3

日曜日、いつもと同じ時間に起きて洗濯機を回し、ダイニングの椅子に座りながら新聞を広げた。
コーヒーを飲みながら暫くそうしていると寝室の扉が開き、二つの足音がこちらに向かってくる。とことこと小さな足音の正体は僕の足首に長い尻尾を絡ませた。

「おはようリリー。」

膝の上にひょいと軽やかに乗り、小さく鳴いて額を僕の身体に擦りつける。
自然と笑みが零れた。リリーがいるだけで家の中がぱっと明るくなる。

「はよ」

大和は大きな欠伸をしながらマグカップにコーヒーを淹れる。

「おはよう。出勤?」

「ああ、午前中だけでも」

「そっか」

昨晩も大和は帰りが遅かった。早めに就寝したので、いつ帰宅したのかは知らない。
休日出勤もよくあることだ。ただ、身体は大丈夫なのかといつも心配だ。
今は特に忙しいというので仕方がないとは思うけど。一段落ついたら連休をとると言っているので、見守るしかない。

「リリーも大和も朝ご飯だね」

笑ってみせたが同時に落胆もしてしまう。
そうしてますます自分を嫌いになっていく。


大和を送り出し、掃除や洗濯も済ませた。後は日用品を買いに行くだけだ。
外はまだまだ寒いので、出るのは勇気が必要だが、自分たちの食糧の他にリリーのご飯やおやつも購入しなければならない。

「ちょっと行って来るね、リリー」

小さな頭を数回撫でるとにゃーと返事がある。
言葉を理解しているわけはないが、独り言にならずに済んだので、いい子、いい子と更に撫でた。
今日は晴天だし、リリーはリビングの大きな窓際に置いてある専用のベッドで日向ぼっこでもするだろう。天気の良い日はそうして眠るのが大好きなようだ。

買い物をすべて済ませたのは一時を過ぎた頃だった。
大和は午前中だけと言っていたが、言葉通りになることは少ない。
なんだかんだと、夕方まで仕事をすると思う。
自分のためだけに作るのは面倒なので、昼食はパン屋さんで総菜パンを数個購入した。
できる限り自炊をしているが、誰も食べてくれないならば作る気にならない。
大きな荷物はとても重く、引き摺るようにしながら漸くマンションに辿り着く。
鍵を開錠し、とりあえず玄関からリビングに続く廊下に荷物を置く。
靴を脱いでいると大和の革靴があることに気付いた。
何の連絡もないから、まだ会社にいるものと思っていた。
荷物を再度持ち直し、急いでリビングへ向かう。

「大和、帰ってたんだね」

大和は窓際でお昼寝中のリリーを優しく撫でていた。
まだスーツ姿のところを見ると帰宅して然程時間は経っていないだろう。

「ああ…」

「ごめん、お昼作ってないんだ。何か食べたい物があったら作るし、何でも良ければパン屋さんでパン買って来たから――」

最後まで言葉を繋げなかった。
買い物袋から物を出してはしまいを繰り返していたが、突然後ろから抱き締められた。
あまりにも驚いて言葉を失ってしまった。

「…大和…どうしたの」

熱でもあるのだろうか。疲労で身体が限界なのかもしれない。
ぐるぐると考えるが、こんな風に触れてくれたのは久しぶりでなんだか泣きたい気持ちになる。
大和は何も答えようとせず、僕の肩に額を乗せた。
理由はわからないがよしよしと頭を撫でた。
甘えた様子の大和は珍しい。とても嫌なことがあったのかな。愚痴でも聞いてあげよう。まずはご飯を食べて、それからゆっくりと。
そう思ったが、大和は身体を離すと僕の腕を握り強引に寝室へ向かった。

「大和?」

いつもと違い余裕がなさそうでただただ困惑するばかりだ。
寝室の扉をあけ、ベッドへと放り投げられる。スプリングの効いたベッドは僕を優しく包んでくれるけれど。

「…大和?」

何度名前を呼んでも大和は答えてくれない。
背広を放り投げ、ネクタイを緩めながらこちらに覆い被さる。

「どうしたの!何か変だよ大和!」

大和の胸をぐっと押し返す。本当にわけがわからない。
大和は滅多に強引なことはしない。怒っているとき、悲しいとき、何かとてつもないものを抱えたときだけだ。
何かあったのなら言ってほしい。力になれるかわからないが。
こんな風にストレスの発散みたいに抱かれるよりはよっぽどいい。
大和は僕の瞳を暫く見詰め、大きな溜め息を吐きだした。その溜め息と共にいつもの大和へと雰囲気が戻っていく。

