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【櫻井紘輝の場合】


残り香のような甘い言葉を別れの挨拶に変えて手を振った。
客は満足げに微笑んでいたし、今日も抜かりなく仕事を終えることができた。
店長に終了した旨を報告するメールを打ち駅に向かう。
彼女とは九時までの予約だったので、今から寮に戻りシャワーを浴びても日付を超えずに麻生の部屋を訪ねることができる。
電車を待ちながらにんまりと笑みを作りそうになって慌てて顔を引き締めた。
嬉しい、嬉しい。頭は歓喜で満ちているのに胸は息苦しい。こんな気持ちは初めてで、持て余すし馴染まない。わからないから捨てたくなるし、だけど彼の顔を見ると捨てた感情を掻き集めたくもなる。
ぐるぐると無駄な足掻きをしながら考えても、彼を前にすると頭の中が白くなって好きだというシンプルな感情だけが残る。
別れた後はやっぱりこれではだめなのだ、こんな気持ちは早々に消してしまおうと思うのにまた振出に戻る。自分の尻尾を追いかける犬のように同心円状を回っている。
ほとほと疲れるし、これが恋というものなら二度としたくない。
考えながら電車に揺られ、駅を抜けて寮に続く道を歩いた。途中コンビニに寄り、飲み物と小さなケーキを購入した。甘い物は好きだろうか。口に合わなかったら自分が二つ食べよう。袋の中を覗き込んでまた不気味な笑みが浮かんだ。
その時ポケットに入れていた携帯が震え、慌ててそれを取り出した。画面には義母の文字。ふわふわと柔らかかった心が、一瞬で混凝土のように固まった。

「…もしもし」

『紘輝さん?夜分にごめんなさい』

スピーカー越しの義母の声はいつにも増して冷ややかに感じる。

「…いえ。大丈夫です」

『冬休み、何日に戻って来るのかしら』

「あ…」

義母と話すときはいつも喉に何かつっかえたように上手く言葉が出てこない。
これでも昔よりは滑らかに話せるようになったのだけど。

「ふ、冬休みは寮に残る者も多いのでまだ予定が…」

『だけどお正月くらいは帰って来ますよね』

「…はい」

『そうですか。安心しました。予定が決まったら連絡ちょうだい。最寄駅まで迎えを出します』

「…はい」

『それじゃあ、おやすみなさい』

こちらの返事も待たずに切られた電話をぼんやりと眺めた。
先程までスキップをしたいくらいだったのに、今は鉄球をつけられたように足が重い。
深い溜め息を吐きながら部屋に戻り、一先ずは甘ったるい香水の移り香を消し去るためにシャワーを浴びた。
長期休みは大嫌いだ。あの家にいると上手に息ができない。別に意地悪されるわけでもないし、存在を否定されたこともない。だけど父と義母を前にすると気を張り続けてしまうのだ。
だが未成年である自分にとっては逃げられない定め。保護者には元気に過ごしてますと顔を見せる義務があるし、あちらが望むなら叶えてやらねばなるまい。特に血が繋がらない義母が望むなら。
バイトの予約を確認し、間を縫うように二、三日戻ろう。
きっとこれが最後だ。卒業して、独り立ちしたら金銭面で面倒をかけることもないし、自分が責任を感じる必要もない。そのために金を貯めてきた。
バスタオルで適当に頭を拭きながら、乱雑に床に散らかる物を蹴り道を作る。
クローゼットの最奥にある靴の空き箱を引っ張り出した。
ぱかりと開けて中を覗き込む。適当に放り投げられた札や小銭が山盛りになっている。
これを見ると途端に安心する。ブランケット症候群の子どものように。
世の中金さえあればどうにかなるようにできている。
衣食住、生きる上で必要な物はすべて金と交換できるし、ともすれば愛情も金で買えるご時世だ。でも愛では何も買えない。
金があれば一人で生きていける。誰の邪魔にならず、保護もされず、自分の足で立って自由に振る舞える。
部屋を借りるのにいくら必要かはわからないが、たくさんあればその分安心も買えるだろう。
小さくていいし、古くてもいい。自分だけの城を手に入れる。それが実母を亡くしてからの夢だった。それがもうすぐ叶う。あと数ヶ月、卒業するまでの我慢。
家に戻るのもこの冬休みが最後。そう思うと苦痛もだいぶ和らいだ。
気持ちを切り替えるように箱に蓋をしてクローゼットに押し込んだ。
適当に洋服を着て大事にしまい込んでいた麻生へのプレゼントをそうっと持ち上げる。
テーブルの上に放り投げていたコンビニ袋を掴み、よしと気合を入れ直した。
麻生の部屋の扉をノックしぐっと唇を噛み締めた。彼が出迎えてくれる数十秒、数分はいつだって緊張する。扉が開くのを今か今かと待つ時間は死刑台にいる囚人のようだ。
きい、と鈍い蝶番の音と共に麻生の声が降ってきた。

