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「スノボ日和!」

潤は車から降り両手を天に掲げた。スカイブルーに、もちもちしていそうな雲が都内より速く流れている。
車から必要な荷物だけを取り出し、あとは車に置きっぱなしにした。
理事長は車も手配してくれ、氷室家の運転手として雇われているのにただの高校生の足にしてしまったことを運転手さんに詫びた。丁寧に頭を下げると、柔和な声で「とんでもございません」と微笑まれる。できる男という雰囲気に当てられ、ますます申し訳なくなってぺこぺこ頭を下げた。

「真琴行くよー!」

「どうぞ、楽しんできてください」

目尻の皺を濃くして微笑まれ、最後にもう一度腰を九十度に折って礼をした。
ゲレンデの銀世界に圧巻され足を止めて見惚れた。こんなに深く雪が積もっているのを見るのは初めてだ。東京の積雪は多くても数センチ程度で、すぐに溶けるか道の端で鼠色になって固まるかだけだ。
真っ白で、目が痛くなるほど反射して、それは世界をより一層美しくしている。
スノボなんてせずともこの景色を見ているだけで楽しいかも。そんなことを考えてぼんやりしていると、早くしろと潤に怒られ慌ててそちらへ向かった。

自分と有馬先輩は初心者なので必要な物をレンタルし、三十分程度の初春者レッスンに参加する。
潤と三上は自宅から道具一式を送ってもらったようで、準備体操もそこそこに二人でじゃ、と手を挙げて去ってしまった。
一日では上達しないだろうが、少しでも滑れるようになれば三上と遊べる。頑張ろうと拳を作ったが、レッスンを受けても初心者コースで実際に滑ってみてもまったく前に進めなかった。
有馬先輩は早々に諦め、ロッジの近くでこちらを眺めている。
転び過ぎてお尻が痛くなった頃、漸く先輩の元に辿り着き、苦笑しながら難しいですねと言った。

「私も運動は苦手ですが、泉君も大概ですね」

「いやー、はは…。でも有馬先輩が運動苦手って意外ですね」

「そうですか?見た目通りでしょう?」

「何でもそつなくこなしそうだから」

「人間誰でも得手不得手がありますよ。大体運動ができたからって何の役にも立たない
。勉強ができた方が得です」

吐き捨てるように言ったのを見て、意外とこの人も子どもっぽいのだと気付く。笑いそうになるのを堪えていると、潤と三上が揃ってこちらに戻ってきた。

「どうだった?できた?」

ゴーグルを挙げながら潤が言い、苦笑しながらやんわりと首を左右に振った。

「まあ、予想通りだけど。先輩は?」

問われているのに有馬先輩は無視をしてぷいとそっぽを向いた。

「うわ、その態度うける」

自分の方が勝っているのが相当嬉しかったのか、潤は高らかに笑いながら下手くそは無理すんなと言い放ち再び三上と去って行った。
そんな風に有馬先輩を挑発して大丈夫なのだろうか。
不安になりちらりと横に視線を移すと、明らかにこめかみに青筋を立てながら潤の背中を追っていた。

「じゅ、潤は運動神経いいですもんね」

フォローした方がいいだろうと思ったが、この人に平凡な言葉は届かないだろう。

「…泉君」

「はいっ」

しゃきんと背筋を伸ばす。まさか自分に八つ当たりされるのだろうか。

「寒いですし、何か温かい飲み物でも」

広いロッジを指差されこくこくと頷いた。今は有馬先輩の神経を逆撫でしないよう、黙って言うことを聞くのが得策だろう。折角の旅行だ。二人が険悪な雰囲気になったら自分も楽しむどころではない。
休憩や食事が楽しめるロッジは広いゲレンデ内に点々とある。
すぐ傍にあった建物に入り、フードコートで紙コップに入ったコーヒーを驕ってもらった。息を吹きかけるとしんと冷えた鼻の先が温まり心地よい。
動いていれば寒さなど気にもならないだろうが、ぼんやり突っ立っていると末端がどんどん冷える。防寒しても隙間から冷たい空気が侵入するのだ。