「なんか、もう…」

今度は正面からぎゅっと抱きしめられる。僕の胸あたりに頬を懐かせている大和を見てふっと笑ってしまった。

「リリーみたい」

「…猫かよ」

「…大和、何かあったんでしょ。どうしたの」

広い背中に腕を回し、ゆっくりと上下に擦った。

「…いや、ほんともう、なんて言うか、反省したというか、自己嫌悪というか…」

「仕事でミスって怒られた?」

「いや、仕事じゃない」

ならば人間関係でなにかトラブルでも抱えたのだろうか。
大和の会社の人間関係は浅くしか知らないが、仕事だけで手一杯でそちらまできちんと気を配る余裕は今の大和にはないと思う。

「面倒なことが起きた?」

僅かな沈黙のあと、大和は起き上がり僕にも起きるように言った。
ベッドの上に座りながら向かい合う。改めてどうしたというのか。

「…あのさ、今日陸から電話きて言われたんだけど」

陸の名前が出た瞬間心臓が大きく動いた。まさか、この前酔って色々話した内容を大和に伝えたのだろうか。
どうしよう。本音だけれど本音じゃない。
陸だから話したのだ。大和本人が相手なら絶対に言わない言葉たちだったのに。
大和の荷物にはなりたくないと昔から思っていた。安心して仕事をして、安心して家に帰って来てくれるように、ほどほどに寄りかかり、ほどほどに自由を与えたかった。
あんな重苦しい心など悟られないようにしようと決めていたのに。

「…お前、欲求不満なんだって?」

「……あ?」

大和の言葉の意味がわからずに思い切り不機嫌な声が出た。

「いや、だから、陸が」

「陸がそう言ったの?」

鏡を見ずともわかる。今僕は般若のような形相だろう。

「これ以上放っておくとあいつ他で浮気するぞって」

「…あのやろう」

「俺数えたんだよ。お前と最後に寝たのいつだっけって。で、確かに浮気されても仕方がないと思って反省したし、もしかしたら今俺が仕事してる間に光が浮気したらどうしようと思ったら仕事する気なくなった…」

「…大和、陸の言葉を鵜呑みしないで。あいつ百のうちの十しか言わない男だから。しかも大事な部分すっとばすから」

眉間に寄った皺を摘む。
明日学校で会ったらとりあえず二の腕あたりを思い切り殴ろう。
やはり陸などに話すんじゃなかった。

「じゃあ大事なところとやらを教えてくれよ。光は俺にはあんまり自分の気持ちとか言わないから。俺、そういうこと察してやれないし言ってほしいんだ」

「…そんな、別に大したことじゃないし、大和は仕事大変なんだから他のことに気を揉まなくていいから」

視線をベッドシーツに移した。大人同士、適度な距離で適温を保ってお付き合いしなければいけない。
若い頃のような勢いだけでは疲れるし、すぐに関係が萎んでしまう。
でも、その頃を思い出して戻りたいなと羨んでしまう。
自分はどうしたいのだろう。ない物ねだりばかりだ。

「前にも言ったけどさ、俺、光に気遣わせるとその度に情けなくなんだよ…」

大和は首の裏を掻きながら弱々しく言う。

「ああ、またかって。俺ってそんなに余裕なく見えてんだなって。もっと心にゆとりを持たなきゃだめだって」

「いや、違う!大和を責めたりしてないし、気なんて遣ってない」

大和は困ったように笑う。
けど、本音は言えない。恋人同士だからといって、全てを曝け出せばいいわけではない。共有しなくていいものだってたくさんあるし、自分の心の奥底に秘めなければいけない感情だってある。
まさか、陸たちが羨ましいとか、漠然とした倦怠期がもどかしいとか、解決策などない問題を大和にぶつけるわけにはいかない。
何か決定的な不満ならぶつけられる。けれどもこれは自分の意識の問題だ。
隣の芝生が青く見えているだけだ。
その代り、他の本音を暴露しよう。一つでも秘めた気持ちを言わなければ大和はまた自分を責めるだろう。

