2


交代で風呂に入り、最後に風呂を使用した楓ちゃんがリビングに戻ると、二人は早々に部屋に引き上げた。

「薫もそろそろ寝なさいよ」

母に言われ、ソファで寝るからいいと不貞腐れた。

「なに言ってんの。あんたすぐ風邪ひくんだからちゃんと部屋で寝なさい」

「大丈夫だよ。エアコンつけたまま寝るから」

「だから乾燥して風邪ひくんでしょうが!」

部屋に行け、嫌だと押し問答していると、遠慮がちに香坂が口を開いた。

「…あの、俺がここで寝ますから」

「あ、マジ?ラッキー」

「薫!」

目を吊り上げた般若のような母に一喝され、わかったよと渋々頷いた。
香坂に行くぞと合図をし、リビングの扉を閉めて部屋に入る。
元々あまり物がない部屋だったが、寮生活を始めてから更に減った。今ではベッドと小さなテーブルとテレビくらいしかない。

「適当に座って」

突っ立っている彼に言いながらぽんとクッションを投げる。
ベッドの上で胡坐を掻くと、彼はベッドを背凭れにラグの上に座った。

「俺別にソファでいいけど?」

「君がよくても母さんはだめなんだと。あれには逆らえないし」

苦々しく言うと、彼はふっと笑った。その表情が珍しくてついぼんやり眺めた。

「お前にも敵わない人っているんだな」

「だ、誰だって母親には頭が上がらないものだよ」

「まあな」

思い当たる節があるのか、彼もうんざりとした顔をする。
冷蔵庫から拝借したお茶のペットボトルを一つ彼に渡し、キャップを捻りながら口を開いた。

「今日香坂さんに無理矢理連れてこられたの?」

彼は俯きがちに小さく頷く。
可哀想に。好きな相手とその恋人の仲睦まじい場面を見るだけでもきついのに、恋敵は自分の兄だ。
薄い壁一枚隔てた隣の部屋では、ピンクな空気を撒き散らしながらいちゃいちゃしていることだろう。想像すると泣けてくる。
彼のことは基本嫌いだが、過去の彼女はみな兄を好きになって振られた、とぼやいていたのを聞いてから、楓ちゃんに関することにだけは同情するようになった。
今回も勝てなかったと落ち込む彼に、いつか君だけを見てくれる人が現れると言ってやったのはいつだったか。

「えーっと、なんか映画でも見る?」

テレビと接続されているメディアストリーミング端末を操作しながら言った。無言でいると二人の声が聞こえてきそうで怖い。
クリスマス特集、アニメ、アクション、ずらりと並ぶ映画やドラマのタイトルに目を滑らせていると、がたんと物が落下したような音が響き、慌てて適当にボタンを押してテレビの音量を上げた。
両親の部屋はリビングと続いていて、兄の部屋は一番そこから遠い。おまけに母はテレビを見ながら眠るので、余程大声を出さなければ悟られないだろうが、こっちはそういうわけにはいかない。なんせ隣の部屋だ。
勘弁してくれ香坂涼。心の中で悪態をついたが、血気盛んなお年頃で数ヶ月の禁欲生活を続けていればがっついてしまうのも仕方がない。
ちらりと彼を見ると、心ここに非ずでテレビを眺めている。
自分でも察することができるのだ、彼なら今そこで何が行われているか理解しているだろう。
香坂さんも弟に対して厳しすぎないか。カサブタになる前に傷を抉るから彼はいつまで経っても立ち直れない。

「――おい」

肩を揺すられはっと顔を上げた。

「聞いてた?」

「…あ、ぼうっとしてた」

「…これ、お前見たいの?」

テレビを指差されそちらに視線を移すと、色気があると評判の女優の濃厚なキスシーンでぎょっとした。

「いや、適当に押しただけなんだけど…」

「へえ。すました顔してるけどお前もこういうの見るんだと思ったのに。俺は楽しいけど」

「ああそう。君が楽しいなら別にいいよ」

自棄になって言い、自分は暇潰しに持ってきた文庫本を開いた。が、視界は塞げても音は聞こえる。最近の深夜ドラマはぎりぎりを攻めているのか、随分と生々しいSEだ。
これくらいで顔を赤くする性格ではないが、隣の事情とドラマのSEがだぶって嫌な想像をしてしまった。
ああ、兄弟の性事情なんて死んでも知りたくないのに。くそったれ。

「そ、そういえば香坂さんがどうしても布団で寝るって聞かなかったんだけど、どういうことだろうね。楓ちゃんと一緒なら同じベッドでいいのに」

居た堪れなくなって早口で捲し立てた。

「あー、あれだろ。ベッドだと音がするからだろ」

「は?」

「音」

ぽかんと口を開けて数秒考え、はっとして俯いた。
そういうことか。色事に無関心すぎてそこまで頭が回らなかった。

「お前には刺激が強かったか?」

揶揄するような口調にむっとして顔を上げると、にやついた表情の彼と視線が合った。どんな顔もむかつくが、今の顔が一番むかつく。

「それくらいで動揺するように見える?」

虚勢を張ったが色恋や性に関しては彼の方が熟知しているし、自分は女性の手を握ったことすらない。そんなことしなくても生きていけるし、不必要だと思っていたが、彼より劣っている現実が悔しいとも思う。

