3




「今帰りですか?」

ぽんと背中を軽く叩かれ後ろを振り返った。今日も百点満点の泉の笑顔。なんだか癒され、微笑しながらそうだと頷く。
泉はこの前の失言に突っ込むような真似はしない。気を遣ってくれているのだと思う。
心底できた人間だなあと感心する。麻生もとてもよくできた人間なので、同じ種類の人間が集まるのだろう。
だとしたら、今後麻生が好きになる女性も絶対にいい人だ。

「…先輩ちょっと顔赤くないですか?声も掠れてる気がする」

「別に普通だけど…」

「ですかねえ…」

顔を覗き込まれ慌てて逸らした。

「やめろ。恥ずかしい」

言うと、くすくす笑われた。こいつもよくわからないタイミングでよく笑うので更に恥ずかしくなる。そんなところも麻生と同じだ。
幼少期からずっと一緒と聞いたので、もう同じ家庭で育った兄弟のように色んな部分が似ているのかもしれない。
寮のロビーで泉と別れ、自室のベッドに制服のままごろんと横臥した。
泉には普通、と言ったけれど、朝から頭がぼんやりする。
原因はわかっている。バイト帰りに雨に降られ駅から濡れ鼠状態で帰ったからだ。梅雨時期は折りたたみ傘を携帯をしようと思うのにいつも忘れる。ずぼらな人間なので仕方がない。
制服が皺になるけどまあいいや。適当に眠れば風邪くらいすぐ治る。
枕に顔を埋めてぶるっと身震いする身体を自分で抱き締めるようにした。
眠ろう、眠ろうと思うのに眠気はやってこず、それから数時間が経過した。
こういうときどうしたらいいのかわからない。風邪なんて滅多にひかないし、薬の類もない。今日バイトが休みでよかった。明日は出勤だったっけ。だとしても風邪をうつしたら大変なので休ませてもらおう。
店長に風邪ひいたと簡素なラインを送るとすぐに返事があり、明日もだめそうなら早めに連絡を、と書いてあった。既読スルーを決めもう一度瞳を瞑る。
窓の外ではまた雨が降り出した。そういえばクラスメイトが台風がどうのこうのと言っていた。
台風か、台風…。
自分の風邪菌も、麻生への気持ちも、全部全部一緒に吹っ飛ばしてくれたらいいのになあ。馬鹿なことを考えた。

「先輩ー?おーい、いますー?」

開けっ放しにしていた扉の向こうから麻生の声が聞こえ、慌てて身体を起こした。
熱で幻聴でも聞こえているのだろうかと思ったが、やはり麻生が顔を出した。今度が幻覚か。情けない。

「よかった、いた」

「…麻生…本物?」

「逆に俺の偽物っています?」

麻生は笑いながらベッドの傍にしゃがみ込み、風邪ひいたって?と言った。

「なんで…」

「真琴に聞きました」

余計なことをと思ったが、世間話程度の感覚で話したのだろうから責められない。
泉は自分の想いを知らないのだから。

「調子悪い?」

「…まあ、ぼちぼち」

「ポカリと薬持ってきたよ。その前に着替えましょうね。あと、部屋汚い」

「それはいつもだし」

「少しは片付けろって言ったのに」

母親の小言のようなそれが懐かしくて笑ってしまった。
母が亡くなる前、玩具片付けなさいとか、食べ終わった食器はシンクに置きなさいとか、洋服をそこらじゅうに放り投げるのやめなさいと叱られていた。

「パジャマは?」

問われたのでベッドの下に脱ぎっぱなしにしたものを指差した。

「新しいのは?」

暫く考えてないと返事をする。

「洗濯もさぼってたんですね」

麻生の額に青筋が立った気がして身体を小さくした。
だって面倒くさいではないか。それに、部屋が散らかっていた方が寂しくない。
すべて自分の物だけど、誰かの気配がある気がする。がらんとした部屋はそれだけで寒々しいし、泣きながらアパートの一室を片付けた日を思い出す。

「じゃあとりあえずこれに着替えて、薬飲んで寝てください。その間に洗濯しときますから」

「いいよ」

「汗掻いたら着替えるのないでしょ」

「着替えなくていい」

「だめ。汗が冷えると治り遅くなるんです。ほら、言うこと聞いてください」

麻生は末っ子と泉は言ったが、やはり長男の気質がある。
困っている人間を放っておかず、甲斐甲斐しく世話を焼こうとして。大して仲が良くない自分にも一生懸命になってくれて。本当にいい人間だ。
弱っているときは特に優しさが身に染みる。だからこそ、優しくしないでほしいけど。
そんな我儘を言える立場ではないので、苦しい心を端に追いやりながら着替えを済ませた。
薬を飲み、きちんとベッドに入ると、麻生は床に転がる洋服を拾い始めた。
カゴいっぱいになった洗濯物を抱え麻生が振り返る。

