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無言でさっさと電車に乗った香坂に倣い、よくわからないまま自分も電車に乗り込んだ。

「どうしたの」

「…悪いな、邪魔して」

「いや、帰りたかったからいいけど、君は楽しんでたんじゃないの」

「あいつら悪魔だぞ」

香坂は顔を青くしながら両手で覆うようにした。

「悪魔…」

「お前がいないから代わりに昂太がクジひいたんだけど、お前とキスしろって命令されて…」

「…ああ、だから二人で逃げる破目に」

「誰か止めるかと思ったら誰も止めねえし、あいつらのサドっぷりが怖い」

「女の子も味方になってくれなかったか。ご愁傷様」

「悪魔はお前だけで十分なんだよ」

「はあ?こんな善人捕まえてなに言ってんだか」

「本気で言ってるなら社会病質者」

「腹立つな…」

ごとん、ごとん、と電車の揺れに身を任せ、でもまあ、無駄な嘘をつかずに済んだし、早く切り上げたかったし、今日は彼の突飛な行動に感謝しよう。
学園の最寄駅で降り、香坂は途中コンビニに入りアイスを差し出した。

「詫び」

「やっす」

「じゃああげない」

取り上げられそうになったのを片手で奪い封を開けた。しかしこの暑さだ、僅かな時間で溶けてくる。
香坂のシャツを引いて途中の公園を指差した。

「座って食べたい」

「なに坊ちゃんみたいなこと言ってんの?」

「育ちがいいんだよ。君と違って」

「あー、はいはい」

本当は器用に歩きながら食べられないだけなのだけど。
夕食の時間だからか、公園に人はおらず、夜の冷たい風を頬に浴びながら溶けかけのアイスを頬張った。
香坂は腰を折るように携帯を操作し、こちらに視線を上げた。

「連絡先教えてほしいってよ」

「は?」

「さっきお前と一緒にいた子。お前の連絡先教えてほしいって」

「あー、悪いけど断って」

「なんで」

「面倒だから」

「お前なあ…」

呆れたように言われたが、香坂はぽちぽちと携帯を操作し、角が立たない方法で断ったと教えてくれた。

「あの子は好みじゃない?」

「…好みとかわからないんだってば。可愛いと思うよ。女の子ってだけで可愛いし。でもやっぱりあんま興味持てない」

「ふーん」

お子様だとか、童貞だとか馬鹿にされると思いきや、香坂はそれ以上は何も言わない。

「いつになったら興味持てるんだろ」

天を仰ぐようにぽつりと弱音を吐いた。

「さあな。一生持たない奴もいるんじゃねえの」

「それはさすがに…」

「自分がそれで不自由しないならいいんじゃねえの。恋愛なんて絶対しなきゃいけないことじゃないんだし」

「そうだけど、なんかこう、もやもやする」

はっきり言葉にできない気持ちが気持ち悪い。
香坂はふっと笑い、らしくないと本日二度目の言葉を口にした。

「みんなと同じがいいなんて思う奴じゃねえだろ」

「…同じじゃなくていいけど、大事な感情が欠落してる気がする」

「あ、ようやく気付いた?」

「は?」

「冗談」

「…僕は勉強以外ないんだよ。普通の高校生らしくないし」

「勉強があるだけいいだろ。俺を見ろ。勉強すらない」

「ああ、うん…」

「素直に頷かれるとむかつくな」

そうは言ってみたが、彼の方がたくさんのモノを持っている。
たくさんの友人、女性との関係、楓ちゃんに恋ができる真っ直ぐな心、コミュニケーション能力。
僕たちは互にないものを相手が持っている。ただ、僕が持っている分量が極端に少ないので彼の方が比重が大きく、それが悔しくて悪態をついて毒を吐きたくなる。
ああ、成長してないな。楓ちゃんに突っかかってはいなくなれと言っていたあの頃とまったく同じだ。
自嘲気味な笑みが浮かぶ。自分はこうして、クソガキのままなにも変わらず斜に構えて生きていくのだろうか。

