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麻生に恋をして初めて女の子になりたいと思った。
できれば女として生まれたかったけど、それは今更どうしようもない。
性別は簡単に変えられるものではないが、ある日かぼちゃを馬車に変えた魔法使いが自分の前に現れて、女の子にしてくれたらいいのに。そんな非現実的な空想に憑りつかれて落ち込む。
だって今のままじゃ麻生に向けた恋心が錆びていく一方だ。
叶わないと諦めたいのに諦めきれず、お伽話が現実にならないかと危ない想像までして、女性の柔らかな身体に嫉妬する。
繊細なレースをあしらった下着も、ひらりと翻るスカートも、細い脚も、華奢な肩も、すべて、すべてが羨ましい。
自分も同じだったら努力でどうにかなったかもしれないのに、今のままじゃ努力を重ねたって気味悪がられるだけだ。
じゃあほかにどうしたらいいのですか。その答えはいつも同じ。諦めろ。
じゃあどうしたら諦められるのですか。それには誰も答えてくれない。


気付いたときには教室に一人だった。
ぼんやり椅子に座って窓の外を眺めていただけだったのに、随分と時間が経ったらしいと知る。
欠伸が出る口に手を添え、小さく息を吐きながら鞄の柄を掴んだ。
バイトの翌日は眠くて仕方がない。それでも日付が変わる前には部屋に戻っているのだけれど。
今日はバイトが休みなので部屋に帰ってすぐに眠ろう。恐らく翌朝まで起きないだろうから先にシャワーを浴びて、ご飯は…明日でもいいか。
頭の中で予定を立てながら階段を降りる。昇降口へ続く廊下を曲がった瞬間、小銭が床に落下する音が響いた。
ころころ転がる百円玉が足先にぶつかって倒れた。
それを拾い顔を上げると、自販機の前でしゃがみ込む二年の姿があった。
そちらに近付く途中にも散らばる小銭を拾いながら彼の肩を叩いた。
顔を上げたのは麻生の幼馴染で、何度か顔を合わせたことがある。
名前は知らないが、あちらもあ、と小さく声を出したのでこちらのことも覚えていたのだろう。

「これ…」

拳を差し出し、彼の掌に小銭を乗せた。

「ありがとうございます」

立ち上がってしっかりと腰を折られ、そんな大袈裟に礼を言われると反応に困るな、と思った。
俯きがちに視線を泳がせると、自販機の裏側にも小銭が転がっているのを見つけ、しゃがんでそちらに手を伸ばした。

「…ぎりぎり届かないな」

「せ、先輩、自分でやりますから」

慌てたように言われたが、この後輩は自分より背が低いので勿論腕の長さも足りないだろう。

「…なんか棒みたいな物ある?」

彼は少し悩んだ後鞄から筆箱を取り出し、定規を差し出した。
ちゃんと筆箱を持参しているだけでも驚いたが、定規まで入っているなんて偉いな。
当たり前のことに感心し、定規でちょいちょいとこちらに手繰り寄せた。
漸く手が届く場所まできたので十円を掴み、後輩に渡してやる。

「ほら」

「あ、ありがとうございます」

彼はもう一度腰を折ったが、至近距離にいたせいで自分の鎖骨に彼の額がぶつかった。

「う…」

「すいません!」

わたわたと変な動きで両手を動かすので、思わずふっと笑うと、彼も安心したように顔から力を抜いた。
それじゃあと踵を返し、変わった子だなあと考える。
靴を履き替え、さあ帰ろうと観音扉を開くとバケツをひっくり返したような雨が降っていた。
さっきまではあんなに快晴だったのに。所謂ゲリラ豪雨というやつだろうか。
呆然とし、濡れて帰るか暫く待つかの選択をし、下駄箱の段差に腰を下ろした。
ゲリラ豪雨なら暫くすれば止むかもしれないし、今飛び出したら傘を持っていたとしても制服がぐちゃぐちゃになる。乾かしたりクリーニングに出すのが面倒なので適当に時間を潰すことにした。
早く止むといいなと考えていると後ろから肩を叩かれ、振り返ると先ほどの後輩がいた。

