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脱衣所で背を向け、さっと彼にタオルを差し出した。
「これをお使いください」
「は?つけて入れねえぞ」
「わかってるけど!その…」
「あー、はいはい」
観念したように腰に巻き、一足先に風呂を向かったのを確認し、自分も洋服を脱ぎ捨てた。しっかりとタオルを巻き、堪えてくれよ、我が息子と語りかける。傍からみたらアホ丸出しだが、ここで終わるか延長か、自分が耐えられるかにかかっていると思うのだ。
意を決して扉を開けると、向こう側は想像以上に薄暗い空間だった。
相手の顔が仄かにわかる程度で、シャワーも他人の視線を気にせず済むような設計になっている。
三上は風呂の縁に両手を伸ばし、上を向いて瞳を閉じている。
こうして見ると本当におじいちゃんのようだ。いそいそと掛け湯をし、そっと温泉に足先を突っ込む。思ったほど温度は高くなく、とぷんと沈むように肩まで浸かった。
彼に背を向けて縁に顎を乗せるようにして身体を温める。極楽、と小さく呟いて瞳を閉じた。
あまり長湯をすると本当に倒れそうなので、先に身体を洗い、もう一度湯に入る。
「おい」
肩を叩かれ振り返ると、彼は奥を指差した。
そちらはもう一段灯りが落とされており、夜の中に沈むような空間だった。
三上が立ち上がってそちらに移動したので、自分も慌てて後を追う。これくらい暗ければ万が一おかしな反応をしても相手からは絶対に見えない。
安心感から彼の傍にすべり込むように着いた。
「冬に温泉を好む動物の気持ちがわかるよね。猿とか、カピパラとか」
「ああ、そういえば似てるな」
「なにが、なにに?」
「お前がカピバラに」
「似てないってば」
「似てる。のんびり、ぼんやりしてるとこ」
悔しいが言い返せない。どちらかというとせっかちなタイプだと思うのだが、ぼんやりとはしているらしく、昔から色んな人に注意されてきた。今でも母によく叱られる。
「み、三上は蛇に似てる!」
お返しとばかりに若干失礼なことを言ったが、彼はくっと喉で笑った。
「それ甲斐田にも言われたな」
「目とか、ひょろっとしてるところとか、ちょっと不気味なところとか!」
「ひでえ言い様」
「そんなとこも好きです!」
「あ、そう。他に客いなくてよかったな」
はっとして自分の失態に気付いた。ぽっかりと暗く、狭い空間に勘違いをしていたがここは公共の場だ。
自分が人から後ろ指を指されるのは慣れているし構わないが、三上まで嫌悪の瞳で見られたら死にたくなる。
「ごめん。ついいつもの癖で…」
「別に。誰に聞かれても二度と会わないだろうし関係ねえだろ」
呼吸をするようにさらりと言われ、そういう強さが羨ましいと思った。
彼は人の目ばかり気にして身体を小さくする自分とは違う。誰になにを言われようが気にしない。自分の評価を他人に委ねたりしないから。
元々の性格なのか、彼をそういう人間にさせる出来事があったのかはわからない。彼について知らないことは山ほどある。
でも、自分もそういうところを学んで目指していきたい。そうしたらもう少し生きるのが楽になるかもしれない。
気分が沈みそうになり、慌てて笑顔を作った。
「そういえば潤たちに会わないね。潤たちも混む時間避けそうなのに」
「あー…多分、あいつらは一歩も部屋から出ないと思う」
「ああ、有馬先輩が離さないか…」
「いや、潤が」
予想外の返事に目を丸くして三上を見た。
「あいつ、お前に妬いてたから」
またまた予想外の言葉に大きくした目をぱちぱちとした。
「妬く?」
「お前と有馬先輩がいちゃいちゃするもんだから僕といる時より楽しそうって頬っぺた膨らませてたぞ」
「い、いちゃいちゃなんてしてないよ!」
「そうか?」
「そうだよ!でもお姫様のご機嫌を損ねちゃったのはまずいな」