「君が羨ましいよ」

「…お前、マジでどうしたよ。暑さでやられたか」

やっぱり羨ましくない。ふん、と顔を背けると思いきり背中を叩かれた。

「なにを考えてんだか知らねえけど、考えすぎなんじゃねえの。お前は頭いい分深淵まで覗きそうだもんな」

「君、ニーチェなんて知ってるの?」

「ニー…なに?」

「怪物と戦う者はその過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。善悪の彼岸でしょ?」

「いや知らんけど」

かくっと肩から力が抜ける。彼に教養を期待した自分が愚かだった。

「でも、そうだな。お前は怪物にはなれないし、なろうとすれば呑み込まれて苦しむタイプだな」

「さっき僕のこと悪魔って言ってなかった?」

「悪魔と怪物は違えだろ。悪魔は人の気持ちを理解してる」

「…そうかな」

「だから誘惑できるんだろ?」

「そうか。じゃあ僕も人を誘惑できるってことか」

「そうだな。ツラだけは綺麗らしいからな」

香坂はこちらに手を伸ばし、前髪を上にあげてじっとこちらを見詰めた。

「な、なんだよ」

「…うーん、やっぱわかんねえわ。好みじゃねえんだろうな」

「君の好みに属さなくて心底安心するよ」

言いながらもちくりと胸が痛んだ。兄の楓ちゃんのことは好きになったのに、自分には辛辣で、やっぱり僕は楓ちゃんのような人間には逆立ちしてもなれなくて、勉強ができたって圧倒的に足りないものばかりで、愛される価値のない人間なのだと言われた気分だ。
自分は誰かに愛されたいのだろうか。両親も兄も愛してくれるのに、他の愛までほしがっているのだろうか。
兄ではなく、自分を選ぶ人間を探しているのかもしれない。
同じようにならなくていい、そのままで十分だと言ってくれる人を。
隣の香坂を見上げた。こいつにいつか言ったっけ。香坂さんじゃなく、君を見てくれる人がきっと現れると。あれは自分自身がほしい言葉だったのではないか。

「…君だけを見てくれる人は見つかった?」

「…さあなあ」

「早く見つけてくれよ」

「なんで」

「君が見つけられたら僕も…」

見付かる気がする。言いかけて口を閉じた。
香坂の言う通り、今日はなんだからしくない。感傷的になって自棄くそで合コンなんか参加して。

「月し……薫」

顔を上げると苦しそうに笑う顔があった。頭をくしゃりとされ視界が歪む。

「ちょ、っと」

「…薫」

何度も名前を呼ばれ、込み上げてくるなにかを堰き止めるせいで喉が痛くなった。
薫なんてただの名前、個を判別するだけのもの。でもその個がほしくてたまらなかったのだ。
月島楓の弟ではなく、薫として見て欲しかった。ずっと、ずっと昔から。
香坂は頭から手を放し顎の付け根を固定させると顔を寄せ、次にはこめかみに唇の感触があった。
慈しむように優しいそれが離れ、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。

「…なに」

「なにって、今日キスの日だろ?」

「キスの日…」

「あ、そういうのは知らねえんだ」

「知らないし、君からのキスなんていらないんだけど」

「落ち込んだときは人肌に安心するもんだぞ」

「落ち込んでませんけど」

「そりゃよかった。大人しいお前なんて気持ち悪いからよ」

香坂は、よ、と掛け声を出しながら立ち上がり背中を向けた。

「こう……京」

小さく呼ぶとこちらを振り返った香坂が夕闇の滲むような藍に溶けていく。
待ってと手を伸ばしそうになって拳を作る。馬鹿な。小さく呟き俯いた。
ひどく絡まっているような、でも一方を少し引けば簡単に解けるような、そんな感情を持て余す。

「置いてくぞ」

「…先、行って」

無言で去って行く後姿を眺め、手元に視線を戻した。
深淵に足を掴まれた気がする。もう戻さない、同じ場所には決して。そう最終宣告されそうで、だけどそんな感情を腕に抱いたままでは彼に合わせる顔がなくて、先ほど唇が触れたこめかみに手を添えた。

