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きっかけがなんだったか忘れてしまったが、同室者と大喧嘩の末枕をぶん投げられ、それが顔にクリーンヒットし、投げ返して自室の扉を乱暴に閉めた。
怒りで呼吸が荒くなる。
大股で兄の部屋を目指し、拳でノックすると兄の同室者が顔を出した。
眉間に寄せた皺を解除し、にっこり笑って兄はいますかと聞いた。
「…あー、月島の弟か。今風呂入ってるけどどうぞ」
「ありがとうございます」
小さく頭を下げ、先輩が背を向けた瞬間再び眉間に皺を寄せる。
リビングのソファに着くと何か食う?と簡易キッチンから声を掛けられお構いなくと返した。
先輩はもう一つのソファに座り、ぱきっと音を立てながらペットボトルの蓋を開けた。
ソファの背凭れに腕を伸ばしテレビを眺める様はいかにも頭が悪そうな風体で、自分の同室者を思い出す。
ちっと舌打ちしそうになり、いかんいかんと律する。
それより楓ちゃん早く風呂から出てくれ。コミュ障には知らない先輩と二人きりの空間は気詰まりだ。猫を被ることは可能だが、もって三十分。それ以上は無理。
「…呼んできてやろうか?」
ありがたい申し入れに、にっこり微笑みお願いしますと返す。
先輩が風呂の扉を開けた音、シャワー音、その後にはいつも以上に張った楓ちゃんの声がした。
戻ってきた先輩はがしがしと頭を掻いて不機嫌そうにした。
「もう少しで来るから。あいつ風呂長えからな」
「そうなんです。昔からよく湯船で寝るんです」
「ああ、ぽい。そのままずり下がってびっくりして起きんだろ」
「はは、それで毎回大騒ぎしてますよ」
先輩はふっと笑い、落ち着きないのは昔から変わらないんだなと言った。
笑うと眉が下がり、幾ばくかきつい印象が薄らいだ。
この先輩はよく知らないが、楓ちゃんと同室なんて苦労することも多いのだろう。うちの兄がお世話になっておりますと頭を下げたいくらいだ。
浴室の方からばん、がしゃん、と乱暴な音を立てながら楓ちゃんが慌てた様子でこちらに近付いた。
「なんだよ急に」
「別に」
「別にって…」
「今日泊めて」
「……お前、さては…」
「あーあー、聞きたくない」
両耳に手を当てぱたりと蓋をすると楓ちゃんは額に手を当てながら溜め息を吐いた。
「明日休みだしいいでしょ」
「…まあ、いいけど…」
ちらりと先輩の方を見ると、彼も構わないと頷いた。
「悪いな柴田」
「いいよ。弟の気紛れに付き合うのも兄の責務」
「ああ、お前も弟いるんだもんな」
「そうそう」
へえ、と目を丸くした。
他人であろうとも兄と名のつく人には無条件で甘えてもよしと判断してしまう。これを弟気質というのだろうか。
「じゃあ部屋行ってろ」
楓ちゃんが扉を指差したので、先輩にお世話になりますと頭を下げてからベッドに大の字になった。
枕を抱え、自室と同じ壁紙の天井を見上げる。あー、と無意味に小さく声を出し、ごろりと転がった。
扉が開く音がし、背中を思い切り叩かれ勢いよく上半身を起こした。
「いったいなあ!」
「喧嘩、したんだろ」
じろりと睨まれ言葉を詰まらせる。
「お前たちは毎度毎度、よく飽きずに喧嘩できるね」
呆れたように溜め息を吐かれ、だって、しょうがないじゃんと尻すぼみになりながら言った。
「どっちが悪いの」
「あっち」
「即答すんな。少しは考えろ」
「絶対にあっち!」
「お前さあ、小学生じゃねえんだから少しは自分の非も認めなさいよ」
返す言葉がなくて下唇を噛み締める。
わかっている。自分も悪かったと思う。売り言葉に買い言葉で済むくらいなら可愛いが、一度口を開くと無限に悪態をついてしまう。
お前の口は本当によく回るなと呆れられることも多い。
「お兄ちゃんなら弟をかばってもいいと思います」
「無条件ではかばいませんよ。お兄ちゃんだからこそ、弟の間違いを正すの」
「まだ僕が間違ったって決まったわけじゃないじゃん」
「お互い様なんだろ。それはわかる。でもお前は口悪いからなあ」
「楓ちゃんだって口悪いもん」
「もんって……。俺も説教できるほどできた人間じゃねえけど、無意味に傷つけるようなことは言わない」
「……僕だって…」