「ちゃんと寝てくださいよ。また戻ってきますからね」

「はい…」

床になにも物がない。すごい。変に感動し、だけどやっぱり寂しいなと思う。
沢山の物に囲まれていると、自分は生きているのだと確かめられる。息を吸って吐いているのだから生きているに違いないけど、誰かが自分を見つけて挨拶したり、一緒にご飯を食べたり、他愛ない会話をしたり、そういったことがなかったから、もしかして自分は皆の目に見えていないのかもしれないと不安になるときがあった。
馬鹿馬鹿しいとわかっているけど、部屋で一人きりになるともうだめだった。
洋服に触っては放り投げ、漫画を読んでは放り投げ、そうして散らかして、毎日部屋の中の様子が変わっているとちゃんと現実世界に生きてると安堵できる。
泉に言われたように変な人間なのだろう。
考えているとうとうとし始めて、麻生早く帰ってこないかなあとぼんやりしながら眠りについた。


目を覚ますと部屋の中は真っ暗で、がばっと身体を起こした。

「あそ、麻生…」

喉の掠れがひどくて上手に声が出ない。
暗闇に慣れた目で周りを見渡したが彼の姿はない。代わりに綺麗に折りたたまれた衣服が机の上に乗っていた。
帰ったのだろう。眠っている人間の傍にいたってつまらないし、彼はこれ以上世話を焼くような理由がない。
薬を飲ませ、着替えさせ、洗濯までして、それだけで十分だ。
けほけほと咳をして喉に手を当てた。喉も胸も痛い。
ありがとうと連絡しなくちゃ。枕元の携帯を手繰り寄せ、色々ありがとうと短く打って送った。
電源を落としスマホを放り投げる。ベッドヘッドに背を預けて細く息を吐いた。
弱ってるなあ。普段から明るい性格ではないが、今日は特に後ろ向きになる。
だから中途半端に手を伸ばしてほしくなかったのにな。麻生に八つ当たりをし、もう一度眠ってしまおうと布団に潜ると寝室の扉が遠慮がちに開いた。

「…具合どうです?」

苦笑する麻生がこちらに近付き、額に手を乗せた。

「まだ熱いかな?この部屋体温計もないんだもんなあ」

「……なんで…」

「なにが?」

「帰ったのかと…」

「リビングにいましたよ」

当然のように言われ、熱で濡れる瞳がもっとぐずぐずになる気がした。
麻生はしゃがみ込んで声がひどいと眉を寄せた。

「…大丈夫。さっきよりよくなった」

「ならいいけど…」

「…あ、あれないか。マスク」

「マスク?うーん、この部屋にはなさそうだなあ」

「…だよな。どうしよう。お前に風邪うつる。早く帰った方がいい」

「うつした方が治り早くなるって言いますよ」

「そんな迷信…」

「信じればプラシーボ効果です」

でも、という口をむにっと指で摘まれた。
麻生は変なところで頑固なのでこちらの言うことは聞いてくれない。
参ったなあと思いながら、心の片隅が歓喜に満ちている。
せめてマスク代わりになるように、タオルケットを口元まで引っ張り上げた。
膜が張ったような瞳で麻生を見上げると、彼は微笑しながら汗で額に張り付いた前髪をはらってくれた。

「なにか欲しいものあります?」

「…ポカリ」

「ポカリはここにあるでしょ」

ベッドサイドを指差され、初めて気付いた。麻生以外目に入っていない。恋する乙女かと自分に突っ込む。気持ち悪いなあと思うけど意志を持っても止められない。
ストローがささっていたので横になりながら飲み、またタオルケットを引き上げた。

「もう一眠りしましょうか。起きたら着替えましょうね」

「…うん」

「お、珍しく素直」

揶揄するように言われ無視をした。だって麻生は素直な奴が好きじゃん。熱で正常な判断を失った頭で思う。
泉の真似事をしたって好きになるわけじゃないのに、小さな希望に縋ろうとして。恋愛の仕方も誰かを振り向かせる方法もわからないので安易な答えに飛びつこうとする。

「…おやすみ」

瞳を閉じると麻生が離れていく気配がした。
寝室の扉が閉まり、向こう側から僅かにテレビの音が聞こえる。誰かが自分の部屋にいる。近くに人の気配がある。不思議だと思うけど嫌じゃない。
小さなアパートで母と二人暮らしをしていた頃みたいだ。
寝室の布団に入っても襖で仕切られた茶の間からはテレビの音がして、母がお茶を飲む音や茶碗を洗う音が聞こえて、それがひどく心地良かった。
小さな生活音は人を安心させてくれると思う。そんなことも忘れていた。
懐かしいなあ、幸せだなあ。身体は辛く、くたっと沈みそうなのになんだか満たされたようだった。
さっきまで麻生がいないとめそめそしていたくせに、現金な性格をしている。