「おい」

その腕を引かれ瞠目し顔を上げると香坂が眉間に皺を寄せていた。いつの間に戻ったのだろう。足音にも気付かなかった。

「…悪かった」

「…なにが」

「そんなに嫌だと思わなかった」

「そんな…」

ことはない。なんておかしな答えではないか。
そうだ、気持ち悪い、反吐が出ると言わなければいけないのではないか。どうして悪態をつけない。彼がこちらに手を伸ばした瞬間でも安心して、嬉しいと思った自分を蹴り上げたい。
混乱し、わからなくて、うろうろと視線を彷徨わせた。

「…悪かったよ。同じノリでやっちまった」

ああ、そうか。彼にとってはこんなこと大した出来事ではなくて、友人とも恋人でない女性とも挨拶代わりにできることなのだ。
拘って、慰めにしようとした自分の世界の狭さを痛感する。

「…別に、気にしてないし」

香坂は握っていた腕を放し、もう二度と触らないからと言った。
そうじゃないのに、また自分はこうやって大事な場面で言葉を押し込める。
沢山の言葉を知っていたって口に出さなければ意味がないのに。勉強ができたって実生活で役立たないならそれは無価値だ。

「謝るから、とりあえず臍曲げてないで帰るぞ。俺はどっか泊まるから」

違う、違う、違う。
ああ、感情が色になって彼の目に見えてくれたら楽なのに。

「…あー、いや、いいや。俺このままどっか行くからちゃんと帰れよ」

寮とは逆方向に歩き出したのを確認しベンチから立ち上がった。
どこかってどこ。友人たちのところへ戻るのだろうか。肩に手を回した女性に、自分にしたように気安く触れるのだろうか。そんなの香坂の勝手なのになんだかおもしろくない。考えるより先に身体が動いた。
香坂のシャツを引っ張り、力一杯後ろに引く。バランスを崩した彼を受け止め、違う、とぽつりと呟いた。

「お、怒ってないし、嫌じゃない」

「…あ、そう」

「と、友だちのノリとか知らないからちょっとびっくりしただけ」

これが正解?不自然ではない?
人によって最適解が違う問題の答えを探りながら口にするのがこんなに大変だと知らなかった。

「……腹減ったな」

「え?あ、うん…」

「学食まだ間に合うな」

「…そうだね」

「帰ろうぜ」

ネクタイを犬のリードのように引かれ、さっさと歩く香坂の背中を追った。

「おい!放せよ!」

「だってお前引っ張らないと動かねえじゃん」

「動く!もう動く!」

「あ、そ」

ネクタイと一緒に引っ張られた首に手を当て、まったく、と小さくごちた。

「犬は君の方なんじゃないの?」

「あ?」

「楓ちゃんといるときの君、見えない尻尾を左右に振ってる」

嫌味たっぷりに言ってやったが、意外にも彼はくっと笑っただけだった。

「そりゃな、あの人のこと好きだからな」

清々しいほどはっきり言われ、一瞬息を呑んだ。
わかるよ。僕も楓ちゃんが好きだ。明るくて、優しくて、大事なモノのために立ち向かえる勇気があって、そんな楓ちゃんの視線を独り占めしたいと思うのだろう?わかるよ。
なのにどうして自分の内側がこんなに軋むのだろう。腹の奥の方が捻じれるように痛んで、心臓を鷲掴みにされたよう。
覚悟を持つ前に殴られたような感覚に指先が冷たくなる。

「…やっぱり早く彼女作ってよ」

「なんで?」

「なんでも…」

まだ間に合うと思う。今ならまだ。そうでないと自分はきっと――。
感情の激流がくる気配に身体を小さくした。
もう同じ場所には戻さない。
掴まれた足首に絡みついた黒い手はそのうち身体すべてを浸食して、脳味噌を揺さぶって心を破壊していく。
同じ場所に戻れないなら、僕は一体どこに辿り着くのだろう。
初めての怖れを感じた日を一生忘れないのだろうなとなんとなく思い、これから先の痛みを想像して苦笑を浮かべた。


END

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