狡兎死して走狗烹らる
重い荷物を引き摺って自室の扉を開けた。瞬間、中からふわりと温かい空気が流れ、驚いて中を覗き込んだ。
「…なんで君がいるんだろ…」
長期休暇に入る前にしっかりとエアコンのスイッチは消したし、コンセント類もすべて抜いていたのでおかしいと思ったのだ。
ベッドにうつ伏せになってスマホを操作する後姿にげんなりする。
「こっちのセリフだ」
同室者はこちらを確認して顔を顰め、折角一人で静かに過ごせると思ったのに、とぶつぶつと文句を言っている。
お互い様だ馬鹿野郎。心の中だけで罵倒して荷物を机の傍に置いた。
ふう、と一息ついてベッドにどさりと座った。自宅から寮まで電車の中でも立ちっぱなしで、肩は凝るわ足は疲れるわで散々だった。
「君、いつ帰ってきたの?」
「あー…。三日前」
「なんで?出てけって言われた?」
「自主的に避難したんだよ」
「避難?」
首を傾げると、溜め息を吐かれ、然も面倒と言わんばかりに説明してくれた。
「兄貴が受験勉強の八つ当たりしてくるから。親も目の前でいちゃいちゃするし、面倒だから帰ってきた」
「なるほど…」
それはご愁傷様。こちらも似たようなもので、香坂さんが構ってくれない分、楓ちゃんは毎日地元の友人と夜遅くまで遊び続け、夜中に母親と口論になっては起こされていた。
高校生が出歩く時間じゃないだの、少しは勉強しろだの、薫を見習えだの、母の説教は毎日ワンパターンで、楓ちゃんも適当に聞き流せばいいものを、ストレスが溜まっているのか口答えするものだから母の怒りが収まらない。
父が間に入って不完全燃焼のまま無理矢理終了させられ、そして翌日もそれが続く。
色んな意味で楓ちゃんは馬鹿だ。器用に要領よくこなせない。
親を怒らせてもいいことなど一つもないのに。欲求不満なのだろうか。自分はそういう欲が薄い方なので兄の気持ちはわからない。
とにかく、耳障りな声が不快で仕方がなくなり、母に寮へ戻ると言って家を出た。
こういうとき、寮生活をしていてよかったと思う。逃げ場があるから。それはきっと彼も同じだろう。
「お互い、兄貴に苦労してるね」
同士よ。今だけはがっしりと握手してもいい。その後数十回は手を洗いたくなるだろうが。
「…あの人も荒れてんの?」
「まあ。香坂さん不足なんじゃないの?」
「兄貴も会いたい会いたいってうるさかった」
「やりたい、じゃなくて?」
「…折角オブラートに包んだ言い方したのにお前は…」
図星だったらしい。ストレスが重なると余計そういう方面で発散させたくなるものなのだろうか。理解できないが、確かに手っ取り早いような気がする。
試験は目の前で、この休みが勝負だ。会えばそれだけじゃ済まなくなるとわかっているから二人とも物理的に距離をとっているのだろう。
楓ちゃんは我慢が苦手だ。自分のせいで色んなものを我慢した反動かもしれない。お兄ちゃんでしょ、という常套句に薄らと涙を浮かべる幼い兄の姿を覚えている。
「まあ、しょうがないね。暫くすれば試験も終わるし、弟は耐えるしかない。こうして逃げ場もあるし」
「…兄貴がここまで追って来なきゃいいけど」
彼は深く、長い溜め息を吐いた。
自分は精神的にやられたが、彼は肉体的にやられたのかもしれない。
どちらがましかと聞かれてもわからないが、迷惑を被る弟の辛さは理解できる。
楓ちゃんが余計な事件に巻き込まれませんように、願いながら自分も溜め息を吐いた。
連日の寝不足がたたり、あの後暫く眠っていた。
目を覚ますと部屋の中はすっかり暗く、同室者の方へ視線を移すと僅かな光りを集めて相変わらずゲームをしていた。
「…目、悪くなるよ…」
寝起きのせいで舌足らずになる。
彼は一瞬こちらを見て、もう悪いから構わないと言った。
「気、遣わなくても電気つけていいのに」
「お前の顔色があまりにも悪かったから」
「ああ、そ…」
相変わらず変な奴だ。
僕のことを気に入らない、嫌いだ、殴りたいと常々言うくせに、しっかりと気を回してくれる。きっと恋人や旦那にしたら幸福にしてくれるタイプだ。見た目と中身がちぐはぐすぎておもしろい。細かな気遣いなど縁遠そうな顔をしているくせに。
「…今何時?」
「あー、もうすぐ十二時」
「え…」
驚いて勢いよく身体を起こした。
今日は大晦日なので、もうすぐ新年が始まるということだ。
「寝てる場合じゃない。初詣行かなきゃ」
「…は?お前そんな柄か?」
「そんな柄ってなんだよ」
「神頼みとか下らねえって斜に構えてそうじゃん」