「生き返る」

「それはよかった」

コンタクト姿の有馬先輩は見慣れなくて、薄いレンズ一枚を隔てないだけで急に気恥ずかしくなる。
見た目だけならすいすい滑れそうなのに、どてんと正面から雪に倒れた彼を思い出してふふっと笑みが零れる。

「なにか?」

「いえ!なんでもないです!」

危ない。馬鹿にされたと気付かれたらプライドが高そうな有馬先輩のことだから完全にへそを曲げるし、自分も人のことを笑えないほど少し進むごとにごろんごろん転んだ。滑っているのか転がっているのか判断できないくらい。

「あ、有馬先輩は潤と二人じゃなくてよかったんですか?」

話題を変えたくて早口で捲し立てた。
彼はじっとりとした視線を寄越したが、すぐに顔を外に向け、僅かに肩を落とした。

「ええ。最近あの子は私と二人きりになるのを嫌がるので」

「え…?な、なんで。喧嘩でもしたんですか?」

「いえ」

二人は常に喧嘩をしているので、今回もつまらない意地の張り合いが長引いているのだと思ったが、意外にもそうではないらしい。

「潤は突拍子もない考えに至るので詮索はしないことにしました」

「じゃあこのまま放置、ですか?」

「私が無理にでも囲えばいいだけですし。今回みたいに」

「でも、気になりませんか?嫌われたのかなあとか、怒らせたかなあとか…」

「別に。私に愛想が尽きたならそれも仕方がないでしょう」

あまりにもあっさりとした言葉は有馬先輩にお似合いだが違和感もある。
この二人は互いの文句なら立て板に水ですらすらと喋るが、肝心要の柔らかい感情をお互いひた隠しにする。
だから喧嘩して拗れるのだ。わかっているだろうに、どうして二人とも素直にならないのだろう。そんな下らないプライドで大事な人を失うくらいならすべてを曝け出した方がいいと思うのだけど。

「泉君は三上に愛想尽かされてませんか?」

有馬先輩は片方の口端を僅かに上げた。

「…たぶん。おそらくは…」

「随分自信なさげですね」

「何を考えているかさっぱりで」

はは、と乾いた笑いを浮かべる。人に説教できるほど自分の恋愛もうまくいっているわけではない。
外野に回れば簡単にわかることが渦中に入った途端見えなくなる。恋などそんなものだ。

「ああ見えて三上は単純な男です。終わりを告げられないなら今の関係を気に入っているのでしょう」

「そうだといいんですけどね…」

気恥ずかしさと自信を持てない情けなさで俯きがちに呟く。
有馬先輩は持っていたカップをテーブルにこん、と置いた。

「あれやりましょう」

彼が指差した方を視線で追うとスノーチュービングと書かれた看板があった。

「スノー、チュービング?」

「折角雪山まで来たのでコーヒー飲んでだらだらしていたらいつもと同じですしね。スノボやスキーは無理でもあれなら大丈夫でしょう」

「え、なにをするものなんですか?僕でもできるのでしょうか?」

「大丈夫ですよ」

さあさあ、と腕を引かれ急かされた。
大股で歩く有馬先輩について歩き、行きついた先には雪で作った長い滑り台のようなレーンがあった。
傍には中心が窪んだ浮き輪のようなものが転がっている。
笑顔が眩しい大学生くらいの従業員が参加されますかと爽やかに聞き、有馬先輩が大きく頷いた。

「え、え、ちょっと先輩」

「大丈夫大丈夫」

従業員に指導されるがままに窪んだ中心にお尻を乗せると坂の天辺から勢い良く背中を押された。
レバーをしっかりと掴んでいるが頬を切るような風に呼吸が止まり、ひっ、と引きつった声が出た。まるで氷上のウォータースライダーだ。
くるくる回りながら、時には大きくジャンプもして、その度に先に逝くことをお許しください母上様と心の中で唱えた。
ようやく止まった頃には心臓はうるさく、暫く立ち上がれなかった。
小さな子どもですらきゃっきゃと声を上げて喜んでいるのに、自分ときたら寿命が一気に縮んだ。