「どうぞ」

「お、お邪魔します」

小さく頭を下げて彼の足元ばかりに視線を固定させた。
顔を見たいがゆっくり徐々に慣らしてからじゃないと、感情が爆発して胸が引き千切れそうになる。
麻生は適当に座って下さいと言い、ぽすりとソファに着くと、今度は簡易キッチンからコーヒーでいいかと聞かれる。短く返事をすると俯きがちだった視界にすっと湯気の立つカップが差し出された。

「ありがとう。これ、甘いの嫌いじゃなかったら…」

お返しとばかりにコンビニ袋を差し出す。彼は中を覗き込み、ふっと笑った。
麻生はよくわからないタイミングで笑うので毎回馬鹿にされたのではないか、間違ったのではないかと不安になる。

「俺もケーキ買ったんですよ。被っちゃいましたね」

「あ…悪い、俺のは別にいいから」

さっとコンビニ袋を背中に隠すとその腕を取られた。

「だめですよ。勿体無いし食べましょう」

「でも二個はさすがに具合悪くなるから…」

「じゃあ明日。明日食べましょう」

「明日…」

明日もここに来ていいのだろうか。それともそれぞれ持ち帰って適当に食べろということなのか。わからないがとりあえず頷いてみせた。

「じゃあとりあえず今日は俺が買った方ね」

彼は冷蔵庫から小さな箱を取り出し蓋を開いた。

「どっちがいいですか?」

覗き込むとモンブランとベイクドチーズケーキがちょこんと隣り合っている。

「…どっちでもいい」

「じゃあ俺モンブラン好きだから先輩はチーズね」

フォークと皿に乗せられたチーズケーキを手渡され、いただきますと呟いた。
一口食べると、あっさりとした甘味とレモンの酸味が舌に心地いい。
客に付き合って女性が好みそうなカフェに入ることも多いが、飲食はなるべくしないので、コンビニ以外のケーキがこんなに美味しいとは知らなかった。
そう思うと自分が買ったショートケーキがちっぽけに思えて申し訳ない。

「美味い…」

「よかったです。同室の奴が美味しいお店よく知ってて、一回買ってみようと思ってたんですよ。モンブランも美味しいですよ。一口食べます?」

ずい、と皿を差し出され、遠慮がちに端っこのクリームを掬って食べた。

「甘い。麻生は甘党?」

「うーん、普段はそんなに食べませんけど、嫌いじゃないですよ」

「そっか…」

自分の皿も差し出して一口ずつ分けっこした。友人同士がそうやっているのを学食でよく見る。自分はそんなことをする友人がいないので、初めての経験だ。
ちっぽけで、日常に溶けてしまうような些末な出来事だが、自分にとっては貴重でとても嬉しい。

「ご馳走様。美味しかった」

甘さをコーヒーで塗り替えて、使用した皿を麻生の分も重ねてシンクへ運んだ。
ソファに戻ると背凭れに腕を伸ばした麻生が首を傾げてこちらを見た。

「…なに」

「先輩片付けできるんだ」

「は?」

「部屋、すごいことになってるから。先輩の部屋だけハリケーンきたみたいに」

「…ああ、自分の部屋はどうでもいい。誰も来ないし、寝るだけだし」

「そういえばコップの一つもないですもんね」

「部屋で飲食はしない。風呂入って着替えて寝るだけ」

「うーん、見た目と真逆」

「見た、目?」

思わず自分の両頬に手を持っていった。自分の顔はどんな風だっただろう。あまり鏡を見ないので思い出せない。不快にさせているのだろうか。嫌な汗が滲む。

「神経質そうなのにね。ちょっと陰がある好青年、って感じで」

「好青年…」

そんな形容をされたのは初めてだ。
客はこんな仕事をしている時点で好青年とは思わないだろうし、年上には可愛いと言われ、歳が近い子にはいかにもな派手な外見ではないので安心すると言われる。

