3


眼鏡がなければ何も見えない有馬先輩を置いて遊ぶわけにもいかず、丁度陽も暮れ始めたので車に戻った。
途中遅めの昼食を摂り、お菓子を買うためコンビニにも寄った。
何処の宿に泊まるのかは事前に聞いていなかったが、辿り着いたのはそういうものに疎い自分でも知っている温泉宿だった。

「テレビで見た」

わあ、と感嘆の溜め息を吐く。他三人は大した感動もなさそうに車からさっさと降りてしまった。貧乏人丸出しで恥ずかしいと思うけど、確かに潤が言った通りこんな宿に泊まれるのは一生に一度の機会かもしれない。しかも大好きな友人と大好きな恋人がいる。おまけで少し苦手な先輩も一緒だけれど。
それぞれの部屋が離れのように独立しており、他の人の気配を感じずにゆったり過ごせそうだ。
自分たちが案内されたのは受付から程近い建物で、そこで潤とはお別れだ。軽く手を振り三上と隣の建物に足を踏み入れる。
メゾネットタイプで一階はリビングや浴室、二階が丸々ベッドルームだ。
一通りの案内が済んだので、リビングのソファに座りながら溜め息を吐く。

「すごい…」

ぐるりと室内を見渡しながら呟いた。
天井は高く梁は墨色で、室内は抹茶を点てた後のような深い緑に包まれている。

「そういえば温泉に泊まることが人生初かも」

もしかしたら自分の記憶にない頃、両親が婚姻関係を結んでいた頃にはあったかもしれないが、母子家庭になってからは子ども三人を連れて温泉で羽を伸ばす贅沢が許される身分ではなく、母は毎日を必死に生きているだけで精一杯だった。
もう一度ぐるりと室内を見渡し、将来親孝行として母を連れて来ようと誓った。一泊いくらするのかは怖くて聞けないので、今度ネットで調べてみよう。
三上は黙ってソファに座り案内マップを広げている。
全体的に和の空気を大切にしている建物や、室内の装飾は彼の空気にとてもよく馴染んでいる。

「身体冷えたし風呂入りてえな」

ぼつりと呟いた言葉を地獄耳でキャッチし、すっと立ち上がり拳を作った。

「行きましょう!」

「一人で行くけど?」

「折角の温泉なんだから一緒に行こうよ!」

「俺はいいけど、お前大丈夫なの?」

「なにが?」

「鼻血出してぶっ倒れるかと思って」

「あ……」

言葉の意味を理解し、しおしおと萎れる花のように元の場所に座り直した。
温泉にはタオルを巻いて入れない。そもそもこの男は他人の目を気にしてタオルなど巻かないだろう。
上半身裸なだけで目のやり場に困ると嘆く自分が、そんな空間にいたら温泉の熱さと相まって茹蛸状態になる。

「…じゃあ僕は潤と一緒に行くので…」

「部屋にも風呂あるけど」

「折角だから広いお風呂には入りたい」

「潤と一緒だと有馬先輩も一緒だろ?」

「有馬先輩は別に大丈夫…」

「でもお前ゲ――」

ゲイじゃん。そう言いたかったのだろうが、寸でのところでデリカシーを発揮し、軌道修正したらしい。
ゲイだからといって誰にでも反応するわけではないのだが、その感覚は彼に理解できないだろう。
男性だって誰彼構わず女性の裸体を見たいわけでもあるまい。しかし、感情と本能は別なので、絶対に大丈夫だとは胸を張れない。

「…大丈夫だよ」

苦く笑ってやんわりと否定した。

「随分有馬先輩と仲良くなったな」

「え?」

ぼそりと言われた言葉は耳に届かず聞き返したが、彼からそれ以上の反応はなかった。
三上はマップを手に立ち上がりさっさと部屋を出てしまった。
彼と温泉を楽しめないのは非常に残念だが、挙動不審でのぼせて迷惑をかけるなら歯を食い縛って耐えよう。
仲居さんに案内された引き出しを開け、作務衣と浴衣を両方取り出した。
作務衣の方が楽かもしれないが彼に似合うのは断然浴衣だ。
季節は冬真っ只中だが室内はぽかぽか暖かいし、床暖房もきちんと機能している。
このくらい室温が安定していれば浴衣でも然程寒さを感じないだろう。いや、しかし彼は寒がりな上、温泉から部屋に戻る間は外を歩くので身体を冷やすかもしれない。
腕を組んでうーん、と一通り唸って作務衣は棚の中に戻した。
やはりここは温泉定番の浴衣姿を見たいではないか。きっととても色っぽいだろう。一生に一度かもしれないので写真を撮りたいが、それは絶対に断られるので目に焼き付けなければ。
浴衣を眺めてにやにやし、我に返ってソファに座り直した。
携帯をとりだし潤に電話をするため連絡先を開いたが、通話ボタンを押す瞬間に気付いた。
スノボ中は有馬先輩は自分とばかり遊んでいたし、折角二人きりの個室に入ったのだからこの先は邪魔をしない方がいいのではないか。
能天気に電話をかけたら気の回らない子という烙印を押されるだろう。
自分たちと違って彼らはきちんとした恋人同士だ。まだ夜は深まっていないが、部屋のお風呂でいちゃいちゃしているかもしれない。
ぱたりと携帯を閉じる。何かあればあちらからかかってくるだろうし、こちらからは一切の連絡をやめよう。そうなると広い温泉に一人で行く破目になるが、仕方がない。

