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寝る準備をしようと洗面台に立った瞬間、今朝歯磨き粉を使い切ったことを思い出す。
平たくなった容器を指でつまんでひらひらさせ溜め息を吐く。
コンビニに買いに行かなければ。昼頃までは覚えていたはずなのに授業終了のチャイムと共に真っ直ぐ寮へ戻り今に至る。
非情に、この上なく面倒だ。仲の良い友人の一人でもいれば貸してと言えるのに。
泉なら嫌な顔せず笑ってくれるだろうか。だけどわざわざ歯磨き粉のために二年の寮棟へ行くのも面倒だし、今晩を凌いでも明日の朝困る。明朝もどうにか凌いだとしても次の夜、また買い忘れたと四つん這いになって項垂れる。そんな自分が簡単に想像できる。
歯ブラシをコップに放り投げ、諦めてスウェットから洋服に着替えた。
ダウンコートを羽織りスマホアプリで今の気温を確認する。

「二度って……」

どれくらいの寒さだっただろう。
バイトを休むようになってからは夜出歩くこともなくなり、ゆっくりぬくぬくエアコンで温められた室内で過ごしてばかりだ。
廊下やエントランスロビーは少しだけ寒いが、他はセントラルヒーディングのおかげで冬季の間一定の温度を保っている。それでは温めきれない部分はエアコンで補う。
そこから一歩外に出る勇気をかき集めないと寒さに心が折れてしまう。
肺の中すべての息を吐き出し、マフラーを探そうとしてやめた。
面倒だし少しの距離だしどこにあるかわからないマフラーを掘り起こすのが面倒。
ダウンのボタンを上まできっちり留め、財布だけをポケットに突っ込み部屋を出た。
エントランスを抜けると寒さで一瞬息が止まった。呼吸を続けたら肺が凍ってしまいそう。
そんなわけないのに内臓すべてがきゅうっと縮まった感覚に自然と猫背になる。
目線を下に落とし、さっさとコンビニを目指す。
目的の歯磨き粉と温かいお茶を購入し、ミニボトルで暖をとる。
幾分寒さに身体は慣れたが、やっぱり寒いものは寒い。とはいえうだるような湿度の高い夏はもっと嫌いだ。
白い息を吐き出し、校門の前で歩みを止めた。
電飾で飾られた学校がキラキラ光っている。
昨年は昇降口付近にサンタやトナカイの置物が飾ってあるだけだったのに、今年は随分気合を入れてる。
よく見るとオレンジと紫の電飾が多い。これはハロウィンイベントの使い回しだと気付いた。
折角だからイベント毎に使う方針に決まったのだろうか。
そりゃ、一年に何度も出番があるのはいいことだけど、住宅もなにもない地域でイルミネーションをがんばっても生徒くらいしか喜ばない。
小さな子供がたくさん住んでいるような場所ならもっと喜んでくれたかもしれないのに。
これ目当てに恋人や家族連れが訪れるとかもないだろう。
校門はきつく閉じられているし、遠目から眺めているだけじゃ楽しくない。写真を撮ろうにもぼやけすぎてしまう。
学校側としては集客する必要はないのでひっそりと生徒が楽しめば目的達成だろうけど。
自分も昨年は客の要望で嫌になるほど都内各地のイルミネーションスポットでデートを重ねた。
どうして女の子はああいうのが好きなんだろう。
綺麗だなとは思うけど、写真におさめようとか、毎年来ようとかは思わない。
あまり馴染みがないから遠い世界のもの、という感覚が強い。
幼い頃住んでいたのは東京の片田舎で西洋風のものが似合わない街、似合わないアパートだった。
クリスマスツリーを飾ったこともない。小学校で工作した折り紙のツリーをこたつの上に置いたのみ。
今の家に引き取られたあとも同じ。
義母は毎日多忙でイベント事に熱心になる暇がなかったし、サンタを信じる歳でもなかったのでプレゼントは申告制だった。一度も申告したことはないけど。
そういえば一度だけ、実母が存命の頃、父がクリスマスの日にレストランに連れて行ってくれたことがあった。
あまりにも場違いな雰囲気に終始落ち着かず、高いであろうご飯より母の味噌汁のほうが美味しいと思った記憶がある。
それでも母がとても幸福そうに笑うので、なんとなく自分もいい思い出として記憶している。
たった一度きりだったけど、そういう小さな思い出を擦り切れるほど反芻しながら、母は死ぬ間際まで父を愛していた。
お父さんを恨まないでね。いつかそう言われたことがあった。
あのときは幼すぎて意味がわからなかったが今ならわかる。だからだろうか、世間的には最低だろうが父に対して思うところはない。お互い無関心なのだろう。
あまりにも接触がなさすぎて父親という感覚すらない。援助してくれるおじさんくらいの認識。
男女でも許されない恋なんて山ほどあるらしい。別の人を選んでいればもっと幸福な人生が待っていたのかもしれない。だけど選べない。恋をするとどんな人も馬鹿になる。
妻がいる人を好きになった母。最愛の幼馴染を想い続ける男を好きになった自分。どちらも同じだけ愚かだ。
ポケットに入れていた手をきゅっと握る。
冷えた鼻と耳が痛くなってきた。早く戻ろう。
視線を戻すと、暗闇の中で誰かが手を小さく振っていた。
目を凝らすと柔和に笑う麻生がいた。

