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「寝れないんだろ」
「…うん」
「ブラックコーヒーなんて飲むからだ馬鹿」
「…はい」
ごめんなさいと小さく呟く。しまい込んだ罪悪感がぶわりと身体を巡った。あまり優しくしないでほしい。三上が僕を想ってくれるほど自分の醜さを実感する。
「…なんか、してほしいこととかないのか」
「してほしいこと?」
「なにもしてやれなかった。プレゼントもなしじゃあんまりだろ?」
「そんなことないよ!そんなこと…」
十分だと何度も言った。幸せだと伝えた。なのに、どうしてそれ以上を与えようとするのだ。
溢れてしまうので、他の小さな幸福を捨てていかなければいけない。三上から与えられたものはすべて保管していたい。一つも捨てたくない。なのに、大きな嬉しさは小さな喜びと引き換えにされる。
「ぼんやりしながら三上最低ーって考えてたのかと思った」
「そんなわけない」
「またわけわかんねえこと考えて落ち込んだのか?」
「だ、大事なことを考えてたんだよ!」
三上にとっては下らない、些末なことだろう。でも彼に対する罪悪感は自分にとっては追い駆けてくる影のような存在で、いつも隣り合わせで幸福の裏に潜んでこちらをちらちらと窺っている。関係が崩れるのを今か、今かと待っている。
「お前は鬱陶しいくらい前向きなせいで後ろ向きになるときも全力だからな」
「なってません」
「嘘つけ。死にそうな顔してたぞ」
「う…」
「…俺のせいなんだろ。わかってる。悪いと思ってる」
「違う!」
謝罪の言葉なんて聞きたくなくて、必死に叫んだ。自分だけが悪い。三上は少しも悪くない。いい恋人になろうとなんてしないでくれ。これ以上僕の首を絞めないで。
「三上はそのままでいい。悪いことなんてない。僕が、僕が三上をそんな風にしてる…」
真っ直ぐと前を見る彼が好きだ。後ろめたい現実にも目を逸らさない。いつだって自分の意志で、自分自身を選んでいる。その結果最悪に転んでも自分が決めたことだからと逃げたりしない。中途半端な同情や優しさを憎み、心を抉る言葉にも嘘がなかった。
なのに、三上を愛しいと思うほど、自分が三上の輪郭を崩していると気付く。
「…ごめん。三上が僕のことを考えてくれてすごく嬉しい。なのに、そうさせてると思うと辛い。だけどもうやめようって言えなくて…。ごめん…」
こんな風に言ったら優しい彼はますます自分を捨てられない。どこまで卑怯なのだ。そろそろ天罰が下る。
神はサイコロを振らないというが、僕たちの関係を必然に昇華させるなどおこがましい。
俯いてぎりぎりと歯を噛み締めたが、頬を三上の片手で潰された。
「下らねえこと考えて勝手に落ち込んでんじゃねえよ」
「くだらない…」
「下らないな」
ぐにぐにと挟まれた頬を攻撃されたが、いつものようにやめろと言えない。
「俺はお前に命令された覚えはねえぞ」
「え…」
「お前と付き合ったのも、お前のこと考えんのも、全部自分で決めたことだ」
「…そう、だけど…」
「付き合わないでいつまでもお前のこと鬱陶しいとか、嫌いだとか、近付くなって言ってほしかったのか?その方が幸せだっつーんなら俺も考えるけど」
「嫌です。今がいいです…」
「じゃあそんなこと考えてんなよ。僕のせい、なんて調子乗んな」
「…はい。ミジンコみたいな僕がそんな風に思うのはおこがましかったです」
「そうそう。ようやくわかったか」
最後の罰なのか、三上は両頬を目一杯引き伸ばしてぱっと手を離した。
「痛い…。でもこの痛さが嬉しい…」
「気持ち悪っ」
罪悪感はどんな言葉をもらってもなくならないだろう。じっとりとした陰湿な瞳と対峙して、負けるものかと睨み続けるしかない。
「…三上は本当にこんな風になってよかった?ゲイじゃないのにさ…」
「…さあな」
気休めの嘘をつかない彼らしい答えに安堵した。
「でも、お前と付き合ったことを後悔するくらいなら最初から拒んでる」
「…そ、っか」
わかっている。彼は誰かの言葉に従うような男じゃない。
だけど、人一人の人生を変えてしまったような重荷がある。高校生で大袈裟かもしれないし、別れたら三上はいずれ綺麗な彼女を作るだろう。一時的な火遊び程度のものだとしても、彼の汚点になりたくない。思い出したくない記憶としてしまわれる存在になりたくない。だけど手を放せない。
どちらにも転べないのは三上も自分も同じだ。
悩みは尽きず、一番見えない他人の心を想像するのは大変な苦労で、もうこんな地獄から脱したいと思うのに相手が大切で動けない。
ならその同心円状でできる限りをするしかない。二人でもがいて、二人で最適な答えを見つける。独りで完結しない世界とはこういうことなのだ。
「…一つプレゼントもらってもいい?」
三上が抱える自責の念を軽くするために言った。お互い気を遣い合う関係では一人きりと変わらない。小さな我儘や望みを小出しにすれば彼の重荷も軽くなるだろう。
