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放課後久しぶりに神谷先輩の部屋を訪ねた。
先輩が三年になり、一人部屋となってからは滅多に部屋を訪れていない。
以前は木内先輩に託けて、よく話せていたけれど、こうなっては自分から訪ねなければ学園の中でも滅多に会えない。
気にせずいつでも遊びにきてよと先輩は気さくに言うが、彼は受験生だし、あまり自分のお遊びに付き合わせるのも申し訳ないと思い遠慮していた。
だけど禁断症状というのだろうか、その顔が見たいし声が聞きたいし笑顔を向けてほしくて胸がもやもやとした。
そうなったときだけ、遠慮がちに先輩に遊びに行ってもいいかと連絡をする。
昼休みにメールを送るとすぐに了承する返信がきた。
よかったら景吾もと添えられていたので、景吾も誘って。
神谷先輩と景吾は特に親しくもなかったはずだが、海外からお菓子が届いたから連れてこいということだった。いつも食べきれずに余所へお裾分けにするから、と。
景吾に伝えれば二つ返事で行くと言い、先輩の部屋に集合した。
ついたときには神谷先輩が段ボールから箱を取り出す作業をしていて、すぐに茶と菓子を出してくれた。

「おー、なんか色が日本のものと違う感じ」

「ね。たまに毒々しいのとかあるよね。それがまた面白いんだけど」

「うまいっすよ!」

差し出された菓子を遠慮なく頬ばる景吾の姿に先輩も嬉しそうに笑っている。
自分は甘い物があまり得意ではないので、出されたアイスコーヒーを啜った。
神谷先輩といても話題に花が咲く訳でもなく、テンションも平常運転だが同じ空間にいられるだけでほっとする。柔らかい毛布でくるまれて安堵できるそれととてもよく似ている。

「ゆうき君もどうぞ」

「…じゃあ、一つだけ…」

長方形の形をしたものを摘んで齧った。
先輩がフィナンシェという菓子だと教えてくれた。

景吾が半分以上を腹に収めたとき、来客があった。

「お、待ってたよ。半分に分けておいたからね」

入ってきたのは神谷先輩の従兄弟だ。
ブレザーのポケットに両手を突っ込んでいるのに、不思議とシルエットが綺麗だ。
姿は神谷先輩と似ていないが、彼もまた日本人離れした容姿と大人びた風貌で群衆の中でもよく目立つ。
彼が纏う透き通った空気と、それから少し冷酷そうなグレーの瞳がとても綺麗だ。
先輩は紙袋を差し出し、椎名先輩は困惑した様子でそれを受け取った。

「おじいさんも熱心だね」

「老後の楽しみなんだって。子ども二人が日本にいたんじゃ暇なんでしょ」

「まあ、そうか。おばあちゃんと旅行に来ればいいのに」

「身体がきついって言ってたよ」

そっか、と椎名先輩は呟いてこちらに視線を移した。
こんにちは、と右手を軽く挙げられたので頭を下げる。

「真田君と…」

景吾を見て思い出そうとしているらしいが、たぶんこの二人は初対面だ。

「相良景吾です。ゆうきの友達の」

「僕は椎名雪兎」

微笑する姿に一瞬見惚れそうになる。
とても優しい人だと知っているが、顔の造りのせいなのか、瞳のせいなのか、意地悪そうにも見える。
海外の人は同じような歳でも随分大人びて見えるというが、本当だったんだな、とぼんやりと考えた。

「よかったら雪兎もお茶飲んでく?予定がなければ」

「じゃあ頂こうかな」

神谷先輩は簡易キッチンへ向かい、椎名先輩は対峙するソファに腰掛けた。

「お邪魔しちゃってごめんね」

「いえ、人数は多い方が楽しいですよ!ね、ゆうき」

景吾のぽんと肩を叩かれ小さく頷いた。

椎名先輩は出された温かいお茶を飲みながら神谷先輩と談笑を始めた。
景吾はこれも美味しい、こっちもいけると、驚きの早さで菓子を口に放り投げる。
ぼんやりとしながら並んで座る二人を眺めた。
人は自分にない物を持っている人間に惹かれるらしい。
自分とは正反対の姿形の二人を見ていると、そこだけ画面の向こう側に思える。

