3
木内先輩は腕を握ったままソファに座り、そのまま俺の手をぎゅっと握った。
「どうした。なにか嫌なことでもあったか」
問われ、ふるふると首を振った。
楽しかった。三人と、それから椎名先輩とも少し話して、とても楽しい時間だった。
自分はほとんど会話に参加しなかったが、笑いが溢れる空間が心地よかった。
だけど、途中からとても気分が重くなった。
ああ、そうだ。木内先輩が他の女性に手を出すかもと言われたからだ。
どうにかしなくてはと思って、次にはすぐに、自分には無理だと諦めた。
目の前にいる彼は本物だろうか。険しい顔ばかりで、滅多に笑うことはなくて、優しい言葉はたまにだけ。愛情を渡してくれるけど、それは甘いだけではなくて、いつも恐れてた。
いつまで続くんだろう。いつ終わりが来るんだろう。怯えるならいっそのこと、自分から終わらせてしまおうか。
だって自分はわからない。どうしたら離れずにいられるのか、どうしたらもっと好きになってもらえるのか。言葉も、方法も。
女になりたい。一番大きな性別というハードルがなくなればもう少し安心できるかもしれない。
なんだか泣きたくなってきた。
「……おい、なんだ。なんで泣くんだ」
子どものように大声を出して泣いたらきっとすっきりする。
だけどみっともないことはできないし、そんなことをしたら先輩は呆れるだろう。
しつこく二人に言われた言葉を思い出す。
素直になれ。それだけで好きになってくれる。
魔法の言葉のようだ。だけど、そんなことで彼は本当に好きになるだろうか。鬱陶しいとか、重いとか、面倒とか、そんな風に思われるのではないか。
男らしくないし、情けない。泣いている時点でそんなものなくなったが、冷静な判断ができずに混乱する。
「どうしたよ。翔にいじめられたか?」
珍しく声色が甘く、柔らかく、もっと聞いていたいと思った。
すん、と鼻をすすって頬に添えられた木内先輩の手を上から包んだ。
「翔は意地悪だもんな」
そんなことはないのだけれど、甘えたくて頷いた。
「よしよし、かわいそうに」
幼い子どもにするように頭を包みこまれ、頬にキスをされた。
「…お前、酒飲んだな」
「…飲んでない。チョコレートを一つ…。中にお酒入ってるやつ」
「んー。それだけじゃこうはならねえよな。何か飲んだか?」
「チョコレートの味が嫌だって言ったらコーラくれた」
「…コーラねえ…。石鹸の匂いもするし、風呂入って一気に回ったな」
木内先輩は何かを考えるようにして、なるほど、と言いながら溜め息を吐いた。
彼はソファの上で胡坐をかき、向かい合うように言われたので膝を抱えて座った。
「…今日は三人で何話した?」
親が子どもに学校での出来事を聞く気軽さで問われた。
「マグロの話し」
「鮪?食いたいのか?」
「そっちの鮪じゃない。セックスするときのマグロの話し」
「…なんだってそんな話し…」
呆れたような溜め息を吐かれた。自分でも何故そんな話題になったのか覚えていない。ただ、自分はだめな男でこのままじゃ木内先輩が…。また同じことを思い出して泣きそうになる。
「こ、このままじゃだめだって。俺も、頑張らなきゃいけないんだって…」
「…翔に言われたのか?」
「違う。二人とも大丈夫だって、気にするなって言った。だけど、俺で満足できなくなったら他に女を作るだけだって…。それで…」
嗚咽が漏れそうでぐっと唇をきつく結んだ。馬鹿みたいだ。こんな話し木内先輩にしても仕方がないのに。なのにいつもより饒舌になる。黙っていたいのに。
「…それで?」
「お、俺、別にそれでもいいって言った。でも本当は嫌なんでしょって神谷先輩に言われた。今からでも遅くないから素直になれって」
ひっ、と喉がつりそうになる。我慢しなければいけないのに、こんなことで涙を流すなんて滑稽なのに、何故止まらないのだろう。
「でも、素直になるのは難しいから…」
「…なるほど。今日は泣き上戸か」
「え?」
「いや、なんでも。それで?」
「それで…。なんだっけ。素直に…。素直になったら先輩は俺のこと好きになってくれるかもしれないと思って、だけど恥ずかしいし、情けないからできないと思って、でもそうしなきゃいけないから…」
上手く説明できない上に、自分がなにを言っているかもわからない。頭に霧がかかって処理が追いつかない。どうするべきか、何を言うべきか、いつもどう考えていたか思い出せない。
「…そうか。そうだな。素直なお前も可愛いと思う」
「可愛いなんて嫌だ」
先輩は俺の腰をぐっと引き寄せ、両腕を回し輪を作るようにした。
「女みてえだって言ってるわけじゃない。好きだから可愛いって思うんだよ」
「…よく、わからない」
「そうか。お前はちゃんと男らしいよ。俺なんかよりも。でも、俺は可愛いって思うことがある。たぶん、俺にしか見せないお前なんだろ?」
聞かれて、よくわからないけど頷いた。確かにこんな姿は彼にしか見せない。
「俺だけだと思うと可愛く見えんの。性別は関係なく。いつものお前が好きだけど、たまに素直になってくれると嬉しいというか、助かるというか…」
その言葉にぴんと背筋を伸ばした。素直だと嬉しいと言ってくれた。なら素直になろう。努力をしよう。常には無理だが、今ならできるような気がする。屋上から飛び降りろと言われてもできそうだし。それに比べれば他愛なではないか。
「わかった。今日は素直でいる。嬉しい、と思ってほしい」
真面目に言ったのに、木内先輩はふっと笑った。笑顔が見れた。やはり、素直とはいいことだ。自分にも幸福が訪れる。
