした気軽なバルでバイトを始めたのは三ヶ月前。
専門学校の友人に厨房の人手が足りないからどうだと頼み込まれ、そろそろバイトでもと思っていたので気軽に了承した。
料理は嫌いじゃなかったし、実家に戻ってからは多忙な母に代わり義務のようにもなっていた。
本格的なイタリアンではなく、昼も夜も食事は軽食で、カフェとしての利用や酒やつまみがメインらしく、それなら自分でもどうにかなるだろうと思っていたのだ。
しかし実際に働いてみると、接客が上手だから厨房よりもフロアの方がいいかもしれないとオーナーに言われ、嫌々フロアに出ること数週間。
笑顔を張り付けるのは苦痛だし、たまに面倒な客もいる。夜は酒を出すから、そうなると更に面倒な客が増える。
勘弁してくれよと心の中で散々文句を言いつつ、顔に出さない技が身に着いた。
高校時代なら確実に顔に出ていた。手前ふざけんな、表に出ろと啖呵を切る場面もそつなくこなせるようになった。
ああ、大人になったな。
しみじみ感じながら、女性スタッフを面倒な客から庇う癖もついた。
ほろ酔いのおっさんはここをキャバクラだと勘違いする奴が一定数いる。
配給されるTシャツに、私物のズボンに黒いギャルソンエプロン。
煌びやかなドレスでもないし、髪は一括りだし、素人だ。
なのに女性スタッフの腕を掴んだり、腰に手を回す輩がいる。客相手だからと強気に出られないのをいいことに。立ち場に違いがないと若い子に相手してもらえない憐れな中年男性。
女性スタッフが自分であしらえないときはオーナーからGOサインが出る。
ああいうのを客とは言わないとオーナーが判断し、容赦なく困りますと自分が前に出る。
「月島くんごめんね、ありがとう」
「大丈夫ですよ。大変でしたね」
バックルームで休憩中にこっそり謝られ、笑顔で応じた。
この人はそこそこ綺麗な上あまり気が強くないようでいつも餌食にされている。
勘違いした輩はこの子はいける、この子はだめという判断が瞬時にできるらしい。痴漢と同じだ。大人しそうな子を嗅ぎ分ける能力がある。無駄な能力だなと呆れるけど。
たまにこっちは客だぞと、今時お客様は神様です理論を持ち出す奴もいるが、そういうときオーナーは、お代を受け取らないので客じゃなくなりましたねと言うとあっさり引く。自分はああはなりたくないなあと反面教師にしながら、自分の常識が通じない、色んな人間がいることを身をもって知った。
一応客なのだし、強気に出て大丈夫ですかと聞いたことがあるが、ああやって追い払えば楽しく飲みたいだけの常識的な客が増えるから結果オーライらしい。
ゴミに媚を売る必要はなしがオーナーの口癖だ。
そういうもの?と社会人経験のない自分はいまいちぴんとこない。
しかし、女性スタッフに慕われているところを見ると、従業員を大切にする姿勢は大切なのだろうと思う。
夏の暑い日、その日は昼間からよくビールが出たと交代のスタッフが言っていた。
「へえ、やっぱ暑いと飲みたくなるんですね」
「月島君いくつだっけ?」
「十九です」
「あー、じゃああと数年したら月島君もそうなってるよ」
「えー、それってどうなんですか」
「はは。多分夜も忙しいと思うから覚悟して」
「金曜でもないのに?」
「こう暑いとねえ……」
少しうんざりしながらエプロンの紐をきゅっと縛り冷房の効いたフロアに出る。
交代早々、どのテーブルからも生ビールの注文を受けた。
店自体は広くないので、許容される人数も限られているが、昼より夜の方が次々注文が入るので忙しい。
水かよと呆れるほどのピッチでビールを飲み干し、おかわりの声が飛んでくる。
客が二巡した頃には自分と一緒に入っていた女性スタッフたちもぐったりしていた。
「今日はすごいねえ」
「ですね」
はは、と乾いた笑みを浮かべる。
フロアよりもキッチンは更に地獄で、火の傍にいるものだから、頻繁にキャップをとりながら首から下げたタオルで汗を拭いていた。
「月島くん、お水飲む?」
「ありがとうございます」