「好青年っていうのは、麻生みたいな奴のことを言うんだと思う」

「俺?俺は別に普通ですよ。そこら辺によくいる普通の人」

「麻生みたいなのがそこら辺によくいたら困る」

「なんですかそれ」

吹き出すように控えめに笑った顔にぼんやり見惚れる。
余裕のある態度と彼が纏う穏やかな空気がとても好きだ。安心できる。麻生のような人が両手を広げておかえりと迎えてくれたら毎日が幸福だろうな。叶わぬ願いは次々に生まれる。胸がちりっと痛み、誤魔化すようにプレゼントが入った袋を差し出した。

「あ、こ、これ。プレゼント」

「ありがとうございます。じゃあ俺も」

小ぶりの袋を差し出され首を捻った。

「早く受け取ってくれるとありがたいんですけど」

「あ、えっと、悪い」

とりあえず受け取ってみたが意味がわからず手に抱えたまま硬直した。
麻生は早速袋を開け、ラッピングを解き、ぱかりとケースを開いた。

「眼鏡?」

「あ、ブルーライトカットのやつだから度は入ってない。麻生いつだったかスマホ見ながら目が疲れるって言ってたから…」

「ああ、すごい。よく覚えてましたね。目がいいせいかなんか疲れるんですよ」

彼は嬉しそうに言いながら眼鏡をかけてこちらに顔を向けた。

「似合います?」

「す、すごく似合うし格好いい!店員さんと相談して決めたんだ。黒と鼈甲で悩んだけど、黒にして正解だった!」

「そんな素直に褒められると照れますね」

好みがわからなかったのでベーシックで細みのウェリントンにしたが、麻生ならハーフリムも似合ったかもしれない。
結局、彼がつければなんでも素敵に見えるのだろうが。

「レンズも透明だからあまり気にならないだろ?」

「はい。軽いし気になりません。ありがとうございます」

ふわりと微笑まれ、どうやらプレゼントは失敗ではなかったらしいと安堵した。
麻生は優しいから表面を上手に繕っているのかもしれないけれど。
これは自分の一方的な我儘なので、気に入らなかったら捨ててくれて構わないと思っていた。それでも喜んでくれたらこちらはその倍嬉しい。

「よかった、よかった…」

ついにこにこと眼鏡姿の麻生を見ていると、彼は両手に乗せていた紙袋を指差した。

「あけないんですか?」

「…え」

「プレゼント」

「俺があけていいのか?」

「先輩にあげたんだし、先輩以外があけたらおかしいでしょ」

くっくと笑われ、そういうことかと合点がいった。
プレゼントをあげたこともなければもらったこともないし、一方的に麻生に押し付けるつもりで、お返しを貰えるなど想像もしていなかった。
見慣れた黄色い紙袋ですらきらきらして見える。どうしてだろう。同じ物なのに。麻生が自分のためにと思うと価値が急上昇する。

「…あけたら勿体無いからこのままとっておく」

「だめだめ。それじゃ意味ありませんから」

ほらほら、と急かされ、慌てて中から小さな箱を取り出した。丁寧にリボンをほどき、包装紙も破らぬよう慎重にあける。
箱を開けた瞬間ふわりと爽やかな香りがし、名刺サイズの厚紙のような物をひょいと持ち上げた。

「…これって」

「カードフレグランスです。先輩バイトの名刺とか持ってるでしょ?名刺入れにこれも一緒に入れておくと香りが移るそうですよ」

「カード、フレグランス…」

「女性ってそういうさり気ない部分もしっかり見てるし、きっとお客さんも喜んでくれますよ」

無邪気な一言に胸に石を詰め込まれたように重苦しくなった。

「…ありがとうな。香りには無頓着だったけど、お前が言う通り、そういうところもちゃんとしないとな」

カード状のそれを鼻に近付け小さく香りを吸い込んだ。
柑橘系の爽やかさは鼻腔を通過した途端なんだか苦く感じた。
麻生は自分の仕事をなんとも思っていない。軽蔑もしなければ称賛もしない。要は自分に興味がないのだ。
女を相手にしようが、男を相手にしようが関係ない。
好いていると伝えたけれど、そんな言葉は一顧だにしない。
彼は振られても忘れられない人がいるらしい。頑固に、一途に彼女しか見ていないのだろう。麻生らしいと思うとふっと笑みが零れた。
傷ついてどうする。自分たちは形容できるような関係がない、赤の他人に近い存在だ。
自分が勝手に追いかけまわし、彼は拒絶するでも受け入れるでもない、ニュートラルな態度を崩さない。
それにつけ込んでいるのはこちらだ。なのに厚かましく傷つくなんて何様か。
麻生を知れば知る程、近付けば近付く程、欲張りになっている自分が怖い。
プレゼントをくれた。それだけで幸福なのに。