言いたいわけじゃない。止まらないのだ。考える前に言葉がすらすら出てしまう。頭ではよくないとわかっている。やめろ、やめろと警告してもどうしても止まらない。
何故だろう。他の人の前では上手に猫を被れるのに。
彼を前にすると台本でも読み上げているかのように、神経を逆撫でするようなことしか言えない。
「…お前は本当に弟君に甘えてんな」
「はあ?気色悪いこと言わないでよ」
「だってお前が本性出すの家族の前だけじゃん。いい子の月島薫を演じてんだろ?あれ見るたびに気持ち悪くて鳥肌立つんだよなあ」
「失礼だな。僕は余計な摩擦を起こさないようにしてるだけで…」
「その余計な摩擦はクラスの奴より同室者と起こしちゃいけないと思うけど」
「それは……」
「お前が悪態ついても許してんのは兄弟だから。他人じゃそうはいかねえぞ」
「…別に、どうせ嫌われてるし」
「あー、もう、本当にお前は」
苦笑した気配と共に頭を両手でわしゃわしゃとされた。
「ちょっと!」
「本当は悪かったと思ってんだろ。謝罪とお礼と挨拶は?」
「絶対すること」
耳にタコができるほど両親から言って聞かされた言葉だ。
楓ちゃんは忠実に守っているのだろう。兄も大概素直ではないし、強がって悪態をつくこともあるが、最終的にはきちんと謝罪ができるし、素直になれる。
だから香坂さんも愛想を尽かさず楓ちゃんを傍に置く。
これが自分のような性格ならとっくに捨てられていた。可愛げがないにもほどがあるから。
それができない自分は誰からも愛されないし、どうせお前が悪いんだろうと呆れられる。
因果応報、自分で撒いた種。わかっているが憮然とした。
どうしてこんな捻くれた性格になってしまったのだろう。どこで間違ったのだろう。両親や兄からはたっぷりと愛情を貰って育ったはずなのに。
俯くと、兄はぽんと背中を叩き、身体をぎゅうぎゅうと壁際に押し込んだ。
リモコンを操作し常夜灯に変え、タオルケットを腹まで引き上げる。
「…せっま」
「香坂さんと寝るときよりは広いでしょ?」
「何が悲しくていい歳した弟と同じベッドで寝てるんだろうって正気に戻った」
「いいじゃん。小さい頃はこうやって寝ることもあったし」
「ああ、お前が今より可愛くなかったときな」
「僕は昔から可愛いかったよ」
「いーや、ひどかったね。ひどかったけど、まあ、可愛い弟には代わりねえな」
回顧するように笑う楓ちゃんの腕にぎゅうっと抱きついた。
どんな僕でも受け入れてくれるでしょ?と兄には甘えてばかりだ。
「もう一度家訓を言いなさい」
「謝罪とお礼と挨拶は絶対すること」
「よし。明日には仲直りしろよ」
「ノーコメントです」
言いながら楓ちゃんの肩にぐりぐりと額をすり寄せた。
兄はそれ以上の説教はせず、空いた手でぽんぽんと背中を撫でた。大丈夫、お前ならできると言われているようで、明日の自分はきっと上手にできるはずと希望が持てた。
なんて、この性格が一朝一夕で変わるなら苦労はしない、謝りに行くどころか兄のベッドでごろごろと一日を過ごした。
最初はいつ帰るんだと尻を叩いていた兄だが、無視を決め込むと諦めたのか口を出さなくなった。
ファミレスに行って夕飯を済ませ、戻ると先に風呂入れと言われたので大人しく従った。
脱衣所に置いてあった兄のTシャツを着て、ズボンがないことに気付く。
置き忘れやがってと口の中で文句を言いながら扉を開けた。
「楓ちゃん!ズボンは!?」
室内に視線を向けた瞬間ぴしっと身体が固まった。
兄と香坂が対峙して談笑していたからだ。
香坂はこちらを見るとむっとしたように表情を硬くし、自分も負けじと睥睨した。
顔を見ると怒りがぶり返す。昨日のことだけでなく、今まで蓄積された怒りすべてが。
「お迎えだぞ」
「僕は帰らない」
「薫ー」
兄は困ったように呟き、悪いと香坂に小さく謝る。
謝る必要なんてない。迎えなんて頼んでないし、仲直りするような友好的な気配もないではないか。
どうせ今戻っても同じことの繰り返しで、兄に泣きつく破目になる。
それならもう少し冷静なときに話した方がいい。彼と対峙すると冷静なときなんてないのだけれど。
「薫、俺昨日言ったよな」
想像以上に厳しい声色で兄に咎められ俯いた。
Tシャツの裾をぎゅうっと絞るように握り、言い訳で頭をいっぱいにした。
「月島」