「こんな遅くに買い物?」

「……麻生こそ」

「俺は夜食を買いに」

「麻生は案外食べるよな」

「そう?高校生なら普通でしょ」

そうか。そういうものか。夜食という概念がなかったから知らなかった。

「先輩は?」

「俺は歯磨き粉。朝使い切ったの忘れてたから」

「困るやつだ」

口元に拳を持っていきながらくすくす笑われる。
麻生には抜けたところばかり見せているけど、毎回普通に恥ずかしい。

「じゃあな……」

誤魔化すように脚を踏み出すと二の腕あたりを握られた。

「折角だからつきあってよ」

「俺さっき行ったばっかだし」

「まあまあ、散歩だと思ってください」

こんなクソ寒い深夜に散歩なんて。一刻も早く温かい寮に戻りたい気持ちと、麻生と一緒にいられる嬉しさを天秤にかける。
悩むまでもなく、麻生を乗せた杯がずどんと地面に落下した。
麻生と目を合わせながらこくりと頷くと、彼ははにかむように薄く笑った。
そのあとで自分の首からマフラーをとり、輪っかにしてこちらの首にかけた。

「見てるほうが風邪ひきそうです」

「麻生が寒くなる」

「俺は鈍感だから大丈夫。マフラーどこかにいったんでしょ?」

「どこかにはいってない。クローゼットの中には絶対ある」

確信を持って言ったが、麻生は呆れたように苦笑した。

「先輩には年末大掃除の習慣あります?」

「あるわけない」

「じゃあ今年チャレンジしてみません?」

「しない」

きっぱり言い切る。
部屋は少し汚いくらいで丁度いい。自分の場合、少しじゃなくてかなりだけど。
どうせ綺麗にしたって一日で滅茶苦茶になるから、それなら散らかったままでいい。
埃を吸っても人間は死なないし、アレルギー体質じゃないので体調に変化もない。

「頑固だなあ」

ぽつりと呟かれたが、ふんと顔を背けて断固拒否の姿勢を貫く。
麻生の買い物が終わるまでコンビニの外で待った。
なんとなしに空を見上げると東京のくせに星がくっきり浮かび上がっていた。さすが田舎と感心し、麻生と出会ってから上を見上げることが増えたと気付く。
以前の自分は下ばかり見ていた。
天気がどうであろうと気にしなかったし、空の色に興味もなかった。
暑くても、寒くても、そういうものとしか思わず、学校に行ってバイトをしてお金を数えて安心する。それの繰り返し。
麻生を好きになってから初めて情緒というものか機能し始めた。
今まで放置して鈍りまくった感情は上手に動かず、自分自身を苦しめ麻生を困らせた。現在進行形で困らせているのかもしれないけど、最初に比べればましになったと思う。
自分の気持ちを押し付けるのをやめ、相手の気持ちを考えられる余裕ができた。
だから麻生に好きなんて言わなくなったし、なるべく好意が漏れないよう発言も行動も気を付けている。
その甲斐あって麻生の態度に警戒や緊張感がなくなった。普通の友人のように気安く接してくれる。それがとても嬉しい。
欲張りはよくない。特別になれなくていいから今くらいの距離感で過ごしていたい。

