木を見て森を見ず




瞼を半分開けて枕元に置いていたスマホで時間を確認した。十時を過ぎていたが今日は土曜日なのでもう一眠りしようか起きようかぼんやりしながら考えた。
若いのでいくらでも眠っていられるし、昼間に寝たからといって夜は夜で問題なく眠くなる。
半分だけ開けられたカーテンの光りで、丁度同室者の生活スペースだけぼんやりと明るくなっている。
そちらへ視線を移すと彼はベッドヘッドに背中を預けて本を開いていた。
本を読むには不自由な明るさだろうが、自分が眠っているのでカーテンを全開にするのは遠慮してくれたらしい。
彼の口から出るのは悪態や高慢な嫌味ばかりで、黙っていれば少しはましだと何度も何度も苛立った。喧嘩ばかりで時には手を出してしまうこともある。彼も自分もお互いを心底毛嫌いしているが、同室者として気遣いを見せるのは、なんだかんだ言っても彼の性根が腐りきっていないからだろうか。
それに免じて眠るのをやめ、むくりと起き上がった。

「…おはよう」

気配を察して挨拶され、軽く右手を挙げてそれに応えた。

「君さあ、よく寝るよね。そんなに寝てるとただでさえ少ない脳味噌溶けるよ」

開口一番これだ。共にいるとこれがずっと続くのだ。自分が部屋に寄りつかないのは当然というもので、ぼこぼこに殴らないだけありがたいと感謝してもらいたい。
いや、一度痛い目に遭わせればその減らず口もましになるのだろうか。兄貴がうるさいので我慢しているが、いつまで制御できるかわからない。
頭をがしがしと掻いて怒りで支配されそうになる頭を鎮めた。
自分もいちいち真に受けるからいけないのだろう。だから相手がおもしろがってつけ上がる。
はいはい、そうですね。そんな風に右から左に流せばいい。それができるなら苦労しないが。
溜め息を吐いて今日はどこに避難しようかと友人数名を並べた。
部活動をしている者も多いので、休日も部屋を空けているかもしれない。それなら特に用はないが外出しようか。
ああ、なぜ自分は東城に入ろうなどと思ったのだろう。
自分の部屋なのにこんなに窮屈な想いをする理不尽さに頭を抱えたくなる。
見に降りかかる不幸の加害者はこの男と同室になるよう仕組んだ兄貴だ。
たまに顔を合わせるくらいなら我慢できるが、毎日は辛い。
とりあえず顔を洗おうと立ち上がったと同時に扉がばーんと開いた。
驚いてそちらを見ると満面の笑みの兄貴が立っていた。

「やあやあ諸君、おはよう」

いくら弟の部屋だからといってノックもないのは常識的にどうだろう。
もう慣れたし、兄は世界の中心が自分なので自分のルールが世間の常識だ。

「珍しいですね。部屋に来るの」

月島はノックうんぬんの小さな問題はスルーして開いていた本をぱたりと閉じた。

「最近全然顔見てないし、弟たちが元気に仲良くしてるかと思って」

兄貴は順番に自分と同室者の頭を一度ぽんと叩き、月島の隣に腰を下ろした。

「なんだよ京は寝起きか?若いのに時間無駄にしてると後悔するぞ」

「いや二つしか違わないし…」

「俺が後悔したから言ってんの。もっと早く楓に手出しておけば…」

「朝からそういう話しやめろ」

惚気が始まる前に洗面所に避難した。
兄弟の恋バナなど聞きたくない。しかも自分が失恋した相手との話しなんてどんな拷問だ。兄はまったく意に介さず、むしろおもしろがって楓、楓と耳にタコができるほど話すけれど。
人の傷に塩を揉み込むだけじゃ飽き足らず、さらにその部分を火あぶりするような男だ。
自分は失恋の痛手もかなり癒えたが、だからと言って平気で笑えるほど強くもない。
今でも兄貴が隙を見せれば奪いたいと思うだろう。彼が笑顔で自分の名前を呼んでくれたらとても幸せになれる気がする。
未練たらしいのでその想いには蓋をしているけど。
鏡に映った自分の顔を眺め、うじうじするのはやめようと気合いを入れ直した。
部屋へ戻ると二人は並んで楽しそうに談笑していた。
滅多に見ない月島の笑顔にぞっとする。
どちらが素なのだろう。自分に見せる冷酷な無表情と、兄に見せる朗らかな笑顔。
二重人格なんてもんじゃない。末恐ろしい。同じ環境で育った兄弟なのにどうしてこんなに差が出たのか本当に不思議だ。根性が捻くれる原因が家庭にあったわけでもなさそうなのに。