「…大事にするよ」

「はい。俺も大切に使います」

眼鏡が珍しいのか、指先で触れては微笑む姿をぼんやり眺める。
麻生を振った奴は大馬鹿者だ。どうしてこんな人間をいらないと言えるのだろう。いらないなら俺にくれよ。
彼は物ではないのだからそんなのは無理だ。わかっているが悔しい、悲しい。
自分は麻生が好きだ。でも麻生の良さを理解しないその彼女を諭したくなる。
こんなにいい男はいない。不安や怒りや嫉妬、そういうものと縁遠そうで、春の陽だまりで昼寝をするようなゆったりと柔らかい時間を過ごせる。
彼でだめなら、その彼女はどんな人を選ぶのだろう。彼よりもずっと善良な人間なのだろうか。そんな人がこの世にいるのか。わからない、わからない。

「…お前が好きな子ってどんな人?」

唐突な質問に彼は目を見張った。

「あ、ごめん、急に」

思ったことがすぐ口に出る。一度整理し、一呼吸置いて言うべきか、黙るべきか考えた方がいい。今まで散々叱られてきたのにプライベートだと悪癖はなかなか直らない。

「言いたくないなら…」

俯いて尻すぼみに言葉を重ねた。知りたいけれど、それを知ってどうするのか聞かれてもわからない。自分は彼女にはなれないし、なったとしても麻生に好かれるわけでもない。

「そういうの、先輩に言うことじゃないと思います」

僅かな沈黙の後言われ突き放されたように感じた。

「そ、そうだよな。俺に言っても…」

「ああ、いや、そうじゃなくて…先輩は俺が好きなんです、よね?」

窺うように聞かれ小さく頷いた。

「なら、俺の好きな人の話しなんて聞いても嫌な気持ちになるでしょ」

「…そんなことないけど」

嘘だ。きっと苦しくなる。なのに知りたいと思ってしまう。
麻生が好意を寄せるくらいだからきっと素敵な人なのだろう、なんて抽象的な想像でもやもやするより実物を知った方が傷が浅くすむ気がするし、諦められる気もする。
だけど麻生は苦笑したまま口を開こうとしない。
簡単に話せないほど大事な人なのだろう。勝敗は最初からわかっていたのに顔も知らない彼女に大敗を喫した。