「どうでした?」

気付くと有馬先輩が隣におり、用具を掴みながら笑った。

「し、心臓に悪いという感想しか…」

「楽しくありません?」

「有馬先輩は楽しいんですか!?」

「はい」

さすが心臓に毛が生えているだけはある。それとも自分が臆病すぎるのだろうか。
遊園地の絶叫マシンも見ているだけで内臓が飛び出しそうな自分にはハードルが高い。

「次は二人乗りしてみましょう」

ぐいぐいと腕を引かれ、もう一度コースの入り口まで移動させられる。
結局計五回ほど滑り、最後には少し楽しいかもと思えたが、あの疾走感はしばらく味わいたくない。

「次はなにをしましょうか」

「ま、まだ何かやるんですか!?」

「折角ですし」

「ちょっと、休憩を…。そうだ、雪だるま作りましょう」

彼の腕を引きながらゲレンデの端の方、皆の邪魔にならない位置まで移動し、しゃがんでころころと雪玉を転がした。後方にいた有馬先輩は丁度いい枝を探し、それを数本手にしてやるからにはとことんやると言った。
まさか有馬先輩が雪だるま作りに積極的になるとは思わず吹き出してしまう。

「バケツがないのが寂しいですね」

邪魔にならぬよう、小ぶりの雪だるまをせっせと三段重ね、枝を胴体部分の両端に差し込んだ。

「バケツですか…。作りましょう」

何を言っているのかと思ったが、彼は雪で器用にバケツを作り、若干歪な雪玉にぽん、と乗せた。

「バケツというよりシルクハットですね。一気に紳士っぽく…」

「確かに…」

こうなったら徹底的にやってやろうと、雪玉を枝で削ってタキシードを着せてやった。

「おお、これはなかなか」

有馬先輩が満足げに頷いたのでくすりと笑って雪だるまの写真を撮る。

「有馬先輩も写真撮りません?」

「そうですね。折角ですし。泉君も入って下さい」

「ぼ、僕もですか?」

「はい」

気乗りはしなかったがおずおずと雪だるまの隣にしゃがみ込んでカメラに目線をやった。
ぴろん、と軽快な音が鳴り、今度は一緒に撮りましょうと二人で挟み込むようにした。

「もう少し寄ってください」

「は、はい」

間に雪だるまがあるとはいえ、これは少し近付きすぎでは。
というか、自分は友人の恋人と何をやっているのか。急に現実に戻ったが遅く、有馬先輩はいい写真が撮れたとご満悦だ。

「寒くありませんか?」

「あんまり。雪だるま作りも結構体力使いますしね」

「確かに。でも…」

すっと手を差し出され、彼はそっと耳を挟むように触れた。

「耳が真っ赤ですしこんなに冷たい」

「そ、そうですか?」

「風邪ひいたら大変ですよ」

先輩がつけていたイヤーマフをかぽりとはめられ小さく礼を言った。

「この雪だるま、いつまでここにいてくれるでしょうね」

名残惜しそうに彼が言うので、きっと夏がくるまで頑張ってくれますよと励ました。
おそらくすぐに壊されたり、吹雪いたら雪中に隠れるのだろうけど。
たかが雪を固めただけの物体だが、この場に置いていくのが心苦しい。一緒に連れていけたらいいのに。
子どもの頃に何度も読み返したスノーマンの絵本。お伽話と理解しても本当にあったらいいのにと願わずにいられない。