二度目に目を覚ましたとき、麻生はタオルで髪を拭きながらこちらを見下ろしていた。

「目、覚めました?」

「…お風呂入ったのか?」

「はい。勝手に借りました」

「いいよ。俺もシャワー浴びたい」

「馬鹿なこと言わない」

馬鹿なのか。
でも汗を掻いたので気持ちが悪い。

「着替えましょう。パジャマはこれでしょ。下着はどこですか?」

「クローゼットの中、なんか、適当に入ってる」

「クローゼットの中すごいことになってるんだろうなあ…」

麻生は恐る恐るといった様子で開き、予想通りと呟いた。
ごそごそと漁り、引き出しを開けたり閉めたりしながらない、ないと騒いでいる。
ないはずがない。自分はすぐに見つけられる。他人からすると迷路のようにわけがわからないのだろうが、無秩序の中にも秩序はあるので必ずどこかにあるはずだ。

「…これかな?」

呟いたきり彼は何の反応もしないので、瞳を開けて背中に向かって名前を呼んだ。

「…あ、すいません、やっぱりないです」

「あるよ絶対。引き出しの方…だったかな?」

「本人すらわかっていないなんて…」

ぶつぶつ文句を言いながらやっと見つけたらしく、麻生は黒いボクサーパンツを握りながらやりましたと達成感でいっぱいの表情をした。
パンツ片手にする顔ではないが、それくらいひどかったのだろう。

「タオル濡らしてきますから着替えてください。自分でできます?」

「できる」

頑張れと頭を撫でられ、子ども扱いするなと不貞腐れた気持ちになる。
もたもたとズボンを脱ぎ、下着を脱ぎ、痛む節々に耐えながら着替えた。
温かいタオルを持った麻生が戻り、パジャマのボタンを外すとささっと身体を拭き、上着を着せ直し、ボタンを一つ一つ閉めてくれる。

「……お前は本当にいい人だな。いい人すぎて悪い商売とかに引っかかりそうだ」

「はは、先輩こそ」

「俺は悪い商売嗾ける方だから大丈夫」

「そうかな。ぼんやりしたところあるから」

「ないよ。お前みたいにいい人じゃないし」

「…いい人になりたいわけじゃないんだけどな…」

麻生は困ったように呟いた。

「俺、先輩にいい人なんて思われたくないよ」

しっかり目を合わせながら言われ、言葉の意味がわからず首を捻った。
上半身を起こしているので頭が重く、ふらふらと揺れる。

「…でも、いいことしてくれたらいい人だなって思うだろ?」

苦々しい表情をされ、なにか怒らせるようなことを言ったのか不安になる。
自分にとっていい人は最大限の褒め言葉なのだが、麻生はそうは受け取らないらしい。
ならもう言わない。でもボキャブラリーがないので変わる言葉がない。

「…ごめん、変なこと言いました」

「…大丈夫」

だからそんな顔をしないで。
ふらつく腕を伸ばしてよしよしと濡れている頭を撫でた。
麻生はぐっと眉間を寄せ、背中に手を添えて肩を押すようにして寝かしつけた。

「起きてると治らないよ?」

「…もう眠れない」

「えー。じゃあ絵本でも読んであげようか」

「馬鹿にしてんのか」

麻生は笑いながらすりっと頬を撫で、熱いと言った。

「頭とか痛い?」

「…そうだな。頭と喉が痛い」

「あ、キスってモルヒネの十倍鎮痛効果があるらしいです。試してみますか?」

顔を覗き込まれ、なに馬鹿なことを言っているんだと顔を顰めた。

「そういうのは好きな人としなきゃだめだろ」

「先輩は好きじゃない人ともするのに?」

「俺は…もう手遅れだからいいけど、お前はちゃんとしないとだめだぞ」

「はいはい」

そういう冗談は心臓に悪いからやめてほしい。
麻生は俺が気軽に告白したと思っているかもしれないが、自分でもうんざりするほど重苦しく気持ち悪い部類の感情を向けている。
冗談やお零れでもいいからキスしてみたいなんて、また新しい期待が気泡のように浮かんで弾ける。

「…麻生は優しいのに人の心を抉るのが上手いな」

「なにそれ。心外だな」

「悪い男だ」

「あ、それ、いい人よりは嬉しいです」

「悪口なのに?」

「うん。先輩には悪い男って思われた方が嬉しい」

相変わらず意味がわからない。
自分の経験値が足りないせいだから、どういう意味?と聞くとうんざりされそうで、わからないまま放り投げている言葉がたくさんある。

「たくさん眠って体力回復しないと」

ほら、もう目を閉じてと言われ、渋々瞼を落とした。
もう眠れないと思ったけれど、身体はまだまだ限界を訴えていて、さらり、さらりと髪を撫でられるたび深みに沈んでいった。

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