「京、俺温かいコーヒー飲みたい」

「あ?買ってくれば?」

パジャマ代わりのトレーナーを脱ぎ捨てながら言った。

「弟は今日も兄に冷たいな」

「日頃の行いが悪いからじゃないですかね」

「はあ?めちゃくちゃ可愛がってんだろ」

どこが。起きないからといって、寝ている弟に本気で蹴りを入れる兄がどこにいる。
一つ思い出すとずるずると芋蔓式に兄にされたひどい仕打ちが蘇った。
ゲームで自分が負けそうになるとハードごとぶっ壊したり、本気で泣くまでプロレス技をかけられたり、麦茶と偽って麺つゆを飲ませてきたり…。
きりがないのでもう思い出すのはやめにしよう。
今でも兄は不遜で暴慢で本気の殴り合いの喧嘩をすることもあるが、これでもだいぶましになった方だ。

「コンビニのコーヒー買ってきてー」

「だから自分で行けよ。なんで俺が」

「お前が弟だからだよ」

これだよ。だから弟は辛い。理不尽な上下関係に苦しめられる。こちとら望んで弟になったわけじゃないのに。

「絶対嫌だ」

「テキサスクローバーホールドかけんぞ」

「まあまあ。僕が買ってきますから」

不穏な気配を察知したのか、月島がぽんと兄の肩を叩いた。

「薫は相変わらずいい子だなー。弟交換してえわ」

「俺も兄貴交換したいっつーの」

「こんな狭い部屋の中で喧嘩しないでよ」

月島は兄から金を受け取ると薄手のコートを羽織っておつかいへ向かった。
兄に媚を売ってもなにも出ないのに。尽くされて当然と思っているような男だ。
お返しとか感謝とか、そういった謙遜の気持ちが一切ない。
本当にあの人はよくこの兄と恋人でいられると感心する。絶対自分の方がましな人間なのに。
ベッドに腰かけながらスマホを開くとそれを取り上げられた。

「なんだよ」

「折角お兄様がいるんだからスマホじゃなくて俺と遊べ」

「…暇なの?」

「暇じゃなかったらここに来るかよ」

「あの人は?」

「楓はお友達とお出かけ」

「ふられたんだな」

ふん、と鼻で笑うと兄が珍しくぐっと喉を詰まらせた。
兄の唯一の弱味は恋人だ。そこをつけばやり返せるが、その倍のパワーで捻じ伏せられるので引き際が肝心だ。

「お前は楓にさっくりふられて暫く経つけど彼女でもできたか?」

う…。胸がずきずきと痛む。眉間に皺を寄せながら兄を見るとにっり微笑みながらも青筋を立てていた。

「できてませんけど」

「ふーん。もてない男は辛いな」

「もてなくない!」

「必死になるなんて図星かな?まあ、俺と比較されるし家に来るとお前の彼女みーんな俺好きになったもんな」

「う…」

兄の言葉に厳重に鍵をかけてしまっていた記憶まで呼び起こされた。
兄の表向きだけな爽やかな笑みと余裕のある態度に何故か皆そちらに心を奪われる。
いつだってそうだ。あの人もなんだかんだと文句を言いながら兄から放れない。