「スノーマン思い出しますね」

有馬先輩に言われ、同じことを考えていたのが嬉しくて前のめりで頷いた。

「まあ、現実で雪だるまが近付いてきたら怖いでしょうけど」

「先輩は夢がないなあ…」

「だって怖くないですか?雪だるまの中に化け物が潜んで、可愛らしい容姿に騙された子どもを喰うなんて都市伝説もあるんですよ?」

「やめてください夢に出そう」

そういえば蓮がその手のホラー映画を見ていた。どこかの国には大雪の日、雪だるまに化けた魔物が寂しい子どもを誘い出し、その子はその後見つかることはないのだとか。
蓮は見た目に反してパニック映画やホラー映画を好むので、自分は途中で音をあげて自室へ避難するのがお決まりのパターンだ。
映像を思い出して青ざめていると有馬先輩に腕を引かれ、彼の後方へぶん投げられた。
何が起きたのか理解できず、顔から雪に突っ込んだ上半身を起こして彼の方を振り返ると、小さな子どもがちょうど先ほど自分がいた場所に突っ込み、先輩が子どもを受け止めていた。

「大丈夫ですか?」

子どもは先輩を見上げ一度頷いた。
遠くで父親らしき人が申し訳ないと声を張り上げ先輩に頭を下げている。
子どもが父親の元へ駆けて行くのを見届け、有馬先輩がこちらを振り返った。

「泉君も平気ですか?」

手を差し出されたのでぎゅっと握る。引き上げるようにされて立ち上がると小さく謝罪された。

「咄嗟のことで力加減できませんでした」

「だ、大丈夫ですよ!」

「顔からいってましたね」

くすくすと笑われ、やめてくださいと言ったものの、声を出して笑う姿が珍しくて自分も一緒になって笑った。
先輩は僕の髪やネックウォーマーについた雪を払いながら、擦りむいた鼻を見る度くっくと笑う。

「そんなに何度も笑わなくても…」

「すみません。あまりにも漫画みたいで…」

言い終えるとまた顔を反らして笑われた。
不貞腐れたような顔を作ったが、先輩が楽しいなら馬鹿にされてもまあいいかと思う。
顔を背けた彼をちらりと見ると、しきりに目元を擦っていた。どうかしたのかと問うと笑った拍子に涙が出てコンタクトがずれたらしい。

「ちょっとこっち見て下さい」

先輩の頬を挟むようにして至近距離で観察した。目はとても大切な部分だ。少しの傷が一大事になることもある。充血はしていないし、僅かに瞳孔から薄い膜がずれてはいるが、彼が何度が瞬きを繰り返す内に元に戻ったのでほっと安堵した。

「真琴ー!」

潤の声が響き、先輩から手を離して後ろを振り返った。

「潤ー、ちょっとこれ見てよ!すごいやつ作った!」

大きく手を振ると潤と三上が連れだってやってきて、雪だるまを見てふうん、と興味なさげに呟いた。

「反応うす。力作でしょ?」

「すごいけど折角スノボに来てんのに雪だるま作りって…」

「雪だるまだって東京じゃ作れないからね!それに、スノー…なんとかもやったし、なかなか楽しかったよ」

「まあ、真琴が楽しいならいいけどさ…」

話している途中、また有馬先輩が顔を俯かせて目を擦る仕草を見せた。咄嗟にその手を掴んで首を振る。

「擦らない方がいいです!」

「ああ、すみません。ちょっと限界みたいです」

有馬先輩はその場でコンタクトを外し、辺りをぐるりと見渡した。

「なにも見えません」

「潤、先輩の手とって引っ張ってあげなよ」

「えー…」

「えーじゃない。ほら」

潤の背を押してやると、幽霊のように両手をふわふわさせていた有馬先輩の腕を彼が掴み、行くよとぶっきら棒に言った。

「三上も楽しかった?」

「…まあ」

「ならよかった」

それに返事はなく、三上も潤の後を追うように歩き出した。
口数が少ないのはいつものことで、あっさりした態度も見慣れたものだ。特に気に留めずに自分も慌てて後を追った。

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