「やらせろは却下な」
「いくら僕でもそんなこと言わないよ!」
「ああ、そ。お前ならあり得ると思って」
三上は意地悪そうに片方の口を引き上げた。
その優しくない笑顔が好きだと言ったらまた気持ち悪いと言われるので自重した。
「…名前を呼んでほしい」
「名前?呼んでるだろ」
「苗字じゃん!名前だよ名前」
「そんなんどっちでもいいだろ。お前も苗字で呼ぶじゃん」
「それは、名前で呼んだら怒るかなと思ってですね」
「別に怒んねえけど。名前で呼ぶ奴いないから慣れないだけ。母親も俺のことお兄ちゃんって呼ぶし、親父にいたってはおい、とかだし」
「じゃあ名前で呼んだら特別っぽいね!これからは名前で呼ぶよ!」
「…却下で」
「怒らないって言ったじゃん!陽介?」
「むかつく。すげーむかつく。っていうか、違和感半端ないからやめろ」
「えー…。特別、ほしかったなあ」
僅かに頭を垂らしてちらりと三上を見たが、彼はだめだと頑として譲らなかった。
ち、と心の中で舌打ちしたが、それは未来の目標としてとっておこう。
「諦めるから僕のことは名前で呼んでね。まさか僕の名前知らないとかないよね」
「知ってるわ」
「じゃあお願いします」
さあ、さあと迫ったが、その度三上は身体を後退させた。
「逆に皆名前で呼ぶから苗字って貴重じゃね?お前がほしかった特別、だろ?」
「そういうのいいから。プレゼントくれるんでしょ?一回だけでもいいから!」
三上の服を握って前後に揺さぶった。そんなに拒否されると傷つくではないか。名前も呼びたくない程度の人間なのかと勘繰ってしまう。
「わかったようるせえな!」
「ほんと?わーい。さあ、どうぞ」
「……あれ、もう十二時過ぎてんじゃん。寝るか」
「え、あの、名前…」
「はいはい、名前ね。いい子にしないとサンタさん来ないからなー」
三上は子どもにするようによしよしと頭を撫で、ベッドの端に僕の身体を押し込んで自分も布団を被った。
シングルベッドでぎゅうぎゅうになるのはとても好きだが、上手く誤魔化されている。背を向けずにいてくれるだけ進歩と言えるが。
「……照れ屋め」
小さく呟くと三上の身体がぴくりと動いた。
「誰が照れ屋だ」
「三上。名前すら呼べないなんて子どもか」
「言ってくれるなお前。よーしわかった。子どもじゃできねえことしてやる」
三上は強引に僕の身体を仰向けにし、覆い被さるようにした。
まずい。瞬時に思ったがもう遅い。
緩やかに首を指先でなぞり、やんわりと締めるように力を込められる。顎を反らせながら待てと言った。
「待たないね」
三上は肘から下を枕の横に着け顔を近付けた。咄嗟に顔を反らせると耳に彼の吐息がかかった。
「名前ってのはこういうときに呼ばれるからこそ意味があるだろ?」
囁かれ、身体が粟立つ。ぎゅっと目を瞑り、普段から想像もできない色香に真っ白になる頭と爆発しそうな心臓に危機を感じた。
「わーわー!ごめんなさい!僕が悪かったです!」
叫ぶと三上は身体をどかし、顔だけこちらに向けてベッドにうつ伏せになった。
煩い心臓を服の上からぎゅっと握り、運動もしてないのに早くなる呼吸を宥めた。
「懲りたら生意気な口きくなよ」
してやったりというような顔で耳を引っ張られた。
「いや、もっとしてくれていいけど、ちゃんと心の準備が整ってるときにお願いしたいというか、急だったからついていけなかったというか、ありがとうございます」
「日本語になってねえぞ」
「三上の本気をみた。その色気は凶器だよ。気を付けてね」
興奮しすぎてじんわり滲んだ汗を拭いながら言った。
「アホか。俺に色気なんて感じるのはこの世でお前だけなんだよ」
「そうかな…。あ、でも、そういうことするときはちゃんと名前呼んでくれるんだよね?じゃあ普段は苗字でいいや。楽しみにとっておくね」
「え、いや…」
「あー楽しみだなあ。いつかなあ。すぐだといいなあ」
三上の眉が寄り、困惑した表情になったのを見てふっと笑った。
やられてばかりじゃ気が済まない。からかわれたらその分やり返してやる。
ベッドの上のじゃれ合いが心地よく感じるくらいには距離が縮まったということだろうか。
大きな溜め息を吐いた彼の肩までしっかりと布団をかけてやった。慰めるようにぽんぽんと背中を叩き、自分も布団を被った。
腰に手を回されぐっと身体を引き寄せられ、ぱちぱちと瞬きをした。
三上は何も言わない。自分も溢れそうになる言葉を呑み込んだ。
サンタはお伽話だと幼い頃に知った。その存在が消えただけで世界に絶望し、嘘つきな大人たちを恨んだ。
サンタはいない。わかっている。なのに二十五日の朝、きらきらした高揚感で枕元を確認したあの頃の気持ちと今の気持ちはとても似ていた。
END
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