「これ、どうぞ」

紙パックの牛乳を差し出され首を捻った。

「…なんで?」

「お礼です」

礼と言われるほどのことはしていないので、牛乳を受け取りながら百円を渡した。

「お前も雨止むの待ってるのか?」

「はい。帰ろうとしたら降ってきたので、牛乳でも飲んで待つかと思った矢先にお金落として…」

「そっか。じゃあさ――」

少し話しをしようと彼に持ちかけた。
退屈凌ぎの意味もあるが、麻生のことを聞きたかった。こんな機会でもなければ彼と話すこともないだろうし、麻生は自分の話しをしたがらないから。
隣に腰掛けた後輩は身体を硬くし、びしっと背中を伸ばした。

「…別にいじめたりしないけど?」

「あ、いえ、先輩と話す機会がないので緊張して…」

「そうなんだ。畏まらなくていいよ。たった一歳しか違わないのに、先輩も後輩もないと思うし。敬語もいらない」

「そういうわけには…」

「俺体育会系じゃないし、そういう上下関係あんまり好きじゃないんだ」

彼は目を大きくし、そういう先輩もいるんですねと呟いた。

「名前なんていうの」

「泉真琴です」

「俺は櫻井紘輝」

「綺麗な名前ですね」

今度は自分が目を大きくした。そんな風に言われたのは初めてだ。
気恥ずかしくて俯き、小さく礼を言ったあと咳払いをしてから顔を上げた。

「麻生の幼馴染なんだよな?」

「はい。家が近所で」

素直に微笑む横顔を見て可愛いなと思った。顔の造りではなく、心が穏やかで優しく、素直な子なのだろうと短い時間を共有しただけでわかる。
なるほどと納得し、小さく息を吐いた。
麻生に告白する前から好きな人がいると聞いていた。
そうか、そりゃそうだよなと思い、どんなに可愛い子なのだろうとか、見た目はどんな風だろうとか、どこの高校だろうとか、色んな疑問が頭を一杯にした。
麻生は聞いても教えてくれないし、その子にはきっぱりふられ、恋人とうまくいってるようだから諦めるのだと言った。
その隙間に自分が入り込めたらいいけれど、同性じゃ期待するだけ無駄だと思った。
だからといってすっぱり消えるような気持ちではなく、しつこく麻生を想い続け、麻生と偶然会って話していたとき、彼が自分の背後に視線をやってふっと笑った。
振り返るとこの後輩と三上が騒ぎながら下校するところで、仲いいなあと自分もぼんやり二人を見送った。
麻生に視線を戻したときには先ほどの笑みは消え、昏い瞳で二人の背中を追っていた。
そのときは気付かなかったが、麻生の視線を辿る度に泉がいて、熱が篭ったり、逆に失ったりする瞳を見て、ああ、そうかと納得した。
麻生の心が動く気配がないのは性別のせいだと思った。想い続けても麻生の迷惑になるだけだし、しつこいから嫌いと言われるかもしれないと危惧した。
色恋を間に挟まず顔見知り程度の存在になれば、もっと気軽に接してくれるかもしれないなんて。
だけど麻生の懸想相手を察し、悔しいような、悲しいような、怒りたいような、負の感情を一か所に集めたような気持ちになった。
これでは諦められない。もしかしたら男の自分でもと期待してしまう。そんなことあるわけないのに。
麻生にふられたとき、自分から普通の先輩後輩としてこれからも付き合ってほしいと言った。なのに今はそれがひどく辛い。自分勝手だ。麻生は気を遣って笑顔で接してくれるのに。
ぼんやりとすると、泉が肩を叩いて心配そうに顔を覗き込んだ。

「…あ、悪い。ぼんやりしてた。なんか言ったか?」

「先輩はなんで学と仲いいのかなと思って。学、部活とかしてないし、先輩の友だちは珍しいので」

「…ああ、えっと…助けてもらったことがあったんだ。すごく優しくしてくれた。だから…」

だからなんだというのだろう。
仕事以外の会話は苦手だ。仕事相手の女性ならうんうん、そうだね、わかるよと相槌を打っていれば満足してくれるが、今の相手は後輩で、自分から話そうと誘った手前退屈な思いをさせないようにと気を回すとますます言葉が出てこない。
適切な言葉をゆっくり探している最中、泉は小さく笑い大きく頷いた。

「学は優しいですよね」

その一言に自然と笑みが浮かんだ。

「だよな、優しいよな。あいつはそんなことないって言うけど、本当にいい奴だと思う」

「わかります。学は自分の長所に気付いてないっていうか、それが当たり前だと思ってるというか…」

「うんうん。すごいことなのにな」

ですねえとお互い頷き合い、妙に楽しい気分になる。
好きなアイドルの話題で盛り上がる友人たちはこんな気持ちだったのか。
彼についてたくさん語りたくなって、胸が高揚する。