「失礼な言い方するね。まあ、神様は信じてないけど、初詣は習慣なんだよ。朝起きて歯磨きするのと同じ。行かないとなんかもやもやする」
「あっそ」
「君も行く?」
「行かない」
「香坂さんに学業成就のお守り買ってあげたら?」
「やだね」
「感激して今までのあれこれを悔い改めるかも」
「そんな兄貴なら今俺はここにいない」
「…確かに」
椅子の背にかけていたコートを羽織り、財布と携帯をポケットに入れた。
毎年楓ちゃんや両親と行っていたので、一人の参拝は初めてだ。
それもたまにはいいかもしれない。一歩踏み出し、大事なことに気付いた。神社への道がわからない。
「…君神社の場所わかる?夏に花火が上がるとこ」
「ああ、なんとなく」
「紙に書いてくれ」
いらない紙とペンを差し出し、ペンを走らせるのを上から覗いたがまったく地図になっていない。
「ほらよ」
「…全然わからない」
「あ?わかりやすいっつーの。こんだけ田舎ならなんとなく歩いてればそのうち着くだろ」
「田舎だからこそ暗くて道がわからないじゃないか。やっぱり君も来てよ」
「だからなんで俺が。勝手に行って勝手に迷子になってろ」
「嫌だよ。熊とか出たらどうするんだよ」
「熊は冬眠中だしそもそもここにはいねえよ」
頑として譲らない姿勢に苛立つ。道案内くらい人助けだと思ってしてくれてもいいのではないか。逆なら絶対に嫌だけど。自己中心的な我儘だが、今までその我儘が通ってきたのでむきになってしまう。
「仕方がない。じゃあ僕も何かするから」
「…なんでも?」
「応えられる範囲なら。楓ちゃんのパンツほしいとか言われても無理だからね」
「言うわけねえだろ」
彼はうーんと悩み始め、はっと顔を上げた。
「じゃあお前暫く俺のぱしりな」
「…ぱしり?」
「そう。俺がご主人様で、お前が犬。丁度戌年だし」
「は…?ご主人様って…。さっむいんだけど」
「あーそう。じゃあこの話しはなし。初詣諦めるか勝手に道に迷うか、好きな方選べよ」
ひらひらと手を振られ、ぎりっと奥歯を噛み締めた。
たかが初詣。されど初詣。毎年の習慣なので、それをしないと一年が始まった気がしない。誰だって歯磨きをしなければ気分が悪いだろう。それと同じだ。かと言ってこんな寒空の下道に迷うのも嫌だ。携帯の地図で調べる手もあるが、長時間は耐えられない。こんな田舎では初詣に行く人を見つけるのも難しいだろう。
「わかった。君の条件呑むよ」
「嘘だろ?」
自分で言ったくせに心底驚いた顔をされた。こいつは馬鹿か。
「お前が?犬になんの?そんなに行きてえの?」
「別に死ねって言われてるわけじゃないし、それくらいなんてことないよ。そんなにプライド高そうに見える?」
「見える」
「それは随分誤解されたもんだ」
「犬は賢い動物で、犬以下のお前がご主人様なんて笑わせるとか言いそう」
短い付き合いのくせに彼は自分のことをよく理解している。まさしくそう思った。
しかし、背に腹は代えられないという言葉もあるし、彼は犬という動物をどう解釈しているのか知らないが、いるだけでいい、愛玩犬というものがこの世には沢山いる。事実、彼らはそこに存在するだけで価値がある。自分も彼の気が済むまでそういった犬になろうではないか。
「…わかったよ。ちょっと待ってろ」
自分の気迫を感じてか、彼はダウンコートを着てマフラーをぐるぐると巻いた。
「行くぞ」
彼の後ろをついて行く。
外は想像以上に寒く、しんと冷えた空気がぴりぴりと肌を刺した。
今年の正月は例年よりは暖かいと天気予報で見たのだが、この地域には該当しなかったか、これでも暖かい方なのか。
途中、自販機でホットココアを買い、それで両手を温めた。
息を吐く毎にすぐに凍ってしまいそうだ。そこまでの気温ではないとわかっているが、都会の真ん中生まれにこれは辛い。
「君は寒いの得意なんだね」
ずんずん前を歩く背中に向かって言った。
「嫌いに決まってんだろ」
「そうかな。身体も丸まってないし、気にしてなさそうだから」
「着込んでるし。逆に何で寒いのにマフラーとか手袋とかしてねえの?」
「こんなに寒いとは思わなかった」
「ばーか」
「馬鹿って言う方が馬鹿」
「ガキか」
ふっと彼が笑ったので、つられて笑いそうになって急いで顔を引き締めた。
なにをのほほんとした空気になっているのだ。そんなの自分たちには不釣り合いすぎて吐き気がする。
それ以上は口を開かず、彼の足元を見てただ進んだ。
急勾配の坂と階段を上り切り、漸く拝殿まで辿り着いた。荒い息を整える。汗を掻きそうなほど熱い身体とは逆に、鼻の頭はきんと冷えたままだ。