「…陸が言ったことは間違ってはない。欲求不満…ていうのとはちょっと違うけど、もう大和は僕とそういうことしたくないのかなとか、女の人の身体が恋しくなってきたかなとか、飽きてしまったのかなとか…そういうことは考えてた。けど、大和が一生しなくても絶対浮気はしない。昔からそう言ってるでしょ?陸の言葉なんて信じちゃだめだよ。あいつ適当に話し盛るから」

「そうだったな…」

大和は吹き出し僕の髪を丁寧にすく。

「でも、安心しきって胡坐掻いてると魚に逃げられるぞ、昔の俺みたいにって言われて目が覚めた。光の優しさに胡坐掻いて、仕事ばっかで、フォローもしないで、いつもこれじゃダメだって反省するのに暫く経つと忘れちまって」

「いいんだよ。僕たちは大人なんだから。わかってるから」

「大人だけど忘れちゃいけない子供心もある。初心にかえろうと思って光とつきあいだした頃とか思い出して…お前は変わらないなって。昔からずっと俺が苦痛に感じない程度の優しさとか気配りをくれてたなって。お前が好きだなって思ったよ…」

「…大和」

「それから、欲求不満なときは遠慮しないで言えよな」

「欲求不満ではないから!」

大袈裟に否定するが、これではそうだと言っているようなものだ。
恥ずかしいことでもないけど、隠したい部分でもある。

「お前に飽きたりなんてしてない。女の身体が恋しいとも思ってない。今更女じゃ満足できないし、お前以外を抱こうなんて思わない」

何か言葉を発しようと思ったけれど、どの言葉もしっくりとはこない。代わりに大和を抱き締めた。
お互いが力強く抱きしめて身体を合わせていると不安やもやもやが完全に何処かへ消えてしまう。たったこれだけのことで。随分単純だと心の中で笑った。
面倒くさく考えるな、陸の言葉が頭の中で響く。たまにはあいつもいいことを言う。
頬に手を添えられ軽く口付けを交わす。次第に深くなっていく。縺れるようにベッドに倒れ、熱のこもった瞳で見つめられた。

「光、好きだよ。昔より今の方がずっと」

「…僕もだよ」

心底安心したように大和が笑うから、言葉に嘘はないのだと思った。


久しぶりすぎて行為を終えてからもベッドから動けない。
じんわりと満ち足りた倦怠感に懐かしさを覚える。
大和は頬を撫でたり髪を撫でたり、たまに微笑む。

「たまには昼間にするのもいいもんだ」

「僕は嫌だよ…。明るいし」

「光は昔からそうだよな。暗くしろって。いつまで経ってもそういう初心なところが可愛いよな」

からかうように言われ、耳にじんわりと熱がこもる。
この先何年経っても羞恥は消えないと思う。

「あ、それからさ、陸にすごくいいアドバイスもらったんだ」

「…なに?」

自分も多少身になるアドバイスをもらえた。大和に変なことを吹き込んだのは許さないが、見直してやろうと思っていたのだ。

「今度高校の制服着て、制服プレイしよう!」

前言撤回。陸にはもう二度と何も話さない。というか、口を利かない。
大和と陸は親友同士だ。けれど変態的な趣味すらも気を合わせなくていい。
きらきらと瞳を輝かせる大和をみて、高校時代はそんな話しで二人は盛り上がっていたことを思い出す。

「……はあ…」

わざとらしく溜め息だけを吐き出して大和に背を向けた。

「光ー、楽しいって絶対。昔やってたんだしさ」

肩に手を回されたがそれを払った。
高校時代ならばコスプレでもなんでもないからいい。
しかし三十路になって何馬鹿なことを考えているのか。そんな子供心なら早急に忘れてほしい。

「光ー」

今度はがくがくと揺す振られる。
陸だけではなく大和とも暫くは絶交しようと決めた。



END

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