女性スタッフはちょっと待っててと、緩く一つで結んだ髪を翻した。
その瞬間、ふわりと花のような香りがし、ああ、女の人だと実感する。
なんせ中高男子校だ。同世代の女性が珍しい。おまけになかなか可愛いし性格も申し分ない。
だけど見るだけ、可愛いなと思うだけ。だってどうせ、どうせ──。
「楓」
ぽんと肩を叩かれ後ろを振り返る。
よ、と右手を挙げた人物を恨めしい気持ちでじっとり見上げた。
「……いらっしゃいませ」
「全然歓迎されてない」
木内先輩がくっくと笑い、香坂は呆れたように溜め息を吐いた。
すかさず女性スタッフに視線をやると、香坂たちを見て今日は来た、ラッキーと手を握り合っている。
これだよ。万年モテ男。
彼らが初めてここに来てからというもの、どういう関係?歳は?どこの大学?彼女いる?そんな質問を何度も浴びせられた。
生憎つきあってる人がいるようで……とお決まりの言葉で会話を終わらせようとするが、結婚してるわけじゃないし、とあっけらかんと言い返される。男性主体の世の中で生きなければいけない女性は強いのだ。
彼らの接客を横取りすると文句を言われるので、自分は手を引いた。
向かい合って座る彼らはメニューを挟んで談笑し、スタッフにも気さくな笑顔を見せる。
「月島くん」
「あーい」
厨房から店長に呼ばれそちらへ身体を向けた。
オープンキッチンから身を乗り出した彼は、盆に生ビールを乗せながらこれお願いと言う。
「ついでに他にお客さんいないし同じテーブルで休憩とっていいよ。折角お友達来てくれたんだし」
「……ありがとうございます」
「何飲む?」
「じゃあ烏龍茶で」
「了解」
ビールグラスの隣に烏龍茶を乗せ、盆を持って彼らの待つテーブルへ向かった。
ぶすっとした顔でグラスを置き、香坂の隣にどさっと腰を下ろす。
「サボりか?」
「休憩だよ。人聞き悪い」
「お前もう少し笑顔とかねえの?」
「香坂に笑顔見せてなんかいいことあんの?」
「かっわいくねえ」
「まあまあ、とりあえず乾杯」
木内先輩が相変わらずと笑いながらグラスを寄せてきた。
軽快な音を鳴らしながらグラスをぶつけ、ビールってそんなに美味しいのかなと思う。自分はその良さがまだわからない。
「須藤先輩は?」
「蓮ちゃんとおデートだそうですよ」
「なら蓮も一緒に連れてきてくれればよかったのに!俺も蓮に会いたい!」
「お前蓮にテンションあがりすぎだろ」
「ゆうきは?」
木内先輩に視線をやると、彼は肩を竦めた。
「バイト」
「今日はなんのバイト?」
「……なんだっけ、夜間の道路工事の誘導員?」
「そっか」
ゆうきはいくつかの芸能事務所からの打診すべてを断り、人となるべく接しないバイトを掛け持ちしている。
工場だったり、警備員だったり、誘導員だったり。
もったいないと言ったこともあったが、ゆうきらしいなとも思う。
宝の持ち腐れってこういうことを言うんだなあと未だに惜しくなるけれど。
「楓からも言ってくんね?休めって」
「相変わらず?」
「そう」
ゆうきは労働が楽しいらしく、自分の身体の限界を考慮しない無茶なシフトを組む。
仕事自体を楽しんでいるというよりは、対価がもらえることを喜んでいるらしいけれど。
いつか、そんなに働いてどうするのだと聞いた。
お世辞にも綺麗とは言えない安普請なアパート暮らしだ。そこまで金が必要なのかと問うと、母親に返している、とぽつりと言われたことがある。
ゆうきの家庭環境は詳しく知らないが、あまりうまくいっていないことはなんとなくわかっていた。だからそれ以上突っ込んで聞かず、けれど、身体を休ませるのも仕事のうちと言って聞かせた。
「木内先輩が言って聞かないならもうお手上げだと思うけど」
「俺だと余計聞かねえんだよ」
「じゃあ最終手段の神谷先輩だな」
「やっぱ翔に頼るしかねえか」
がっくりと首を落とした様にくすくす笑った。
相変わらず木内先輩はゆうきに勝てないらしい。つきあったときから負け続けてるよとこの男が言うのだからこちらは愉快でしょうがない。