「雪兎、今度は浅倉先生にマグロってなんですかって聞いてみて」

「マグロ?それなら僕でも知ってるよ。美味しいよね」

「そっちのマグロじゃないよ。まあ、聞いてみてよ。先生の反応教えてね」

「翔は相変わらず変なこと言うな。別のマグロってなに?本マグロとか、カジキマグロとかそういうやつ?」

「お前のそういうとこ大好きだよ」

神谷先輩はけらけらと笑いだし、椎名先輩は首を傾げた。そして心の中で自分も。
椎名先輩はお茶を一杯飲んで自室へ戻った。
景吾もようやくすべてを平らげたらしい。それで次の瞬間には夕食はなにを食べようと言い出すのだから怖ろしい生き物だ。

「神谷先輩、さっきのマグロってなんですか」

答えが知りたくて聞いたが、神谷先輩と景吾は目を丸くしてこちらを見た。

「そうか、ゆうき君もそっち派か」

「ゆうきは俗物的なことに興味ないっていうか、色んな物に興味ないっていうか…」

「仁と一緒にいるから下らないことも教えられているのかと思ってた」

「いやいや、木内先輩はゆうきの前では格好つけですから」

「確かに」

くっくと神谷先輩は笑い、景吾は困ったようになんでもないと首を振った。
その様子にむっとした。自分一人だけ仲間外れだし、子ども扱いされてるようだ。

「教えろ」

景吾の制服をぐっと引き寄せた。

「えー。木内先輩に怒られそう。バカみたいなこと教えんなって」

「言わない。先輩には言わないから」

「いいじゃん、教えてあげようよ。マグロってのは、夜ベッドの中で動かい人のことだよ」

「…は?」

死んだように眠る人のことだろうか。それなら自分もあまり寝返りを打たないらしく、生きているか不安になると言われたことがある。

「あ、これ絶対わかってないっすよ」

景吾が頬をつんつんと指で刺してきたので払いのけた。

「セックスしてるときに相手に任せきりで自分ではなにもしない人のことな」

その言葉に一瞬目を見開いた。

「…なんでそれがマグロになるんだ?」

「うーん、色々と意味があったけど、それは今度自分で調べてみて。説明するとややこしくなるから」

先輩に言われ、それなら早速と携帯を取り出して意味を調べた。
興味深い説明が並んでおり、自分が生まれるずっと前からあった隠語らしいと知る。
褒め言葉として使っていた時代もあったようだが、今では否定的な意味合いで使うらしい。

「…マグロだとどうしていけないんだ?」

「そんなの決まってるじゃん。どうせならお互いが楽しくやった方がいいでしょ?こっちが一生懸命なのに冷めたような態度されると悲しくなるし」

「そうだね。女の子に無理を強いるつもりはないけど、頑張ろうとしてくれた方が燃えるよね」

「うんうん。あれ、気持ち良くない?俺下手?とか思うじゃん」

二人は力説するが、そもそもお前達は女性を抱いたことがあるのか。
神谷先輩はありえるが、景吾は自分が知る限りはないはず。
しかし梶本とも切れたようだし、知らない間に、ということもありえる。
景吾は自分に隠し事ばかりすると文句を言うが、景吾も隠すのが上手だ。

「…そんなもんか?」

「だってさ、想像してみてよ!悲しくなるでしょ?しらっとされると俺なにやってんだろって虚しくならない?ただでさえセックスって変な体勢だったりするじゃん?我に返るといたたまれないでしょ?」