参拝客はまばらで、ここまでの道でも人と擦れ違わなかったので、彼に頼んで正解だった。
御手洗で手を洗い、口を漱いだ。びっくりするくらい水が冷えている。
「…それ、なにしてんだ」
「穢れを落としてから参拝するのが礼儀でしょ」
「ふーん」
「ほら、君も。左手に水をかけてから右手にもかけて、左手で口をすすぐんだよ」
「面倒なんだな」
「罰当たり」
彼は文句を言いつつも言う通りにし、賽銭箱の前に二人並んだ。
財布から適当に小銭を掴み、賽銭箱に投げた。鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼する。
彼もこちらを見て、同じようにしているのが気配でわかった。
毎年特に願うことはなく、せいぜい家内安全、無病息災くらいだ。
頼んでも仕方がないと理解しているので、初詣もただの習慣で、だけど強迫観念に似た気持ちで毎年来てしまう。
彼はなにを願ったのだろう。家族のことか、楓ちゃんのことか。口ではあんな風に言うが、香坂さんの受験が上手くいくようにと願ったのかもしれない。
聞かないし、聞いたところで素直な答えはないだろう。
鳥居を抜け、再び急な階段を下りる。汗を掻いて、寮に着く頃にはすっかり冷えているだろうと思うとうんざりする。
「お前運動不足すぎだろ」
すたすたと階段を下りる背中に向かって待てと言うと、呆れたように溜め息を吐かれた。
「君も部活に入ってないし、同じようなものだろ…」
「俺は遊びに行ったりして歩いてる。お前は部屋に引きこもってばっかりじゃん」
「そんなことない」
むきになって反論したが、彼の言う通りだ。遊びに行こうとクラスメイトに誘われることもあるが、長時間猫を被るのが苦痛で、やんわりと適当な理由をつけて断っている。
相手に合わせたり、器用に言葉を操って表面上を綺麗にコーティングするのは得意だ。
だけど、特定の人物と距離を縮めるのが酷く不快で面倒と感じてしまう。
歩く速さをおとしてくれた彼の背中を見て首を捻った。
家族以外と外出するのは苦手だった。だけど今自分は息苦しくないし、無理もしていない。最初から猫を被っていないせいかもしれない。パーソナルスペースを守ってくれるからかもしれない。色んな理由を並べて、どれにも当てはまらないような、正解が欠けているような気持ち悪さが胸を占めた。
「なんか買ってくか?」
「え?」
「コンビニ。寄るか?お前夕飯も食ってねえだろ」
「あー、うん」
光りに集まる虫と同じで、人間も寒い夜は特に煌々と光るものに吸い寄せられる。
コンビニで適当に数日分の食糧を買い、ついでに正月らしいことをしたくておしるこを二つ買った。
外に出てから一つの缶を彼に差し出した。
「あげる」
「早速犬の真似か?偉い偉い」
ぶっ飛ばすぞ。喉まで出かかった言葉を呑み込む。ただの親切心とちょっとした礼なのに。
甘ったるいしるこを飲んで身体を温めようと思った。案の定汗が冷え、小刻みに震え始めたからだ。
亀のように首を竦め、ピーコートの襟を立てた。どんなに前をぎゅっと合わせても隙間から風が入り込んでくる。
妥協して、日が昇ってから、もう少し暖かい時間に来るべきだった。
同じ東京なのにこんなに気温差があるとは思わなかった。楓ちゃんが学校付近は東京じゃないと愚痴っていたが、その意味が漸くわかった。
「…おい、大丈夫か?」
「…なにが」
「震えてんぞ。チワワか」
「チワワに失礼だろ」
「だな」
即答されて、なに馬鹿な会話をしているのだと正気に戻る。
「ほら」
彼が自分の首に巻いていたマフラーをとり、僕の首にぐるぐる巻きにした。
「…いいよ」
「風邪ひいたらご奉仕できねえだろ、ポチ」
今度こそぶっ飛ばす。軽く脛に蹴りを入れ抗議した。もう、寒すぎて口も開きたくなかった。
「いった。そういうことするとマフラー没収すんぞ」
手を伸ばされたので慌てて逃げるようにした。強がっていらないと言ってやりたいが、首が暖まるとだいぶ楽で、今は彼の好意に助けられている。言動に問題ありだが。
「帰ったら風呂沸かした方いいぞ」
忠告に素直に頷く。山奥の秘湯に浸かる猿の気持ちがよくわかる。自分だったら入ったまま、冬が終わるまで出ないかもしれない。
行くぞと顎をしゃくられ、彼の後ろを歩く。行きと同じ、彼と自分の間の人一人分の距離。楽しい会話も笑顔もない。一つ違うのは、彼のマフラーから咽返るような香水の香りがして、なんだか眩暈がしそうなことだ。
END
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