なんでも手に入れられそうな彼が、ゆうきだけはいつまで待っても手中に堕ちてくれないと嘆くのだ。
烏龍茶を胃袋に流し込み、腕時計で時間を確認する。そろそろ仕事に戻らなければ。
「んじゃ、ごゆっくり。売上に貢献してくださいよお坊ちゃまたち」
「その呼び方やめろ」
思い切り顔を顰めた木内先輩を見てけらけら笑う。
自分の分のグラスを持って立ち上がると香坂に腕を握られた。
「今日部屋来いよ」
「俺明日学校なんですけど」
「だから?」
これだよ。
ぴしっと青筋が立つが、ここで言い争うわけにもいかず、わかったよと腕を振り払った。
彼らの接客は目をきらきらさせている女性に任せ、自分は大人しく片付けやグラスを拭きながら閉店を待った。
会計を済ませると念を押すように来いよと言われ、何度も言わなくてもわかってるよと睨み上げた。
「はー、今日もイケメンだったね」
「遊びでもいいんだけどなあ」
うっとり手を組むスタッフたちを横目に、そんないいモノじゃありませんよーと心の中で突っ込む。
「彼女さんは幸せ者だね」
彼氏です。
「余程の美人とみた」
ゆうきはな。
「イケメンで、彼女も大事にするとか最高じゃない?」
大事にされた覚えがない。
「ねえ月島くん、もし別れたら教えてね?」
「え、ああ、はい……」
愛想笑いでその場を乗り切り、疲れたなと思う。
東城にいたときはよかった。周りは男だらけで香坂の価値を間近で知る余地はなかった。
でも今は違う。
香坂は女性目線では優良物件らしい。思い知らされる場面は何度もあった。
そのたび少しずつ心が削れて勝手に嫌な想像をし、勝手に香坂にあたったことも何度もある。
面倒くさいと自分でもわかっている。
可愛げはないし、顔は普通だし、男だし。
何故彼が自分を手放そうとしないのかわからない。
周りにはきらきら、美しい宝石が散らばっているのに、その中にころんと転がる石ころを選ぶ理由。
閉店作業をしながら小さく溜め息を吐き、お疲れ様でしたと無理に明るい声を出して外に出た。
ここから香坂のマンションまで電車で十五分。
母親に友人の家に泊まるとラインを入れ電源を落とす。
バイト疲れと、夜なのにうだるような暑さと、それから心に少しだけ吹く隙間風のせいでなんだかひどく疲れた。
終電間近のこの時間は電車の中もひどい混雑で、さらに体力を持っていかれた。
へろへろになりながらインターフォンを押し、オートロックを解除してもらう。
扉を開けると廊下の壁に肩を預けて腕を組んだ香坂が若干不機嫌そうにおかえり、と言った。
「ただいま」
「合鍵持ってんのに何で使わねえの」
「あー、家に置いてある」
なんて嘘だけれど。
この関係が続くように、なんてお守り代わりにキーケースにつけている。それを使ったら何かが終わる気がして一度も使っていない。
それに人様の家に勝手に入るというのは気が引けるし、恋人でも線引きはしっかりしたかった。
靴を脱ぎ、リビングのソファに座る。
「疲れた」
隣に着いた香坂は顔を覗き込むようにしながらなあ、と言った。
「なに」
「あれ食いたい」
「は?」
「あれ。あの、甘いパン」
「フレンチトースト?」
「そう」
「お前さあ……」
こちとら今バイトから帰ってきたばかりだぞ。
見てわからないのか疲労困憊だと。
彼女のことも大事にするんだろうなあ、そんな風に夢見るスタッフや大学の女性に拡声器で言ってやりたい。
こいつは自分中心に世界が廻っていて、周りはそれに合わせるのが当然と思っているような奴なんですと。
「楓のやつが食べたい」
甘えたような瞳に言葉を詰まらせた。
香坂はいつからか、新しい技を覚えてしまった。甘えると言うことを聞くと知ってしまったのだ。
「……わかったよ」
そして実際聞いてしまう。馬鹿。俺の馬鹿。
惚れた弱味なんて認めない。いつか絶対ぎゃふんと言わせてやるのだ。
その決意は一先ず端に寄せ、疲れた身体を引き摺って立ち上がった。
立派なマンションのオープンキッチンも宝の持ち腐れ。
大きな冷蔵庫だっていつも飲み物くらいしか入っていない。
