3
首筋に歯を立てるように軽く噛まれ息を呑み込む。
また変なスイッチが入ってしまったのだろうか。彼の琴線がどこにあるのかわからないので予防のしようがない。
「ちょっと、待て」
「待てない」
「外、人いるだろ」
薄い扉の向こうでは他の患者や看護師の気配が濃い。
「寮でも隣に人いるけどこういうことするだろ?」
「そ、れは…」
病院という神聖な場所でこういう行為をするのはひどい背徳感と罪悪感がある。
誰か暴走する彼を止めてほしいが、こうなると止まらないと知っている。
「お前見てるとたまらなくなる。これでも毎日我慢してる」
「俺を見る度エロいこと考えてんの?」
呆れたように言ったが、そうですけど?と悪びれもなく断言された。一度こいつの頭の中を掃除してやりたい。
「思春期なんてそんなもんだろ?」
「俺も思春期だけどそんなことない」
「それは好きの大きさじゃね?」
そんなわけあるかよ。抗議する間にも彼の唇は鎖骨に到達し、手が服の中に滑り込んできた。
「や、本気じゃないよな…?」
「俺はいつでも本気だ」
「無理。こんな場所じゃ…」
「うるさい」
頬を片手で抑え込まれ、強引に口を塞がれた。
乱暴にするくせに舌の動きは繊細で、自分はこの人のキスに心底弱い。
深く、深く繋がったそれが放れると目がとろんと溶けそうになるのがわかる。
彼は口の端をぺろりと舌で舐め、勝ち誇ったように薄く笑った。
「お前のその顔好きだよ」
耳朶を甘噛みされながら囁かれ、背筋がぞくっと粟立った。
ずるい、ずるい。弱い部分を的確に刺激して欲望ばかりを掻き集められる。
自分の頭もできが悪く、抵抗を試みても彼の技巧に酔ってもっと、もっとと強請るだけの低俗な何かに成り果てる。
彼の後頭部を包むように手を伸ばし、短い髪をきゅっと握った。
その時、扉がこんこんとノックされ、横開きの扉が静かに開いた。
「よお」
くたびれたネクタイをだらしなく垂らして入ってきたのは浅倉で、意外すぎる人物に数秒動きも思考も止まった。
「…お前らさ、時と場所考えよ?」
「浅倉こそ空気読めよ」
あー、と木内先輩は髪をぐしゃぐしゃにした。
「もう少しで鉄壁の城が陥落するとこだったのに…」
木内先輩はぶつぶつと文句を言いながらもとりあえず身体をどかしてくれた。
「いやいや、若いって怖いね。こんなとこで」
にやにやと笑いながらねえ奥さん、と言って手招きするようにおどけられ、我が担任ながらいい性格してんなと思った。
「何しに来たの?」
率直な質問をすると、浅倉にぽこっと頭を叩いた。
「光に聞いて仕事帰りに寄ったの。再検査ビリがお前と椎名だってよ」
「…その説教は天野先生にされた」
「じゃあ俺は説教しないとでも言うと思ったか」
「休みの日まで説教聞きたくない」
「お前なあ…。これでも心配して来たんだぞ。泊りがけの検査っていうからよっぽどやべえのかと思って」
困ったように眉を寄せながら溜め息を吐かれ、言い過ぎたかと反省した。
適当で飄々としているがこいつも一応教育者だ。出来の悪い生徒も、優秀な生徒も分け隔てなく気に掛けてくれる。絶対に贔屓しないのは浅倉の美点だ。
「…やばくはない。今度からはすぐ再検査する…」
「お、珍しく素直。木内のおかげ?」
「ったりめーだろ。フラグクラッシャー浅倉」
「ちょっと、変なあだ名つけるのやめてもらえる?まあ、元気そうだしとりあえず安心した」
ぽんぽんと頭を撫でられ気恥ずかしさで俯いた。
「なに、今日は人間らしい顔すんじゃん。木内とにゃんにゃん寸前だったから?」
「うわ、おっさん…」
「おっさんだって生徒の性事情なんて知りたくねえわ。お前もちょっとは自重しろよ。どうせ木内が悪いんだろ」
「どうせとか言うな。こういうのはどっちも悪い」
「自信満々に言うな馬鹿」
浅倉は木内先輩の頭をばこっと叩き、見たのが俺でよかったなと付け加えた。
「じゃあ、俺は帰るけど変なことすんなよ。そういうことがしたいならしかるべきでするように」
「よく言うよ。浅倉もガキの頃は場所なんて考えなかったくせに」
「考えてましたー!お前よりは考えてましたー!」
「へー。光ちゃんに聞いてみよー」
「あ、お前それはずるいだろ」
頭上で始まった口喧嘩にそっと耳を塞いだ。浅倉を一瞬でも見直した自分が馬鹿だった。
その内、看護師にもう少し静かにと叱られ、漸く二人の喧嘩は止んだ。
浅倉は可愛い看護師に怒られたのも木内のせい。と文句を言いながら今度こそ病室を出て行った。