咄嗟に顔を上げると、顎をしゃくられ、香坂は帰るぞと背中を向けた。
二人から責めの気配を感じ、居た堪れずにとぼとぼと香坂の背中を追った。
「薫、大丈夫。お前は優しくていい子だ」
な、と頭を撫でられ、小さく頷く。
扉を抜けようとした瞬間、リビングにいた先輩におい、と呼び止められた。
「ズボン」
「あ……」
三人揃って間抜けすぎて、一しきり笑った後楓ちゃんの短パンを履いて今度こそ廊下に出る。
ちらちらと背中に視線をやり、今日こそは喧嘩せずに済みますようにと願う。
自分次第なのだから神頼みしても仕方がないのだけれど。
自室につくと彼はベッドに腰かけながらこちらを睨んだ。
自分が悪いのは認めるが、こいつだって最初から喧嘩腰でくるのも悪いと思う。
そんな風にされるとこっちも身構えてしまうではないか。
「…な、なんで迎えに来たの」
「お前の兄貴に泣きつかれたから」
ということはなにか。彼に仲直りの意志はなく、楓ちゃんが言ったからほいほい言う通りにしたというのか。
相変わらず楓ちゃんには弱く、兄に付き従う犬だ。
好きな人の頼みは断れないとか、そういうことだろうか。
「あー、そう。君楓ちゃんの言うことは何でも聞くんだね。死ねって言ったら死ぬの?」
イライラする。
奥歯を噛み締め、いや、待てよと思う。
なぜイライラする。迎えに来るなど大きなお世話だった。仲直りなんてしてやるもんかと思っていた。彼も同じだったというだけ。
苛立つということは何処かで期待していたのだ。あちらから折れてほしい、この部屋に戻りたいと。
香坂に甘えてると兄に言われた。そんなわけないと突っ撥ねた。
だけど、本当に?どこかで彼なら大丈夫と驕っていたのではないだろうか。
「そんな風に言うこと聞いたって見返りなんてないのにさ。楓ちゃんは香坂さんと別れないよ。いい子にしてたらご褒美があると思った?」
ああ、また始まった。
なんで、なんで、なんで――。
「それとも香坂さんじゃなくて君を頼ってくれたのが嬉しかったの?頑張ったって恋人の弟としか見られないのに馬鹿みたい。プライドとかないの?」
だめだ、すぐに止めなければ。
こんなことが言いたいんじゃない、本音なんかじゃないんだ。
「傍から見てると可哀想になるんだよ。全然相手にされてないのに一生懸命尻尾振って。楓ちゃんには香坂さんしか見えてないのにご苦労なことだなって」
息を吐き出すと、香坂は眉を下げて苦笑した。
「……わかってるよ、そんなこと」
想像していた反応と違い、胸がずきずき痛んだ。
また傷つけた。
香坂は悪くないのに。苦しい失恋をして、それでも楓ちゃんと関係を絶ち切らずに兄の恋人として認め、なんともないように振る舞って。わかっているのに。彼が血を吐く思いでそうしていること。
なんて奴だ僕は。
相手が隠そうとしている傷を無理矢理こじ開け、徒にナイフを突き刺して。
香坂が自分の意志で来なかったことが悲しくて、だけどその感情を認めたくないばかりに怒りに変えて。
最低、最悪、詰られるのは自分の方だ。
ごめんなさい、簡単な言葉がなぜ口から出ない。どうでもいいことはすらすら言えるのに。
大事な言葉ほど短い。短いから言えない。
「…今日は俺が出て行くから、お前は部屋にいろよ」
腰を上げた彼が横切り、真っ直ぐ玄関に向かっていく。
靴を履きかえる音がするのに脚が動かない。拳を作って瞳をぎゅっと握った。
謝罪とお礼と挨拶は絶対。わかってる。当たり前のこと。その当たり前ができない自分はなんて愚かなのだろう。
馬鹿じゃないの、と普段見下している奴らの方がよほどできた人間だ。
どんなに勉強ができたってこんな風じゃ欠陥品の烙印を押される。
そういう人間は世間と繋がれず狭い箱の中で腐り、憎悪を溜め込み、周りを敵と見做してますますだめになっていく。
ぞっとして、慌てて背後を振り返る。香坂に手を伸ばし、今まさに出て行こうとする服をぎゅうっと掴んだ。
「……なに」
「…い、行かなくていい」
「…悪いけど、お前と一緒にいたくない」
冷たく突き放すような言葉にじわじわと涙が溜った。
兄の言った通りだ。血縁者なら呆れても絆が切れることはない。でも他人との糸は簡単に切れてしまう。こんな性格のせいで。
「…ち、違うんだ」
「なに」