想像と言われても、自分が女性を抱くなど非現実すぎて。
セックスとは相手が俺の身体を使って自慰をするようなものだと思っていた。
気持ちいいと思ったことはなかったし、苦痛ばかりで早く終われと願っていた。
木内先輩に愛情が伴ったそれを教えてもらい、自分が認識していたセックスと本物はだいぶかけ離れていたとようやく知ったくらいだ。
けれど今でもどこか苦手意識があって、それを女性に強いるのは可哀想と思ってしまう。
たぶん、自分はこの先木内先輩と別れて女性と付き合ったとしても、そういう行為は強要しないと思う。
嫌な想いはさせたくないし、辛いとも思ってほしくない。心の繋がりを大事にして、身体などなくとも好きだと伝えると思う。
だけど世間一般はそうではない。
身体を繋げることは幸福で祝福されるべき行為で、お互い楽しく、愛情を持って気持ち良く、共同作業として頑張りましょう。そういう意味らしい。
人によって解釈の差はあれど、ここまで嫌悪する男も珍しいかもしれない。
そう思うと、自分が男として無能のような気になる。
だから女性とも同性とも付き合いたくなどなかった。愛情も恋愛も知りたくなかった。

「でもゆうき君が気にすることはないよ」

ぽん、と神谷先輩に肩を叩かれて我に返った。

「仁はゆうき君がどんな風でも文句なんて言わないし、足で顔を踏みつけてもご褒美ですって思うから」

「思いませんよ。めっちゃキレられますよ」

「口ではね。あれは何をされても、逆に何もしなくてもゆうき君がいてくれればいいと思ってるよ」

そうだろうか。そんな風にはとても思えない。
先輩の愛情を疑っているわけではない。でも、人の愛情には限りがあって、すべてを注いだら空になる。空になったらさようなら。
だから受け取った愛情をまた同じ器に戻したり、もっとそれが増えるように努力する。
自分はその作業がとても苦手だ。どうしたらいいのかわからない。
何をすればいいのかわからなくて、でもどうにかしなければいけないと焦って、結局無言で佇んでばかりだ。

「…例えば、どうすれば景吾や先輩は嬉しいんですか?」

「え、なにゆうきマグロなの?気にしてんの?」

直接的な物言いに、思い切り景吾の肩を殴った。

「いてて。ごめんごめん。でもそういうことに積極的なゆうきは想像できないけど」

「しなくていい」

「うーん。俺はね、いつもそうしろなんて思わないけど、たまには誘ってほしいし積極的になってほしいかな!」

「…へえ…」

言われた景吾が満面の笑みになるところが瞬時に想像できる。
こいつはあれだ。年上のお姉さんタイプがお似合いだ。

「僕は特にないけど、ちゃんと言葉が欲しいかな。こっちはいいのか悪いのかわからないから不安になる。どうせならよくなってほしいでしょ。痛い想いも不自由な想いもさせたくないし」

「神谷先輩イケメン!」

きゃっきゃと景吾と神谷先輩は盛り上がり、自分は白熱する会話をただ聞いた。
そうか。そうなのか。男はやはりそういうものなのか。
自分の夜の態度を思い出してがっくりとした。
先輩に文句を言われたことはないが、もしかしたら酷い態度だったかもしれない。
自分から手を伸ばしたり、言葉にしたり、そういうものがない。
最中はそれどころじゃないし、彼について行くだけで精一杯だ。

「なに暗い顔してんの!ゆうきはそんな心配いらないよ!」

「…そんなことはない。俺はひどいものだ…」

俯いてぼそぼそと懺悔した。今思うとこんなことを二人に話すなんてどうかしてる。
余程ショックを受けたのかもしれない。世の中と自分の解釈のギャップに。

「男にとって、性の不一致というのは大事な問題なんだろ?俺はよくわからないが」

「まあ、大事っちゃ大事だけど、それだけじゃないし」

「でもそれが原因で別れることだって…」

「ゆうきは大丈夫だってば。実際別れてないし」

景吾の必死なフォローが逆にこのままではいけないのではないかと焦燥させる。
苦手意識があるとはいえ、そんなもの木内先輩には関係なくて、随分と退屈な想いをさせているのかもしれない。

「いや、たぶん大丈夫じゃない…」

わっとどこかへ走り出したい気分だ。なにも考えずに済むように。

「…確かに、それは一理あるかもね」

黙っていた神谷先輩がぼそりと言った。
え、と景吾と同時にそちらを見る。



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