高校生のガキと張り合うとか、あいつの精神年齢はいくつなんだ。
「やっとうるさいのいなくなったな」
さらりと髪を梳きながらきゅっと手を握られ、慌ててその手を振り払った。
「しない」
「マジで言ってんの?」
「当たり前だ。さっきは…。ちょっと、どうかしてた…」
「あー!浅倉マジで許さん!」
「うるさい。別に、寮に戻ればできるだろ。今日一日くらい我慢しろよ」
「いつもと違う場所だからやりたくなんだろ」
「アホか」
「ほんとにだめ?」
先輩の指先が色気を孕んで身体をなぞる。
「だ、だめだ!」
「ふーん。じゃあキスだけ」
「そ、それもだめだ」
「なんで」
それだけじゃ止まらなくなるから。なんて言えるわけがなく、ぐずぐずと俯きながら下唇を噛んだ。
「俺のキス好きだろ?」
強引に顔を上げられ真正面から視線を絡めた。彼の好戦的な瞳が好きだ。操り人形にされるのに、それが心地いいとすら思う。
だけどだめだ。浅倉が言うように、見られたのが彼で万事休すだ。別の誰かだったら。想像するとさっと恐怖が襲ってくる。
「な、なんでもするから。我慢しろ」
「じゃあナース服着てくれる?」
「着るから」
彼の胸をぐっと押し返しながら言って、自分で待てよと首を傾げた。
「…あ、今のなし。なしなし」
「なし、ねえ…」
木内先輩はベッドサイドに置いていた自分のスマホを指差し、一連のやり取りをムービーで撮っていたことを示唆した。
こうなるように仕組んでいたということか。ぐっと喉を詰まらせ拳を握った。
「き、汚い」
「汚かろうが綺麗だろうが結果がすべてだろ?約束は守るし、今日はもう指一本触れないで帰る。どっちがいい」
そう言われると断然後者だ。だけど、だけど…。
「う…。ナース姿の自分を想像するとすごい吐き気する」
「絶対似合うから大丈夫」
「大丈夫じゃねえよクソが」
「俺はどっちでもいいけど」
「どっちもなしって選択肢はねえんだな」
「だってお前、結局流されるだろ?」
悪いのはこちらだと言いたげな言葉に悔しさがじわじわと湧き上がる。
情事中の彼の指も唇も瞳も好きだ。喰われそうな恐怖を覚えるほど求められるのも。
触れられるとなんでも言うことを聞きたくなる。
だからこういうことになる。恋愛スキル不足はこういう時にも損になって返ってくる。
相手の言葉を捕らえて倍返しできるくらい頭の回転が早かったら。
どうしようもない自分が情けない。
「で、どっちにする?」
俯いた顔を指先で持ち上げられ眉間に皺を寄せた。
悔しい。悔しい。
操り人形になりたいと思ったが、変態プレイを許諾するほど頭がお花畑なわけではない。
しかし病室で不埒なことはできない。万が一外に声が漏れたら。理事長が気紛れでやってきたら。
最悪のパターンを想像し、下腹に力を込めた。
「…き、着るよ」
「マジ?マジで?」
「…あんたが言ったんだろ」
「そんなの着るくらい死ぬって言うと思った。マジか。何色がいい?白?ピンク?水色?」
「何でもいいわクソが」
「…お前は水色が似合うかな…」
腕組みしながらまじまじとこちらを見て悩んでいる。そんな馬鹿な悩みしかなくて本気で羨ましい。
一矢報いることは簡単ではないようだ。
ネット通販で吟味しようとにこやかに笑う顔をげんなりしながら見た。
「…なあ、それってあんたが患者なんだよな。なら俺の言うこと聞くんだよな」
「…は?」
「看護師の言うことは聞かなきゃいけないもんな」
「いや、そうとは限らないじゃん」
「ナース服着てやるから、あんたは全身粉砕骨折した患者役な」
「それもう死んでんじゃん」
「一ミリでも動くなよ。俺の言うこと聞けよ」
「…ゆうきの目が怖い」
「徹底的にやってやるからな。注射器さされても文句言うなよ」
ナース服着て、なんて馬鹿な願いを口にしたことを後悔させてやろう。
二度と変なプレイをしようなど思えないくらい完膚無きまでに叩きのめしてやる。
めらめらと闘争心を燃やし、これで木内先輩も多少は怯むかと思いきや、暫く考えた後ぽんと手を叩きながら言った。
「…それはそれでありだな」
この人の頭の中のお花は積んだそばからぽんぽん生えてくるらしい。
何を言っても無駄だし、何をしても喜ばせるだけだ。
呆れて何も言えず、こんな馬鹿が恋人だと自分まで馬鹿になると思い深い溜め息を吐いた。
END
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