「そうかよ。じゃあ何聞いても正直に答えてくれんの?」
「答える。なんでも。素直だから、嘘はつかない」
任せてくれ、と拳を作った。木内先輩はひどく嬉しそうだ。そんな顔が見れるならなんでもしよう。
そうか、好きだとなんでもしてあげたくなるとはこういうことか。
笑顔にするためなら苦労は惜しまない。自分といると楽しいとか、嬉しいとか、幸せだとか、温かい気持ちになってほしい。
面白みもないし、後ろ向きな性格だから難しいが、今日は何故かできそうな気がする。
「じゃあ、俺のことどう思ってる?」
うっと喉を詰まらせる。一番困る質問だ。
「…いい人」
「あれー、それだけ?さっきの意気込みは?」
もっともっとたくさん思ってることがある。なのにどんな言葉にすれば最適なのかわからない。気持ちが目に見えて、それで相手が理解してくれたら楽なのに。言葉に変換するのは苦手だ。
「…い、いつもじゃないけど優しいし、頼り甲斐がある。と思う…」
「他には?」
「…一緒にいると安心する。怖いことがない気がする。あとは…」
たくさんある。中身も好きだし、見た目も好きだ。高い背も、男らしい顔つきも、自分が欲しいものだから。
「じゃあ聞き方変える。俺のこと好き?」
「す、好きだ!」
ここで迷ったら離れていきそうで、怖くて勢い良く答えてしまった。
先輩はその迫力に一瞬ぽかんとして、ぷ、と吹き出した。こちらは一生懸命なのに遊ばれている気分だ。むすっとすると悪い、と謝られる。
「いや、お前からそんな風に言われると思ってなかったから。ありがとな」
彼はとても優しく笑いながら片方の頬を包んだ。
「俺もお前が好きだよ。最初より、もっともっと。他の女なんか興味ない。そこら辺の女より綺麗だしな」
「…綺麗とか言うな」
「なんで。お前の顔も好きなのに」
「…ならいい」
顔は武器になると言われたけど、自分の顔は大嫌いで、ぐちゃぐちゃに潰してしまおうかと思ったことが何度もあった。だけど、彼が好きというならこの顔に生まれてきてよかった。
それよりも、木内先輩は俺がなにか言うたびに面白そうに笑う。
なにかおかしいだろうか。もっと違う言い方があるのだろうか。それともやはり遊ばれているのか。
「俺、変なのか?先輩笑ってばかりだし、馬鹿にされてる気分になる…」
「いや、違う違う。どうしようもなく可愛いだけ」
簡単にあしらわれてないだろうか。もしかしたら今の自分はものすごく滑稽なのではないか。じんわりと不安になるがもう遅い。醜態は十分に晒してしまった。もう怖いものなどない。
「…先輩は、マグロだと嫌いになる?もっと俺も頑張った方がいい?」
「そこ拘るな」
「性の不一致は大きな問題、らしい」
「言いたいことはわかるけどな…。別に今のままで不満なんてないけど」
「でも、俺未だに全然上手にできないし、いつも同じだと飽きると思うし…」
「あー…」
珍しく言いよどんだので、やはりこのままじゃいけないのだと思った。
自分でもわかっている。もっと勉強して上手にならなければいけないし、先輩の手を煩わせないよう、自分でどうにかしなければ。
「なんつーか…。お前は十分やってるぞ?」
「…やってない」
「いや、腰動かすし、相当気持ちいい時は我慢しないで声も出すし…」
「動かしてないし出してない!」
そんな記憶は一ミリもない。
「そうか。じゃあそれでいい」
「なにかあるだろ、もっとしてほしいこととか。俺頑張る」
「頑張ってやることでもないと思うけどな。したくないこと無理にさせるのは嫌だし」
「そんなことない!言われれば俺だって…」
「へえ。なんでもしてくれんの?」
いつもの意地の悪い笑みを浮かべられ、前言撤回しようかと思ったが、ここで怯んではいけない。いつもと同じになってしまう。
「なんでもする…。変態っぽいプレイが好きだって知ってるし、嫌がったりしない」
「おい聞き捨てならねえな。色々試さないとどれがいいのかわかんねえだろ?セックスなんて楽しんでなんぼだぞ」
「なら、色々試してほしい。上手くはできないし、楽しくないかもしれないけど、協力する」
「その言葉明日になっても忘れんなよ。そうだ、後でちゃんと誓約書書いとこうな?」
「そんなことしなくても忘れない」
「いや、たぶん忘れてる。今日のことはすっかりと」
そんなにぼけていないのに失礼なことを言う。
勉強はできないが、昨日今日のことはすべて覚えていられるのに。
「とりあえずあれだな、マルチプルオーガズムやってみたいから今夜頑張ろうな」
にこりと微笑まれながらよしよしと頭を撫でられた。
それがどんなものかは知らないが、何度も頷く。試したいものがある内は飽きずに手を伸ばしてくれるだろうから。
その後木内先輩に言われるがまま、プリントの裏に適当に書いた誓約書にきっちりと真田ゆうきと名前を書いてしまった。それが悪夢の始まりだ。
どうかしていた。今ならわかる。頭の中が湧いていたのだと。
アダルトグッツをしこたま買ってあれも試そう、これもやってみよう、これを着てみよう、たまには場所を変えよう、そんな日々が続く破目になった。
勘弁して下さい。自分が悪かったです。浮気していいからと何度懇願したか。
今まであれでも遠慮していたし、無理はさせたくなかったけど、お前の本心聞いたらそうはいかないとしこたま笑われた。
あれを悪魔的な笑みというのだと知り、体力は常にゼロで早く先輩が俺なんかに飽きてくれたらいいのにと願うようになった。
END
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