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カーテンを引かずに眠ったので、朝日が目を射ってぼんやり瞼を押し上げた。
ずきん、と一度頭に痛みが走り慌ててこめかみを押さえる。
「おはよう」
すぐ隣で声がして慌ててそちらに首を捻る。麻生がベッドに腹這いになり腕を枕にするように折りたたんでいた。
「身体どうですか?」
「え、あ、昨日よりは…それよりお前泊まったのか?」
「…覚えてないですか?」
「なにを?」
「魘されるたび俺の名前呼んだから一緒に寝たんです」
「は?嘘だ」
「本当」
「だってそんなの覚えてないし…」
「でも本当だよ。麻生、麻生って」
さっと血の気が引いた。まったく覚えがないが、そんな為体申し訳なさすぎて何度頭を下げても足りないではないか。
「わ、悪かった…熱でどうかしてた」
「いいよ。小さい子どもみたいで可愛かったし」
「…聞き捨てならないけどまあいいや。風邪はうつってないか?」
「俺滅多に風邪ひかないし平気」
「…万が一うつったら今度は俺が看病するな」
「先輩看病とかできる?」
「でき…ないけど、指示してくれたらやるから」
「じゃあそのときはお願いします」
笑ってくれたので安堵し、肩から力を抜いた。携帯で時間を確認し身体を起こす。
「着替えて学校行かないとな…」
「今日休みですよ」
「…は?」
「創立記念日。忘れてました?」
「…すっかり忘れてた。普通に学校行ってぽかんとするところだった…」
麻生にくっくと笑われ、間抜けすぎて自分でも呆れた。担任の話しを聞いていないからこういうことになる。
起こした身体をもう一度ベッドに沈め、なんだか得した気分だなと思う。
「…まだ頭痛い?声も昨日よりひどいですね」
「…喉は痛い。頭は昨日よりはいい。熱も引いたっぽいし」
「そっか。でも治りかけが肝心らしいですから今日は安静にしてください。長引かせたくないでしょ?」
「そう、だな」
「夏風邪はしつこいっていいますし」
バイトは休む破目になりそうだ。
ああ、俺の一日分の給料が消えていく。身体が資本なのだからしっかり体調管理をしなければ。これからは夕飯もなるべく食べるようにしよう。主に野菜。
「…麻生、面倒かけて悪かった。もう大丈夫だから」
「起きたら早速追い出すのやめてくださいよ」
「お、追い出してるわけじゃない。お前も予定とかあるだろうと思って…」
「ないよ。俺友だち少ないから」
「嘘つき」
お前がいつも友人に囲まれているのを知っているんだぞ。
こっちはどこにいたってお前を見つけられるのだ。麻生は気付いていないだろうが、彼が校庭で体育をしているときなんかいつも凝視している。
「本当。だからここにいてもいいですか?」
俯せになり瞳だけでちらりと見られ喉を詰まらせた。年下らしい甘え方は卑怯だと思う。
「…いいけど、本当に風邪うつっても知らないぞ」
「うん。ありがとうございます」
ありがとうはこちらのセリフだ。
麻生と一緒にいられる時間が長くなればなるほど嬉しくて苦しい。
麻生から離れなければと思った。迷惑だろうし、自分の心も毎日引き千切られそうに苦しい。
だけどどんな努力を重ねれば忘れられるのかわからず、足掻いても嫌いになれないし、ならばせめて反芻できるような幸福な思い出がほしくて。
麻生はもう少し眠ると瞳を閉じたので、起き上がってシャワーを浴びた。
さっぱりしてリビングのソファに着く。
放り投げたままだった物が綺麗に端に寄せられていて、あいつは本当に世話焼きだなと苦笑が浮かんだ。
麻生は昼頃目を覚まし、一緒にご飯を食べ、夕方まで自堕落に時間を過ごした。
念のため薬を飲んでベッドに横たえながら窓の外を眺める。空は怖いくらいの茜色に染まっており、折角の台風一過だったのに、主にベッドの上で過ごして終わるのかと小さく溜め息を吐いた。もう眠るのも飽きてきた。
ちらっとベッドを背凭れにして漫画を読んでいる麻生に視線を移した。
「…それ面白いか」
「うーん、まあまあです」
麻生はぱたんと本を閉じ、ベッドに頬杖をつくようにした。
「…ねえ、俺昨日から気になってることがあるんですけど聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「…なんでそんなにお金貯めてるんですか?」