「どこがいいんだか…」

ぼそりと呟いたが兄の耳にはしっかり届いていたらしい。肩を思い切り殴られた。

「暴力、反対…」

痛む肩を押さえながら途切れ途切れに言った。

「お前に言われたくねえよ。薫のこと殴ってねえだろうな」

「ねえよ。たまに物投げる程度だし、あれは殴られても文句言えないくらいひどいからな!?」

「楓も同じこと言ってた。むしろ痛い目見ないとだめだって」

「俺もそう思います。あの二重人格サイコ野郎の根性は殴られたくらいじゃ矯正されないと思うけど」

「おいおい、随分な言い方だな」

「早く二年になって部屋変えしたい。一日でも早くあいつの顔見なくて済むようになりたい。全部兄貴のせいだ」

「友達少ないお前のために仲良くなれるといいなあと思ってわざわざ仕組んだ兄心は無視か?」

「少なくねえし、あいつと仲良くなれる奴なんていない」

「お前には猫被らねえからな」

その言葉に目を見開いた。

「猫被ってるって知ってんだ」

「そりゃ楓に色々聞いてるしな。ま、お前に素を出すなら気に入られてるってことじゃねえの?」

「気に入ってる相手に罵詈雑言はねえだろ。俺に猫被っても得はないって判断しただけだろ」

言うと、兄は笑いながら確かにと頷いた。

「まあ、あんな性格だけど顔は綺麗だし、気に掛けてやってくれよ」

「はあ?」

言葉の意味がわからずに首を捻った。綺麗でもないし、気に掛けなくともあいつならいくらでも対処できる。

「東城の近くにはな、出るんだよ」

「…なにが。幽霊?」

「その方がましだアホ。少年好きの変態野郎だよ」

「そんなのあるわけねえじゃん」

「だと思うだろ?けど世の中そういう輩は一定数いるんだよ。この前も痴漢騒ぎがあったし、もっとやばい奴もいるとかいないとか…」

痴漢の噂は耳にしたことはあるが、何故好き好んで男の尻を触るのか理解できないし、被害妄想が過ぎただけだと思っていた。そんな馬鹿みたいな話し、信じられない。
第一、こちらは男なのだから万が一があってもどうにかできるだろう。

「薫は見た目だけなら大人しそうだしそういう連中にはいいカモなんだよ」

「あいつがどうなろうと知らねえよ」

「冷たいこと言うなよ。あいつに何かあったら楓が悲しむぞ?」

「そうやってあの人の名前出せば俺がなんでも言うこと聞くと思うなよ」

「バレたか。ま、薫は夜遊びするタイプじゃねえけど、夜コンビニ行く時とか一緒に行ってやれよ」

「だから――」

知ったこっちゃないと言おうとした瞬間、月島が小さな紙袋を引っ提げて戻って来た。言葉は呑み込んで、小さく舌打ちをする。

「はい香坂さん」

「おー、サンキュー」

「ついでに君も」

カップを差し出され黙って受け取った。

「ありがとうは?」

兄貴はにやにやと笑いながら言い、棒読みでありがとうございますと言った。

「ほんっとお前も可愛くねえよな。ありがとうも言えない人間は社会のゴミだぞ」

「いやマジ兄貴には言われたくないっていうか…」

「いいんだよ香坂さん。別に彼にそんなの期待してないし」

ふうっとカップに息を吐きながら、月島も可愛げなく言う。
こいつに比べれば俺は可愛げの塊だ。ちょっと成績が良くて学校で大人しく振る舞っているからって皆簡単に騙されすぎだ。絶対自分の方が真っ当な人間なのに。
ちびちびともらったカフェラテを飲みながら会話を交わす二人をぼんやりと眺めた。
――顔は綺麗だし。
兄が言った言葉が耳元で再生され首を捻った。
あれは綺麗な顔なのだろうか。確かに成長しきれていない少年らしいあどけなさが残る顔つきだろう。自分と違い目つきも悪くない。
だけど、これを綺麗と形容していいのだろうか。兄の審美眼は疑わないが、根性曲りな性格を知っているからどうしても色眼鏡で見てしまう。中身を知らなければ綺麗と思うのだろうか。
あの人も言っていた。弟は性格は最悪だが自分と違って顔はいいと。
自分からすれば月島よりその兄の顔の方がいいと思うが、それは惚れたからであって、世間一般ではこいつの顔は評価に値する。らしい。
なんにせよ、自分には関係のない話しだ。月島が変態に襲われようがめそめそ帰ってこようがなにも変わらない。
こいつのことは嫌いなままだし、部屋にも寄り付かないだろう。むしろいい気味だ、くらいに思うかもしれない。それで性格が丸くなればこちらとしては万々歳だ。

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