「だから、その……」
頭の中が今までで一番混乱した。
どうにかしないと、香坂は二度と自分の前に現れない気がした。
なのに方法がわからない。こんなときに回らない口なんて無用の長物。
「う……」
嗚咽が零れそうになり俯いて歯を食い縛った。
「え、なんで泣いてんの…?」
「な、泣いでない…」
「泣いてんじゃん。泣きたいのはこっちなんですけど…」
その通りだ。傷つけた方が泣くなんてどうかしてる。
頭の作業領域がぱんぱんで、ぼん、と破裂して煙が出そうな代わりに涙が溢れる。
泣き脅しのようで申し訳ないし、こんなのは汚い。
「う、うぅ…」
「あー、はいはい、わかったから落ち着け」
香坂は扉を閉め、腕を掴んでベッドに座らせた。
手を放されどこかへ行く気配を察し、慌てて服を掴んで引っ張った。
「ティッシュとるだけだっつーの」
嘘だ。面倒くせえなと放置してどこかへ行くのだ。
「ううー…」
ぐいぐい引っ張ると、観念したように隣に着いた。
楓ちゃんには悪いが、Tシャツの裾で顔をごしごし乱暴に拭く。
「傷になる」
やめろと手を握られ、言う通りにしたがぼろぼろ流れ続けるので鬱陶しい。
「…ご、ごめん」
嗚咽にならぬよう、絞り出すような声になった。
「ほ、本当にあんなこと思ってるわけじゃ、ない」
「……うん」
「か、悲しかったから、むかついて……」
「なにが」
「…楓ちゃんに言われたからって。ぼ、僕となんか、仲直りしたくなかったんだって」
「…それで?」
「っ、それで、口ひらくと、傷つける、ことばっかり言って、でも、本音じゃない。いつも、本音じゃない…」
ひ、と喉を引きつらせると、香坂はこちらに手を伸ばし頭を抱えてくれた。
「コミュ障が。文句言わねえと俺と話せねえのかよ」
「…う、ごめん…」
「…いいよ」
「よくない。楓ちゃんにも怒られた。僕も、だめだってわかってる…」
「…うん」
香坂は責めるようなことをなにも言わない。だからこそ申し訳ないし、涙は止まらないし、頭は熱を持ったように動かないし、もう、ぐちゃぐちゃだ。
「…面倒くせえ奴って思ってるでしょ」
「思ってる」
「う……」
香坂は、だばー、と流れる涙を親指で拭いながら困ったように笑った。
「兎みたいな目になってる」
「う、うるさい。馬鹿にするな」
「可愛くねえなあ」
「う、うわー」
「うそうそ。わかったから」
頭を片手で抱えたまま撫でられ、心の中で何度もごめんを繰り返した。
自分に触れてくれる人は兄くらいしかいなかった。
他人の温度は心地いいものだとぼんやりする頭で思い、香坂だからだろうかと考えた。
暫くそうしていると次第に涙が引っ込み、引きつりすぎて喉が痛くなった。
「落ち着いた?」
「……うん」
「じゃあもう寝ろ。余計なこと考えるとまた涙出るぞ」
「…うん」
離れがたく、楓ちゃんにしたように香坂の腕をぎゅうっと握った。
「…一緒に寝る?」
顔を覗き込まれたので、正常に働かない頭のままこくりと頷いた。
香坂の鎖骨に額をすり寄せると、頭を抱えるようにぎゅうっと力が込められた。
多分、自分の気持ちの半分も彼には伝わってない。
まともに謝ることもできなかった。同じ状況は二度と作らないのが一番だが、この捻くれた性格は簡単には矯正されないので、万が一次があったら今日より上手に謝れるように頑張る。
だからどうか、しょうがない奴だと呆れないで。やってられないと愛想を尽かさないで。
次は、明日は、明後日は、そうやって積み重ね、笑って君と話せるようになるから。
ぐすっと鼻を啜り、意識を失いように深い眠りに落ちた。
翌朝、瞳を開けると香坂の寝顔が視界いっぱいに広がっており、ぎゃーと騒いで飛び起きた。
朝からうるさいと眉を寄せる姿を見ているうちに昨晩のことをじわじわと思い出し、壁に頭を打ちつけた。
「…なにやってんのお前」
「う、うるさい!」
「…ああ、いつものお前に戻っちまったんだな。可愛かったのに」
「忘れろ!二度とそのことは口にするな!」
「はいはい」
膝を立て、そこに額を乗せて後悔の嵐に身を寄せた。
どうかしてた。本当にどうかしてた。誰でもいい、僕を地中深く埋めてくれ。
END
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