唐突な問いに一瞬言葉を失った。
「昨日下着探してるときに見ちゃったんです。靴の空き箱にお金が山盛りになってるの」
「…それは…」
瞳を伏せて逡巡した。
楽しい話題じゃないし、変な同情もされたくない。自分を不幸だと思ったことはないのに周りにひそひそと囁かれると悔しくなる。
「俺に教えてくれるって言ったでしょ?」
「教える?」
「告白するとき、自分のこと知ってほしいって先輩言ったじゃん」
揶揄されているのだと思い麻生に視線を移したが、彼の表情にからかいの色は一切なかった。
懇願するように軽く眉を寄せ、じっとこちらを見詰めてくる。
「…好きになってくれる可能性があるならって意味だ」
「先輩はもう俺のこと好きじゃないんですか?」
どの口が言うかとむっとした。
こちらの気も知らないで勝手なことを言って、徒に一番弱い部分を刺激して。
どうせ麻生は自分なんかに振り向いてくれないくせに。散々期待させても一番ほしい言葉は言わない。そんな気がする。やっぱりこいつは悪い男だ。
「…ねえ」
髪を指に巻きつけるようにされ、観念するように大きく溜め息を吐いた。
「…好きだよ」
「じゃあ教えてください」
「聞いてもおもしろい話しじゃないぞ」
「いいよ。笑いたいんじゃなくて知りたいだけだから」
麻生から天井に視線を移し、どこから話せばいいのだろうと考えた。
「…卒業した後の家を借りるお金がほしかっただけ。いくらかかるかわからないからたくさんあった方がいいと思って」
「…家を借りる?」
「そう」
「そんなに豪邸に住むんですか?」
「いや、安いところでいい」
「…じゃあ、もう十分溜まってると思いますけど…」
そうだな、と適当に返事をした。
自分でもわかっていた。お金は多分足りる。でもあんな仕事を辞められないのは寂しくないからだ。
誰かに必要とされ、自分に向かって笑ってくれて、他人の体温を感じて、安心できる。
辛いこともあるし、疲れることもある。
我儘を言われたり、逆ギレされたり、刃傷沙汰になったこともある。
もうやめようと何度も思ったけど、一人きりの部屋にいると落ち込んでしまってだめだった。
「…金銭面で親に頼りたくないんですか?」
「まあ、そうだな」
「…家があまり裕福じゃない、とか?」
「いや、裕福なんだよこれが」
あっけらかんと言うと麻生はぷはっと吹き出した。
「なんでそんな残念そうに言うんですか」
「残念ではないけど…。まあ、高い学費とお小遣いくれるだけでありがたいよ」
「…それって親なら当たり前なんじゃ?」
「親ならな。でもうち母親と血繋がってないし、親父とはまともに話した記憶もない」
自嘲気味に笑った。
「本当のお母さんは?」
ずけずけと聞いてくるのでぎょっとする暇もない。
麻生は繊細そうに見えて意外と図々しい性格をしている。でも、取り繕うような雰囲気も下手な同情もなく、淡々と事実を聞いてくれるのがむしろ嬉しかった。
「俺が小学生のときに死んだ。その後施設に入って一年くらいして義母が引き取りたいって迎えに来た。新しいお母さんだと思ったけど、家に行ったら親父がいて。あのときはびっくりしたなあ。後々、自分の母親が愛人だったことに気付いた」
「…じゃあ不倫相手の子どもを引き取ったってこと?」
「だな」
「まさか虐待されたり…」
「それはない。厳しい人だけど、欲しいものを言えば何でも買ってくれたし、不自由をさせないようにしてくれた」
小学生の自分は新しい母親と本当の父親と三人で暮らすという現実が上手に把握できなかった。
それでも大きなお屋敷に広い部屋、新しい教科書や上質な衣服を整えられ、家政婦さんの作る美味しいご飯が三食提供され、ここは天国のようだと思った。
父は同族経営のグループ企業の五代目社長だったが、実質、財閥の娘である義母が役員として経営の指揮をとっており、父はお飾りにすぎなかった。
義母は多忙な毎日を送っていたので、顔を合わせるのは朝の数十分だけで、父に至っては帰らないことが多かった。
ある日、どうしても義母と夕食が食べたくて家政婦さんに我儘を言って帰って来るまで待っていた。
リビングのソファでうたた寝し、ヒールの音が聞こえた瞬間玄関に走った。
おかえりなさいと迎えると、義母は目を丸くし早く寝なさいと叱った。