綾さんはなぜこんなに甘やかすのだろうと思うが、家にいられると邪魔なのよ、といつか言っていたことを思い出す。
わかるよ。邪魔だよな。家事を増やす上に手伝わない身長百八十cmの男なんて。
その分、彼の面倒を診る役目が自分に回ってくる。
はあー、とわざとらしく溜め息を吐き、メタリックな冷蔵庫を開けた。
いつも缶ビールやお茶くらいしか入っていない冷蔵庫にはパンや卵、ベーコン、その他もろもろ、きっちり入っていた。
首を捻り野菜室を開けると、そちらにも葉物や根菜、一通りの野菜が身を寄せ合っている。
「なんでこんなにぎゅうぎゅうなの?」
まさか、押しかけ女房でも来たかと嫌な想像をすると、後ろから圧し掛かるようにされた。
「お前が来たとき何か作ってもらおうと思って買ってたのに、全然来てくれないから減らねえんだよ」
どこか拗ねたような口調だった。
「香坂が買ったの?スーパーで?」
「そうだけど」
カートをころころ押す場面を想像して肩を揺らして笑った。
「やばい。おもしろい」
一しきり笑い、野菜室を指差す。
「根菜は常温が基本」
「こんさい…?」
「玉ねぎとか、じゃがいもとか。新たまは野菜室な。お前の部屋二十四時間冷房効いてるから冷蔵庫に入れなくていい」
「面倒だな」
「少しは覚えろよ。惣菜や外食で済ませるな」
文句を言いながらパンと牛乳と卵を取り出した。
香坂が自分を待っていた。それだけの事実に心が軽くなる。
フレンチトーストくらい作ってやらないでもない、と上から目線で思い、にやけそうになる顔を引き締めた。
香坂は料理を一切しないが、自分に作らせる気満々で調理道具や調味料の一式を揃えてあるので不便はない。
卵を溶きながら思い出し笑いをした。
香坂がスーパーにいるなんて。
見る目がないくせに適当に買ったんだろうなあ。持ち帰る量も考えず、ずっしりと重くなったレジ袋に文句を言ったに違いない。
「俺風呂入ってくる」
「あー、はいはい」
傍にいられると邪魔なので、むしろありがたい。
卵と牛乳とはちみつを混ぜたものに食パンを浸し、タイマーをかけた。
その間にゆうきにラインを入れる。
木内先輩来たぞ、少しは休めよと。休憩時間なのか、すぐにわかった、と短い返事があった。本当にわかってんのかねえ、と呆れながら、今度はゆうきに何か美味しいものを作ってやろうと思う。
自分が世話を焼かずとも、景吾や秀吉がどうにかしているだろうけど。
ピピ、と電子音が鳴り、フライパンにバターを溶かす。
気泡ができたのを確認して重ならないようにずっしり質量を持ったパンを並べた。
「美味そうな匂い」
にゅっと背後から顔を出され、フライ返しを持ちながらうわ、と奇声をあげる。
「あとどれくらいでできる」
「五分くらい」
ふと、香坂がフライ返しを持っていた腕を掴み鼻先に寄せた。
「手から甘い匂いがする」
「蜂蜜の匂いだよ」
ふうん、と言うとべろっと舐められ慌てて腕を引いた。
「邪魔すんな!焦げる!」
「はいはい」
じんわり頬が熱くなり、何年つきあってると思ってんだと自分を叱責する。
たったこれだけのこと。もっとすごいこともしてる。
だけど、高校のときよりも一緒にいられる時間は圧倒的に減り、触れ合える時間も限られた結果、香坂に慣れるどころか最初の頃に戻ってしまった。
ごしごしと頬を擦り、皿に簡単フレンチトーストを並べる。生クリームも付け合せもなしの、本当に簡単なもの。
フォークと一緒に皿を手渡すと、口に含んだ香坂はふっと笑った。
「うまい」
「そりゃあよかった」
誰でも作れる、特にこだわりもない普通のフレンチトーストだ。
店で食べた方が絶対に美味しいし、彼は舌も肥えているはずなのに、自分の作った料理をいつも美味しいと言う。
誰かが美味しいと笑ってくれるのは悪くない。作るのは面倒だし、苦労を理解しようともしない姿勢には腹が立つが、たった一言でどうでもよくなってしまう。
つくづく自分は香坂に甘いと思い知る。
「洗い物はお前がやれよ」
「えー…」
「えーじゃない。俺疲れてんの」
「わかったよ」