備え付けのケトルでお茶を淹れ、ソファの対角線にある広い窓の外を眺めた。
ふっくらとした雪が積もる景色はとても目が休まる。音が雪に吸収されているかのようにとても静かだ。
元は理事長が予約したらしいが、なるほど、これは喧噪の中で戦う大人たちにはさぞ癒しになるだろうと思う。
心にぽかんと空間が広がるような寂しさを孕んだ冬の景色も素晴らしいが、他の時期もさぞ美しいのだろう。
自分がもう少し大人だったら、また受ける感覚も違ったのかもしれない。
大学を出たり、就職したり、社会の歯車の一部として成長したらもう一度三上と来てみたい。ぽかんと浮かんだ欲に苦笑して首を振った。その頃一緒にいられる確率はゼロに近いのに、願わずにはいられない。堪え性のない自分が愚かだ。

「寒い」

入口を開けるなり三上が身体を小さくしながら戻ってきた。

「おかえり。お風呂どうだった?」

「風呂はよかったけど寒い」

予想通り、暖まった身体が戻ってくる途中で冷え切ってしまったらしい。
独立した完全にプライベートな空間は他の客の視線も音も気にせず過ごせるが、少し面倒でもある。

「これ、浴衣だよ」

自分の膝の上に置いていた浴衣をさっと差し出す。彼は疑問も持たずに私服からそれに着替え、茶羽織を着て、更にブランケットを肩から被った。
これでは浴衣姿を堪能できないが、三上のことだからきっとこうすると思っていた。
彼の分のお茶を淹れ、身体を温めるように言う。
暫くすると寒さが消えたのかブランケットをばさっとソファに放り投げた。
適当に着付けをした浴衣は時間が経過する毎に肌蹴、胸の合わせが広がっていくし、足を組めばすらりとした下腿がよく見える。こんな官能的な衣服を発明してくれてありがとうと小さく祈るポーズをとった。
室内にはテレビもないので、お互い無言で静かな空間を持て余していると携帯が鳴った。
潤からで、夕食を食べに行くぞというお誘いだった。
昼食を摂ったのがかなり遅かったので然程腹は減っていないが、予約の関係もあるのだろう。
和食中心の夕飯に舌鼓を打ち、また部屋の前で彼らと別れる。自分も風呂へ向かおうと下着を鞄から取り出した。

「お風呂行ってくる」

「…もう少し遅い時間の方がいいんじゃねえの」

「なんで?」

「今の時間混んでるだろ」

「そう?でも宿泊客自体そんなに多くないし、たぶん大丈夫だよ」

じゃ、と手を挙げたがその腕を握られた。

「もう少し後だ」

「…はい」

そんなに心配せずとも赤の他人の裸体を見て反応する失態は犯さないのに。
寮の大浴場もたまに行くが、風呂は作業の一環で、いやらしい目線で見なければ他人の裸も気にならない。
温泉を楽しみにしていたので、できればすぐに行きたかった。しょんぼりと肩を落とす。

「俺も一緒に行くから」

「マジ!?」

「ああ。風呂かなり薄暗かったし、それなら目のやり場にも困んねえだろ」

「うん!」

こくこくと頷き期待に瞳が輝いた。
でも三上はいいのだろうか。ゲイということを了承してお付き合いしているが、実際男にそういう目でみられることに嫌悪感を抱かないのだろうか。
清いお付き合いならば然程気にならないだろうが、色を含んだ瞬間に興醒めするという話しはよく聞く。
本能的な恐怖心だろうから責められないし、拒絶されてもああ、やっぱりねという諦めしかわかない。
でもそうなるくらいなら清く、正しく、プラトニックな関係で隣にいられた方がずっといい。
急に怖くなって青ざめた。この旅行がエンドマークになったらどうしよう。やっぱり女がいいと彼が現実に戻ったら。
彼は元々ノンケなのだからその方がいい。周り道はしたがきちんと女性を好きになれるならそれが一番だ。理性的な部分で納得し、感情的な部分ではそんなの嫌だと駄々を捏ねる。二つを天秤にかけると彼を失いたくない我儘が勝ってしまう。どこまでも自分勝手だ。

「…あ、あの、やっぱり一人で行く」

「なんで」

「のぼせて倒れたら迷惑かかるし」

「一人で行ったら他の奴に迷惑がかかるか、見つけてもらうまでのぼせ続けるぞ」

「三上と一緒じゃなければのぼせないから大丈夫」

「そうか?お前のことだから広いお風呂泳げそうー!あ、僕泳げないんだった!楽しいー!ってのぼせそうじゃん」

ワントーン声を高くした話し方にじっとりとした視線を向けた。

「それ僕の真似?」

「そうですけど」

「全っ然似てない」

「似てるわ」

「似てない!」

下らない押し問答を繰り返し、とにかく一緒に行くと言って聞かない三上にそれ以上否定するのはやめた。
俯くか、窓の外でも見てやり過ごそう。間違っても下肢が反応しないよう、修行中の僧侶にでもなった勢いで精神統一すればどうにか乗り越えられるだろう。

[ 34/57 ]

[*prev] [next#]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -