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「煩く言うつもりはありませんが、あまり人妻に手を出すのはよくないと思いますよ。後が面倒でしょ」
説教くさいのも相変わらずだ。
よく真琴に親父くさいと言われたものだ。
「俺から手出したわけじゃない」
「え?だって昨日の感じだとそういうことでしょ?淫行って言ってたし」
「違う。たぶん、客の旦那だ」
「客?」
「そう。バイトの」
碌なバイトじゃないのは理解した。
出張ホストとか、そんなところだろうか。金と引き換えに女を扱うような。
高校生でそれはいかがなものか。
自分には関係ないけれど。
「…そうですか」
「あのさ、お前本人に言うのも変だと思うんだけど、俺人に礼とかしたことないから、どうしたらいいかわかんないんだ」
「は?」
「女にちやほやされるばっかりで、逆はわかんない。なにか欲しい物とか買えばいいのか?それとも、言うこと聞けばいいのか?」
何を言っているんだ、こいつは。
目を見開いて、小さく溜息を吐いた。頭が痛い。
そんなもの、ありがとうと一言言えば済むはなしだろう。
どんな教育をされて育ったのだろう。
親じゃなくともいい。友人でも、誰でも、彼に教える人間はいなかったのか。
「なにもいりませんし、言うことも聞かなくて結構ですから」
「え…?でも、それじゃお前なんのために俺助けたの?」
「なんのためって…。やばそうな雰囲気だったら」
「見返りは?」
「ないですよ、そんなの。一々そんなもの求めて行動してたら疲れます」
「…変な奴」
お前にだけは言われたくない。
喉まで出かかったがやめておいた。
「あ、じゃあさ、お前客になれよ。俺の」
「は?」
「この顔じゃ、当分客とれないし、その間。金はいらない。何でも言うこと聞くし、何でもする。男相手にしたことはないけど…」
頭痛を通り越して頭が白んできた。
常識が通じなさすぎて、一から教育してやろうかと思う。
彼といると苛々する。
温厚で、穏やかで、そんな風に言われてきた自分が。
相手にするのも疲れるし、説教も聞かないだろう。常識が通じないのだから。
「いりません」
きっぱりと言うと、彼は首を傾げた。
「なんで?ただだよ」
「そういう問題じゃ…」
「あ、そうか。女がいいよな。じゃあ女を――」
「いい加減にして下さい!」
大声を出して驚いたのは彼だけではなく、自分もだ。
いつぶりだろう。こんな風に怒鳴ったのは。
自分のペースが乱されている。とんでもない人と関わってしまった。
ちっと舌打ちをして、彼の腕を掴んだ。
扉まで引きずるように歩き、ドアを開けた。
「なにもいりませんし、女も男も結構ですから」
とん、と肩を押して廊下に出した。さよならの挨拶もせずに扉を閉める。
冷酷な態度だと思う。
常識はないかもしれないが、一応彼は彼なりに自分に礼がしたかったらしい。
その気持ちを蹴り上げて、追い出してしまった。
少し、やりすぎたかと後悔した。
だが、これ以上彼と関わりたくなかった。碌なことにならない。そんな予感がする。
むしゃくしゃする気持ちをどうにか押さえ、適当に映画のDVDを見ながら過ごした。
時計を見ると六時をすぎた頃。
そろそろ夕飯を買いに行こうかと思い、クローゼットからパーカーを取り出した。
まだ夏には一歩遠く、夜は気温がぐっと下がる。
パーカーを羽織っていると、ただいまと景吾の声が響いた。
「おかえり」
自室から、リビングまで通る声で言った。
「学、ちょっとこっち来てー」
また何か土産でもあるのだろうかとリビングに向かった。
景吾は珍しく眉間に皺を寄せて誰かの腕を引いている。
その人物を見てぎょっとした。昼間追い返した彼だ。
「学、この人…」
「…なんでいるの」
「いや、わかんないけど。部屋の前に座ってたから…。大丈夫ですかって言ったら、学が出て来るまで待ってるって言うから。廊下は寒いし、部屋に入れって言ったんだ。でも、学に怒られるって言うから…」
俯いている彼の顔は見えないが、まるで自分が悪者だ。
虐めたわけではないし、正当な主張で彼を追い出しただけなのに。
しかも、あれから何時間経ったと思っているのか。
「学、なんかわけありみたいだし、ちゃんと話し聞いてあげなよ」
「…いいよ」
「え?」
「昼間話したし、これ以上話すことはないんだ。先輩も、何で俺を待ってたのか知りませんけど、昼間言った通りです。もう大丈夫ですから帰って下さい」
きっぱりと言った。こういう人にははっきりと言わなければだめだ。
下手に優しくすれば間違った方法を覚えてしまう。
自分が言ったこと、やろうとしたことが正解なのだと思われたら困る。
だが、ぐすっと鼻を啜る音が聞こえ、驚いたのは俺も景吾も同時だ。
まさか高校生にもなって、これだけのことで泣くなど誰が想像できるか。
「ま、学、そんな言い方…。事情はわかんないけど、少しくらい話し聞いてあげたら?」
ね?と景吾に促され、大きく溜息を吐いた。
景吾に言われると弱い。本当に自分が残酷な人間のような気がしてくる。
「わかった」
「あ、俺はゆうきの部屋行くからさ」
「いいよ。俺の部屋で話すから。景吾が気遣う必要ないから」
「そう…?」
「ああ」
ぽんと景吾の頭を撫で、未だにぐずぐずしている先輩の腕を引いて部屋に入った。
とりあえずクッションの上に座らせ、自分は腕組みをして扉に背中を預けた。
「で、なんですか」
あまりきつくならないように言ったつもりだが、つい、声が低くなってしまった。
また泣かれると困るのに。
女性に泣かれるのは勿論困るが、それが男でも同じらしい。
「…悪い。怒らせて…」
この人は、素直なのか暴君なのか、どちらなんだ。
中年男性とやりあっていたときは冷酷で、短気な姿を見せたり、その後は我儘だけを振り撒いたり、子どものように涙を見せたり。
心に何人の人格を飼っているのだろう。
周りにはいないタイプで扱いに困る。どう接するのが正解なのだろう。
冷たくすれば、それで自分を忘れてくれると思っていた。けどそうじゃないらしい。
かと言って優しくすれば我儘が増長するだけな気もする。
面倒くさい。
その一言だ。面倒くさい人間は真琴で慣れているつもりだったが、ここまで酷くはなかった。
怒っても、泣いても、笑っても、理由がきちんと理解できたから。
でも、この人はわからない。何を考えて、どんな思考回路なのか。
「怒ってませんよ。それで、どうして部屋の前にいたんですか」
「…いや、お前が怒ったから。礼をしなきゃいけないのに失敗したから。なんで怒ったのかもわかんないし」
「わからない?」
こくりと頷かれて、理解できないと額に手を添えた。
こんな人間がこの世の中にいていいのだろうか。今までどうやって生きてきたんだ。
長い吐息を吐き出すと、彼はもう一度ごめんと呟いた。
本当に何も知らない子どもだ。余計なことばかり覚えているような。
彼の傍らに腰を下ろした。
「本当に怒ってないです。ただ、礼なんていいんですよ。ありがとうって言葉だけじゃだめなんですか?」
「…よく、わかんない。礼なんてしたことないし、いつも俺の機嫌をとるときは皆物をくれたりしたから」
「…それは、あんたに好意を持った女性でしょ?それと、俺たちは違うでしょ」
「なにが?」
「なにがって…。関係性というか…。別に、ただの先輩と後輩だし、俺は物を貰うためにあんたを助けたわけじゃない」
「女も、俺もいらねえの?」
がくっと頭を垂れた。まだわからないらしい。
「そんな風に女性を紹介されて、抱いてもなにも楽しくないでしょ」
「楽しくないのか…。お前は女が好きだと思ったから」
「いや、女性は好きだけど…。好きな人じゃないと意味ないでしょって言ってんですよ」
言うと、彼は切れ長の瞳を丸くさせた。
そんな常識もなかったのか。
「…そう、なのか。そうか。そういう人もいるんだもんな。皆が皆、俺みたいのばっかりじゃないよな」
自嘲気味に言うでもなく、寂しそうに笑われ、胸が痛んだ。
自分は悪いことを言っただろうか。
「じゃあ、お前はありがとうって言葉だけでいいのか?あんなに面倒みたのに?」
「いいです。それでいいんです。世の中大抵はそうですから。俺が特別なわけじゃなくて」
「そうか。うん。わかった。でも、見返りがなく優しくしてもらったの初めてだからさ。世話し終わったら金とか、なにかあげればいいと思って散々我儘言ったんだ…」
あの態度はそういうことかと合致がいった。
初対面の人間にしては図々しすぎると思ったのだ。
本当に、この人はどうしようもない人間らしい。
ぽんぽんと頭を撫でた。年上に失礼だろうが。
彼はこちらをはっとしたように見たので笑ってやった。
すると口をきゅっと引き締め、不機嫌そうな顔をしながら俯いた。
やはり失礼だったかと思い、慌てて手を引っ込めた。
「すいません」
「…なにが?」
「いや、馴れ馴れしかったし、年上に対する態度じゃないというか…」
真琴や景吾に慣れ過ぎた。
いいことをしたら頭を撫でる、可愛いと思ったら撫でる、ペットにするような、そんな癖がついている。
まさか、甲斐田には同じようにはしないが、庇護欲が湧き上がる人間にはつい、そんな態度をとってしまう。
「そうなのか。頭撫でられたの初めてだけど、結構気持ちいいものだなって思ったんだけど…」
初めて、という言葉に今度はこちらが驚いた。
普通、幼い頃に経験しているのではないか。
自分もそんな記憶はないが、たぶん、されていたと思う。親ではなくとも、親戚でも、近所の大人でも。
さすがに大きくなってからはないけど。この人もそういう意味で言ったのだろうか。
よくわからないが、深くは突っ込まないでおこう。
「そういうのって、普通誰と誰がするものなんだ。お前、さっきあの子にもしてただろ?」
「ああ、景吾にはするけど…。まあ、人によります。撫でたいと思ったら撫でるというか…」
子ども扱いしている子にするとは言えない。
「そうか。じゃあ、俺は別に怒らないから、そうしたいと思ったらしてくれ」
「はあ…」
しかし、この部屋を彼が出て行ってくれたら、今後付き合うつもりはない。頭を撫でる機会もないだろう。
本当に不思議な人だ。
「あ、そうだ。金。金はちゃんと返すよ」
彼は慌てた様子でズボンのポケットに手を突っ込んでいる。
どうやら小銭をそのまま突っ込んでいたようで、ありったけのお金を掌にのせて差し出してきた。
「えっと、五百円くらいか?」
「いや、そんな、いいですよ五百円くらい」
「それはだめだ。見返りもなく、金も遣って、損ばっかりだ」
「損って言っても、五百円だしなあ…」
「五百円を馬鹿にすんな!」
まさか、この人に怒られるとは思わずにぽかんと口を開けた。
「五百円を稼ぐのだって大変なんだ。お前は親から仕送りもらっているんだろ。親が汗水たらして働いた五百円なんだぞ」
「…は、い…。すいません…」
「…あ、いや。俺こそ悪い…」
はっとしたように彼は謝るが、今のは俺が悪い。彼が百パーセント正しい。
そういう常識はあるのかと感心もした。
全体的にだらしがないのかと思ったけれど、しっかりしているところもあるのだと知って安心した。
「えっと…。五百円玉がないんだけど。たぶん、数えたら五百円はあると思うんだ」
百円、五十円、十円…。じゃらじゃらとすべてのお金をポケットから出し終え、一生懸命数えている。
「あった。五百円ちゃんとあった」
ばらばらの硬貨で、五百円分を差し出されて苦笑した。
これでは財布が小銭でぱんぱんになってしまう。
それでも返したらまた叱られてしまうだろう。
「ありがとうございます」
「う、うん。こっちこそ…。我儘言って、悪かった」
基本的には悪い人間ではないと思う。理解はできないし、不思議ではあるけれど。
なにを考えているのか、その思考回路も把握できないので、どこか気持ち悪いのだが。
でも、謝ったり、礼を言ったり、それができれば人間どうにでもなると思う。
つい、またぽんぽんと頭を撫でてしまった。
しまったと思ったが、彼はまたきゅっと下唇を噛み締めていて、これはただの照れなのかと解釈した。
「じゃあ、俺帰るな…。色々と怒らせたり…。悪かった。ありがとう」
「いえ。いいんです」
扉を開けてやると、心配そうに景吾がソファに座っており、こちらを見ると、あ、と声を出した。
「か、帰るんですか?」
「ああ。お前も、ありがとう。中に入れてくれて」
「いえ、全然!」
「…お前も見返りなくやったのか?」
「へ?」
「ああ、いいから景吾」
首を捻る先輩をずるずると引っ張り、扉を開けた。
「景吾も、見返りなんて思ってないですからね。それが普通だって言ったでしょ」
「そうだった。ありがとうと言ったし、それでいいんだった」
「そうです。一ついいこと学びましたね」
「…そう、だな。じゃあ…」
「はい」
ぱたりと扉を閉めると、景吾も首を捻っていた。
「どういう意味?」
「いや、気にしなくて大丈夫」
「そ?」
そういえば、名前も聞いていなかったと今更思った。
もう、関係することはないだろうから、名前などは必要ないのかもしれないけれど。
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