「じゃあ、好きな子には他に好きな人がいるって言ってたけど、その人はお前よりいい男?」

「どうでしょうねえ」

麻生は顎に指を添えて宙を見た。何かを思い出しているようで、時折くすっと笑う。

「いい男の基準はわかりませんけど、一般的には俺の方がいい人、かな?」

「…それなのにそっちを選ぶんだ…」

麻生に失礼なことを言ったと気付いたのは静かな沈黙が落ちた後だ。またやってしまった。

「あ、いや、そうじゃなくて!お、俺は麻生はすごくいい男だと思うから不思議だなあって…麻生を振ってまで選ぶ相手ならもう、神様みたいな人なのかなって…」

フォローにもなっていない言葉を焦りながら身振り手振りを交えて言うと、彼はふっと笑った。

「確かに神様みたいに崇めてますねえ」

麻生は一旦笑みを消し、僅かに俯いた後また笑った。

「口も悪いし乱暴者だし冷たいし自己中ですけど…それでも何か刺さるものがあるんでしょうね。俺にはないたくさんの物を持っているんだと思いますよ」

悟ったような顔をしているが、麻生が心の深淵に負った傷は大きく深いものだとわかった。

「そっか…そうだよな。いい人とか、悪い人とか、そういうことじゃないもんな。なんで麻生の良さをわからないんだって苛々して。そんなの俺の勝手だけど…」

「はは、そう言ってくれるとちょっと嬉しいな」

「嬉しい?」

「はい。俺も思いますもん。俺の方がいい人間なのに、なんであんな奴を選ぶんだって」

穏やかで柔らかい印象の彼から出た言葉とは思えなかったが、あっけらかんと言う姿は痛みを少しだけこちらの手に乗せてくれたような嬉しさがあった。

「まあ、その嫌な奴にベタ惚れなんで諦めるしか道がないのが救いです」

「諦めるしか、道がない…」

彼の言葉を無意識に復唱した。
彼と自分の状況はよく似ている。誰かが誰かを想っていて、片方だけの気持ちは行き場を失くし、宙ぶらりんのまま放置される。どこかに収める方法もわからず、どくどくと流れる血を呆然と見ながら耐えるしかない。
なにも珍しい話しではない。世の中の大半は片想いをして傷つき、傷つけを繰り返す。
コンビニの店員さんも、同じ電車に乗った人たちも、授業を一緒に受けるクラスメイトもこんな気持ちを隠しながら平然としているのだ。
たかが片想いで右往左往する自分がひどく子どもっぽく思えて恥ずかしい。

「あ、これは俺の場合ですからね?」

だから一緒くたにせず自分の道を探してほしい。そう言いたいのだろう。
だけど自分の道など最初からない。舗装もされていない荒れた道を歩いているだけだ。麻生は最初から自分に興味がないし、同性なのだからこの先万が一、なんてこともない。
自分が女だったらもう少しやり方があったかもしれない。でも男じゃスタートラインにすら立てない。

「いや、俺も同じだよ。振られたんだからさっさと諦めろって感じだよな」

重苦しくならないよう、あっけらかんと笑ってみたが麻生はにこりともしない。

「なのにプレゼントやったりしてごめんな。振った相手がこんな調子じゃお前も気遣うだろ」

彼は真っ直ぐこちらを見ているが、それには気付かないふりをして、テーブルの上のカップに視線を移した。

「ストーカーみたいに追いかけたりはしないから安心してくれ。先輩だからって気遣わなくていいから。迷惑とか、鬱陶しいとか、言ってくれていいからな」

二人の間の空気がずっりと重みを持った気がして、また言葉選びを失敗したと気付く。
誤魔化すように無駄に明るく笑ってぱんと手を叩いた。

「じゃ、俺帰るな。遅くまで邪魔して悪かった」

麻生からもらったプレゼントをしっかりと持って立ち上がった。
麻生は何も言わない。せめてどんな顔をしているのか見たかったがそんな勇気はない。
彼はいつも見送りはしないので、今日もさっさと帰ろうと大きく一歩を踏み出した。
折角麻生が会ってくれたのに、楽しい話題も提供できない自分が情けない。
いつも困らせてごめんな。心の中で謝罪し、彼の横を通り過ぎるとぐっと腕を掴まれた。

「……麻生?」

「ごめん先輩」

「…なにが。謝られるようなことは…」

「ごめん…」

何度も繰り返される言葉に困惑する。謝らなければいけないのは自分の方だ。
勝手に好きになって、勝手に付き纏って、勝手に押し付けて。
好きになるのも辛いが、好きでいられるのも辛いだろう。ましてや男だし、気持ち悪いと殴ってもいいのに優しい麻生はそんなこともしない。

「…また来てよ」

やっと顔を上げた彼は親に置いていかれる子どものように不安定な表情をしていた。

「でも…」

「明日も来て。また一緒にケーキ食べよう」

なにかを引き延ばすかのように言葉を遮られ反射的に頷いた。

「約束ですよ?」

念を押すように言われ、もう一度大きく頷くと握った腕を離してくれた。ほの暗い闇のような瞳は消え失せ、微笑む顔はいつもの麻生だ。

「引き留めてすいません。暖かくして寝てくださいね」

「…うん。じゃあ、また明日な」

彼の部屋を辞去し、廊下に出た途端ぶわりと頬が熱くなった。
次の約束を麻生からしてくれた。腕を握ってくれた。
失礼な言動ばかりで、彼を笑わせるような芸当もできず、退屈なだけの自分と明日も一緒にいてくれる。
諦めるしか道がない。わかっている。彼は優しいから、同性愛に差別的ではないと示すように愛想良く振る舞っているだけかもしれない。
なのにこんな小さな約束一つで万歳したくなって、嬉しいが増えると後々苦しいで返ってくると知ってるから項垂れたくもなる。
早く麻生の前から姿を消した方がいい。お互いのために。
なのに、今日だけ、明日だけ、もう少しだけ――そうやってぐずぐずに溶けて後戻りできなくなりそうな自分が怖いと思った。


END

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