「あいつにはいい薬だ。まあ、妬いたところで有馬先輩は鬱陶しいとか言いそうだけど」
そうだろうか。有馬先輩は感情を表に出すタイプではないが、心の底に潤に対するじっとりと重いものを抱えていると思う。
彼も機械ではない。妬かれたら可愛いし、素直になってくれたら甘やかしたいと思うのではないか。普段横暴な潤なら尚更。
しかし自分なんかに妬くなんて潤も可愛らしいところがあるではないか。ふふ、と笑いが漏れた。
「僕なんかに妬くなんて変なの」
「…お前と有馬先輩は人間の相性がいいし、確かに俺も思った」
「なにを?」
「俺といるときより楽しそう」
「そんなことないよ!」
慌てて否定したが本音を言うと確かに楽しかった。三上と比べられるものではないし、優劣をつける問題でもない。
「有馬先輩はちょっと苦手だったけど今日遊んでみたら意外といい人だった」
友だちになれるわけではないけれど、こんな自分と積極的に遊んでくれて嬉しかった。
有馬先輩も潤と同じで人の側面だけで判断せず、自分の目で見たものを信じるタイプなのだろう。そういう人たちに自分は救われている。
えへへ、と気恥ずかしくて俯きがちに笑ったが、三上はふーんと興味なさそうに呟いた。
会話が途切れ、お湯を掬っては戻しをなんとなく繰り返し、ちらりと隣を窺った。濡れた髪を後ろに撫でつける姿は想像以上に婀娜っぽい。細く、長い首からしっかりとした肩幅に流れるような筋肉。
あ、これだめだ。悟ってしゃがんだまま移動した。
「ぼ、僕のぼせそう。先に上がって待ってるから」
逃げるように言いながら風呂を出た。
浴衣に着替え、ぱたぱたと手で頬を扇ぐ。
ラタンで編まれた大振りの椅子に腰かけ一つ息をつく。強い意志を持たなければ思考がそちらに流れてしまう。
恋人同士で冬休みに温泉旅行。彼が自分を欲の対象にしていないとわかっていても、炭酸の泡のように小さな期待が生まれては消えていく。
ゆるく首を振りしっかりしろよと言い聞かせた。
ドライヤーで髪を乾かし終えると丁度三上が戻り、二人揃って大浴場を出た。外は痛いくらいに空気が冷たく、見えない刃物のようだ。
「うー、寒い」
「部屋戻ったらもう一回風呂入るかな…」
「賛成」
大浴場も素晴らしかったが、備え付けの風呂も小ぶりだがしっかりとした造りだった。折角の宿なのだから隅から隅まで楽しまなければ損だ。
一泊しかできないのがとても残念だ。休み中、三上をこの場所で独り占めできたらいいのに。
首を竦めながら足早に部屋へ駆け込み、順番で湯に浸かった。
浴室は檜の清々しい香りに交じって柑橘系の香りがする。浴槽を覗くと柚子が贅沢に入っていた。
「おお、柚子湯」
身体を丸めて柚子を両手で持った。鼻を近付けると爽やかさの中に苦みが混じった匂いが鼻腔を抜ける。楽しくていつもより長風呂をしてしまった。
リビングに戻ると彼の姿はなかった。きっと二階のベッドルームに向かったのだろう。
ベッドはダブルだったので共に眠ることになるが、十分な広さもあるし、寮で狭いベッドで一緒に眠ることに比べたら余裕だ。
彼はスノボでくたくただろうからもう眠っているかもしれない。
最後にお茶をもう一杯飲んでから自分も二階に上がった。
骨組みを和紙で包んだようなスタンドライトだけが灯るオレンジ色の部屋。そっとベッドを覗き込んだが、三上は横臥し瞳を閉じていた。
起こさぬよう反対側に回り、ベッドに静かに腰を落とした。窓の外ではいつの間にか羽根のような雪がひらひらと舞っている。
携帯で時間を確認するともうすぐ日付が変わる。
もう少しだけ非現実的な世界に浸りたくて、頭の中を空にするように景色を眺めていると後ろから腰をぐっと引かれた。
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