なにか怒らせることをしたらしいと知りとても悲しく、いい子でいないとまた家から追い出されるかもしれないと怖くなった。
義母は欲しいものやしたいことがあるなら遠慮せずに言ってほしいと何度も聞かせた。
だからいい子でいるために、せめて勉強を頑張ろうと思い塾に行きたいとお願いした。
義母は家庭教師を雇い、週に五日色んな教科を勉強した。
ゲームや玩具はいらないかと聞かれても首を横に振った。その度怒ったような顔をされ、じゃあ、欲しいですと消え入りそうな声で言ったのを覚えている。
義母はにこりともしない人で、言葉も端的で冷たかった。
物はたくさん与えるけれど、小さく優しい言葉や態度といったものは一切ない人で。
それでも母を亡くした自分に唯一手を差し伸べてくれた人で、感謝もしたし好きだった。
でもあるとき、お手伝いさんが数人でひそひそと話しているのを聞いてしまった。
愛人の子どもを引き取るなんて気が狂ったのか。自分は産めなかったから気紛れじゃないか。奥様は子育てできるタイプでもないだろうに。
その後部屋に戻って愛人という言葉の意味を辞書で調べ、自分が生まれてきてはいけない類の人間なのだと知った。
だから父はたまにしか家に来なかったし、顔を見せたらすぐに帰っていたんだ。
自分は憎まれる存在で、ならどうして義母はわざわざ引き取ったのだろう。
いない方が皆の関係が丸く収まるのに、自分は安定した場所に放り込まれた異物でしかない。
どうしたらいいのだろう。小さな頭でたくさん考えた。
ある日家に父の友人である氷室理事長が来たときこの学園の話しを聞き、そこに入学したいとお願いした。
世界から消えることはできないが、父や義母の目の前から消えることはできる。
高校を卒業したら独り立ちし、どこか遠くの地方で暮らすのもいいかもしれないと思っていた。
思い出を反芻し、くすりと笑った。せめて最後に今までありがとうと義母に頭を下げたいが、卒業式は出席してくれるだろうか。
麻生に視線を移すと頬杖をついたままこちらを見下ろし、続きは?と言った。
「続きなんてない。たくさん世話になったから、ここから先は自分の力で生きようと思ってるだけ」
「…なら、お金は十分あるのにどうしてバイト辞めないんですか?お小遣いだけで生活できるでしょ?」
「金はいくらあっても困るものじゃない」
「そうですけど…」
吐き捨てるように言われ、麻生は頬杖をついていた手で頭を抱えた。
「すいません、俺がとやかく言えることじゃないのに」
消え入りそうな声で本当にすいませんと謝罪され、なんだか麻生が泣きそうな気がしてそうっと手を伸ばした。
腕に触れると彼は勢いよく顔を上げ、数回瞬きしたあとくしゃっと顔を歪ませた。
「…俺、悪い男っていうか、最低な男です」
「なんだよ急に。お前はいい奴…じゃなくて、いい男だよ」
「全然よくないです。ぶん殴ってほしいくらい自分勝手」
あー、と無意味な声を出しながら短い黒髪をぐしゃぐしゃに掻き回す様子を眺めた。
いつも余裕綽々の態度を崩さず、朗らかに笑い、紳士的な彼のこんな姿は珍しい。
「じゃあ俺が殴ってやろうか?」
「はい。お願いします」
「冗談だよ。そんな趣味ないし。それに、お前が自分のことをなんと言おうと、俺にとっては大事な人だよ」
「…先輩はなんでこんな奴好きになったんでしょうね」
「俺を見つけてくれたから」
「どういう意味ですか?」
その問いには答えず、笑って誤魔化した。
麻生は見つけてくれた。
商品として以外、誰の目にも映らなかった自分を。
なんの見返りもなく、けれどしっかりとその黒い瞳に自分を映してくれた。それだけで肯定された気になって、生きる意味を見つけたような気がして。
重たい話しはしないでおこう。
表面上の楽しいことだけ掬って、大人になったときそんな先輩もいたっけなんて一瞬でも彼が思い出してくれたら万々歳だ。
高校を懐かしく思う歳になっても麻生を忘れられないでいたら笑いを通り越して痛いけど、痛いくらいが丁度いい。
なにも感じず亡霊のように生きるより痛い、辛い、苦しいと叫びながら生きた方が人間らしい。
麻生は俺を透明人間から普通の人間に変えてくれたのだ。
END
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