「あいつはどんな人にも親切なんだろな」

まるで聖母のよう、とうっとり目を細めたが、泉は意外にも悩むようにした。

「学は優しいですけど、お人好しってわけでもないので誰でも助けたりはしないと思いますよ?」

「…でも俺のことは助けてくれたし、そのあともお願いしたら友だちになってくれたし…」

「うーん、最初に助けたのは気紛れかもしれないけど、その後もつきあいが続くってことは先輩のこと好きなんだと思います」

「好き…?」

頬に熱が篭るのがわかった。
いきなりなにを言いだすのかと隠すように俯いたが、多分うなじまで真っ赤だ。

「ああ、すみません、人として好きなんだろうなあと思って。変な意味じゃないんです。ごめんなさい…」

「…あ、いや、俺こそごめん…」

お互い頭を下げ合って、なにやってんだろうと小さく笑った。
自分はどうしようもない人間だと思っている。死んだところで悲しむ人などいない、この世にいてもいなくても何も変わらず、小さな波も立てられない程度にちっぽけな存在。
器の中身は空っぽで、満たしてくれるのは金だけで、情とつくすべての事柄がよくわからなかった。恋情も、愛情も、友情も、同情も。
その中の一つ、恋というものを麻生は教えてくれた。
とんちんかんな答えばかりを出す自分を叱り、ささやかな幸福のありがたみを知り泣きたくなった。
今時小さな子どもでもわかる程度の感情に翻弄され、一銭の価値もない自分の人間性を好ましく思う要素はないが、泉の言葉が本当ならば素直に嬉しい。
せめて嫌われたくはないと思っていたから。

「…麻生って長男?」

「いえ、末っ子ですよ。お兄さんとお姉さんがいます」

「へえ、意外。面倒見いいから長男だと思ってた」

「あ、それは多分僕のせい…」

ぼんやりしていることが多いせいで、同い年なのに麻生が兄のように面倒をみてくれたと泉は言った。
幼い麻生がせっせと世話を焼く姿が容易に想像できてくすりと笑う。

「学は櫻井先輩の面倒も見てるんですか?」

「…別に鬱陶しく世話されるわけじゃないけど、たまにちゃんと飯食えとか、部屋の掃除しろとかメールがきたり、朝起きるの苦手だから電話がきて起こされたり…」

そこで言葉を区切った。泉が零れそうなほど目を見開いている。

「なに?」

「いえ、すみません…」

泉は慌てて足先に視線を移し、ふふふ、と笑い出した。一人で笑うなんて特殊な性格の方だろうかと若干引く。

「なにが、おかしいんだ…?」

「おかしいっていうか、嬉しいなと思って」

「嬉しい?」

「はい。嬉しいです」

なにが?と聞いたが彼はにこにこ笑うだけだった。

「あ、雨あがりました」

泉が扉を指差して立ち上がった。

「本当だ…」

自分も彼に倣い立ち上がる。肩に鞄をひっかけて一歩踏み出すと、泉に制服をきゅっと掴まれた。

「…なに?」

「あの、僕人見知りするんですよ」

「…はあ」

「でも、櫻井先輩はとても話しやすいし、怖くないし、いい先輩です」

「…そりゃ、どうも…」

「だから、また話し掛けてもいいですか?」

上目遣いで言われ、なんとなく彼の頭をぽんぽん撫でながらいいよと言った。
泉は満面の笑みでありがとうございますと礼を言い、こちらこそありがとうございますと小さく頭を下げた。

「…お前らなにやってんの?」

扉の方から声がし、そちらに視線を移すと三上がうんざりしたような表情で立っていた。

「みーかみー!」

泉は先ほどのしおらしさを脱ぎ捨て、三上に向かって突進していく。ひらりと身体を交わされ、扉にぶつかったけれど。
相変わらずこの二人は仲がいいらしい。
三上に小さく頭を下げられ、右手を挙げて応えた。
さっさと扉を開けて外に出た三上を追うように、泉も慌てた様子でこちらに頭を下げ、彼の背中を追うように走った。
変な奴等。くすりと笑い、一つ下の後輩は癖が強いことを知った。

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