一口食べるごとに目尻を下げるのがかわいい。
「……そんなにうまい?」
「うまいよ」
「店で食べた方うまいと思うけど」
「楓の料理は俺の舌に合わせてくれるから。甘さとか、しょっぱさとか」
彼好みに調整していることに気付いていたのかと目を見張る。
「気付いてたんだ」
「そりゃあ気付くだろ」
「その割には労いの言葉が少ない気がしますけど」
照れ隠しのように言うと、肩を引き寄せ頬に触れるだけのキスをした。
「いつもありがとう」
「そ、そんなこと言われても俺は騙されない!」
「お前が言えって言ったんだろ……」
あっという間に食べ終わった香坂が食器を洗っている間、ぼんやりとテレビを眺めた。
「楓風呂は」
「入る」
「そのままでもいいけど」
「そのまま?」
テレビから香坂の方へ顔を向けると、後頭部を包まれ首筋を舐められた。
「うわ、ちょっと、やめろ!俺汗掻いたし……」
「俺はどっちでもいい」
「入ります!今すぐ入るから放せ!」
今更照れんなよと言う香坂をどうにか引き剥がし、逃げるようにバスルームに篭った。
あいつには情緒とか、そういうものはないのだろうか。ないな。今までそんなものがあったためしがない。
自分が女のように扱うなと散々言ったせいだけど、久しぶりなのだし、こう、少しは遠慮があってもいいのでは。
乙女思考かと首を振り、時間をかけて風呂を済ませた。
リビングは真っ暗で、そこから続く寝室を開けるとベッドヘッドに背中を預けてタブレットを操作していた香坂に遅いと文句を言われた。
我儘なお坊ちゃまはいつになったら大人になるのだろう。
呆れながら香坂の身体を挟むように上に乗り、髪をさらりと撫でた。
「待ちきれないほどたまってんの?」
「お前と最後に会ったの何日前だと思ってんの」
「……一週間前?」
「十日だよ」
「十日くらい我慢しろよ」
苦笑すると香坂はぶすっと眉を顰めた。
「だから一緒に暮らそうって言ってんのに」
「暮らさない」
「なんで」
「お前の家政婦にはなりたくない」
「家政婦がほしいんじゃない。楓と一緒にいたいだけ」
指を絡めながら言われ、そんな言葉に騙されてたまるかと思う。
こいつは昔から甘言が得意だ。くらっとくる自分もどうかしてる。
「一緒に住んだ方が楓も心配がなくなるだろ?」
「心配?」
「いつも言うだろ。浮気したらぶった切るって」
「ああ、でも一緒に暮らしても浮気なんて可能だしなあ」
「そんな心配いらないって言ってんのにな」
「わかんねえだろ」
「蛇口捻れば水出るような環境にいる奴に改めて水やってもありがたくねえだろ」
「なんだって?」
「モテる奴ほど女に興味ないってこと」
「嫌味か!モテない俺への嫌味か!」
「そう。お前の方がよっぽど心配なんだけど。まあ、楓はそこまで馬鹿じゃないって信じてるけど」
信じてる。そう言われると何も言い返せない。
浮気しないでと疑われるより、信じているからと言われた方が心にずっしりくる。
「お喋りはもういいか?」
腰を引き寄せられ両頬を包んだ。
「久しぶりだしゆっくりな」
明日学校だとか、もう一時過ぎてんじゃんとか、どうでもいいことを考えたが、こうなると抵抗できないし、する気もない。
寂しかったのも求めていたのも香坂だけではない。素直に口にできない性格が恨めしくなる。
本当は一緒に暮らしたいと思うときもある。
合わない時間にやきもきして、不安になったり、苦しくなったり。
だけど、まだ線引きした関係でいたい。
将来を見据えるとこのまま彼に堕ちるわけにはいかないと思う。
自分は香坂と違って常識的でリアリストだ。いつか来るであろう別れに備えるくらい、許してほしいと思う。
絡まる舌を放しながら、香坂の蜂蜜色の瞳に浮かぶ自分を眺める。
とぷりと落とされ底へ、底へ。息もできないほど沈んで、それではだめだとわかっているけど、頭とは反対に両手は彼を離したがらなかった。
END
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