「無理すんな童貞」

「ど…、君さあ、そういうのはデリケートな問題なんだからさあ」

「は、どこがだよ。誰でもできる簡単なことだろ」

「僕はできないんじゃない、しないの」

「はいはい、強がっちゃって」

「本当だよ」

本心からそう思っているのに、言葉を重ねると余計に嘘くさくなる悪循環。
彼が言うように難しいことではない。コミュ障だが外面はいいので、中学時代告白されたことも何度かある。面倒なので断ったが、その中の一人とつきあえば経験できただろう。そこまで興味がないし、労力が勿体無いので実践はしなかった。

「へーえ。じゃあキスくらいはしたことあんの?」

その問いにぐっと喉を詰まらせた。

「ないんだ。言っとくけど、こうはならねえからな」

テレビを指差され、それくらいわかっていると言い返す。フィクションと現実の違いはわかる。誇張しなければ面白くないということも。

「ああ、でも、そうならないのは君が下手くそだからかもよ?香坂さんならキスだけで天国見せれるかも」

童貞と馬鹿にされたのが悔しくて、彼のコンプレックスをわざと刺激した。
きゃんきゃんとそんなことないだの、悔しいだのと吠えると思ったが、意外にも彼は余裕の笑みを崩さない。

「下手かどうか確かめてみるか?」

「…は?」

「ほら、顔こっちに近付けろよ」

指をくいくいとされ、なに馬鹿なことを言っているのだと呟きながら息を吐いた。

「怖いか童貞」

「怖くない!君となんかごめんだって言ってるんだよ!」

「は、キスくらい別に誰とやってもかわりねえだろ」

「うるさい外国かぶれ!」

「ああ、ファーストキスは好きな奴がいいとか、そういう乙女思考?」

ふんと鼻で笑われ、頭に血が上った挙句考えるより先に手が伸びた。彼の胸倉を掴んで引き寄せ、触れるだけのキスをする。ああ、やっちまった。最中に後悔したが後には引けない。

「ファーストキスなんて拘ってないし」

投げ飛ばす勢いで胸倉を放すと、今度は彼がアホ面をした。
こんな奴にキスをしたのは人生の汚点だが、この顔が見れるなら犬に噛まれたと思ってやろう。
どうだ、これくらいなんてことない。勝ち誇ったように笑い胸を張ったが、彼はくっくと喉を鳴らして笑った。

「お前可愛いな」

笑いすぎて薄らと瞳に溜った涙を拭いながら言われた。

「は?ああ、そういえば君視力悪いんだもんね」

「ばーか、顔じゃねえよ。こんな子どもだましなキス一つでそんなドヤ顔されても…」

思い出してまた笑い始めた彼の背中を思い切り蹴った。

「ドヤ顔なんてしてない」

「いやいや、かなりドヤってた」

反撃できるのが余程嬉しいのか、彼はにやけた面を隠さない。

「うるさい!もう寝る」

逃げるように布団に潜り、頭の先まで引き上げた。
リモコンを操作し、常夜灯に切り替わった部屋はオレンジ色の淡い光りに包まれる。ぎしっとベッドが軋み、滑り込むように入ってきた身体に背を向けた。
やはりシングルに男二人はきつい。自分も彼も身長はそこそこある。嫌でも身体が触れ合い、反射的に身体が強張ってしまう。ああ、なんでこんなやつと。

「…そんな緊張しなくてもお前なんかとって喰わねえよ」

「そんな心配してない」

「キス一つでドヤるくらいだから怖いのかと思って」

いい加減しつこいという意味を込めて腹に肘鉄してやった。

「いった…」

彼はぶつぶつと文句を言いながら、身体の上に巻きつけるように腕を伸ばしてきたので顔だけ振り返った。

「ちょっと、何この手」

「別に意味なんてないけど。狭いからこうするしかねえだろ」

二人で横臥しなければベッドからころんと落ちてしまうのはわかるが、ならば背を向け合ったらいいではないか。
反論したいが自意識過剰と馬鹿にされそうで言葉を呑み込んだ。これくらいなんてことはないが、相手が彼だから苛々するのだ。向こうだってこんな状態屈辱だろうに。
ぎりっと奥歯を噛み締めれば、彼の腕は僕の身体を包むように力を込めた。
ああ、そうか。ボールが目の前に落ちるようにすとんと納得した。
彼は耐えているのだ。揶揄して減らず口を叩いて笑わなければいけないほど。
好きな相手が他の男と逢瀬を重ねる状態はどれほどの苦痛なのだろう。わからないし、理解をしたいとも思わない。けれどその痛みは彼の肌を通して自分にも伝わるようだ。
慈悲の心を掻き集め、ころんと向きを変えた。きっと人恋しいのだろう。その相手が自分でも納得してしまうくらいに。可哀想だから抱き枕くらいにはなってやる。

「なんだ」

「別に。おやすみ」

くぐもった声を出すと、暫くして背中に回っていた手がぎゅっと僕の服を掴んだ。
わかってる。大丈夫、大丈夫。夜はいつか終わるのだから。心の中で呟き、彼の背中をぽんぽんとリズムを刻むように叩いてやった。


END

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