「お待たせしました。寒いから中で待ってればいいのに」

「だって俺さっきあの店員さんに会計してもらったし……」

「気にしてませんよ。ていうか顔覚えてないと思いますよ」

「意外と覚えてるし変なあだ名付けられたりするんだぞ」

「俺らは目立つ見た目じゃないからセーフです。三上とかはあだ名つけられてそうだけど」

「……じゃあハシビロコウだな。泉が言ってた。似てるって」

言うと、麻生は腹を摩りながら声を出して笑った。

「似てる。似すぎて面白い」

ふうん?と首を捻った。ハシビロコウというものを見たこともないので比較できないが、みんなが言うのだからそっくりなのだろう。
三上に似てる動物かあ……と想像し、とりあえず目付きが悪い動物なんだろうなと思う。

「動物園とかに行けば見れるのかな」

「見たことないですか?俺も実物はないけど。上野動物園にいますよ」

「上野かあ」

「今度一緒に行きましょう」

「……まあ、機会があれば…」

「機会なんて待っても来ないですよ。予定立てましょう」

「……三上に似てる動物見るために上野まで行くっておかしくないか?」

「他にも動物たくさんいますよ。パンダとか」

「パンダねえ……」

「先輩は動物園行ったことあります?」

「ない」

「じゃあ尚更行きましょう。ね?」

柔らかく微笑まれ、きょろきょろ視線を泳がせる。
マフラーを鼻まで引き上げたっぷり悩んだあと頷いた。
よかった。楽しみですね。言いながら麻生が歩き出したので、慌てて隣に並ぶ。
麻生は電飾で飾られた学校に苦笑し、気合入ってんなーと自分と同じようなことを呟いた。

「ああいうの、普通の家でもやるものなのか?」

「うちは小さいツリー飾って、普段よりちょっと豪華なおかずとケーキ食べて終わりでしたけど」

「へえ。そういうものなんだな」

クリスマスを楽しめる人はクリスマスと幸福が密接に結びついた記憶があるのだと思う。だから予定がなくともなんとなくわくわくした心地になる。
だけど自分のようにそういう記憶がない人間は関係なさすぎて気にもしない。

「……じゃあクリスマスに上野公園行きましょう。初めての動物園と、初めてのクリスマスデートです」

「クリスマスデートは何回もした」

「ああ、そっか。でも個人的にはないですよね?」

「そうだけど……」

「じゃあ決まりで」

でも、と言い返そうとするとマフラーで口を塞がれた。

「そのマフラー、先輩のが見つかるまで貸します。風邪ひかないように気を付けてください」

ロビーに入るや否や、麻生は言い逃げするように部屋へ戻って行った。
なんか変なことになったなあと思う。出かけられるのは嬉しいが、そういう特別な日に一緒にいるべき関係じゃないし、麻生には麻生の交友関係もあるのに。
同情して誘ってくれたのだろうか。
麻生は以前も子どもの頃できなかったこと一緒にしようと言って、夏祭りに誘ってくれたり、大きな公園に連れて行ってこの歳になってアスレチックで遊ぶという経験もした。
今回もその一環なのかもしれないけど、わざわざクリスマスを選ぶ必要はない。
友達と遊ぶとか、仲がいいクラスはクラス全体でパーティーをしたりする。
そういうのを蹴って自分のために時間を割いてくれる麻生は本当にできた人間だ。
クリスマスや誕生日、そういうイベント事への姿勢は勿論だけど、日々の何気ない出来事の受け取り方や人への接し方、そういう為人を作るのは親の努力や苦心あってのことだ。だからきっと麻生の御両親はとても良い人、良い家庭で、機能不全家庭と呼ばれる環境で育った欠陥人間の自分じゃ思いもよらないことを平気でしてくれる。
だけど親のせいにしていじけるのはいい歳して情けないので、これからは自分の努力でもう少しましな人間になりたい。みんなに優しくはできずとも、大事な人くらいは傷つけないような人間。
そういうことを自覚させてくれたり、方法を教えてくれるのはいつも麻生だ。
こんなとき、恋愛抜きにしても彼と出会えてよかったと心の底から思う。

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