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「さ、行こう行こう。成功したらお礼に高級焼肉食べ放題に招待するね」

それはとても惹かれる言葉だが、景吾ならばともかく、自分では釣れない。
そんなことよりも今すぐ服を脱ぎ捨てて、頭のやつをとって、風呂に入りたい。

家に入り、どうか香坂が今日一日起きませんようにと願った。
やはり朝の段階で無理矢理でも起こして一緒に行けば普通に買い物でもして、ご飯を食べて終われただろう。
ばか。自分のばか。

「ただいまー!」

「なんだ帰ってきたの。ってか楓は?」

聞えた声にびくりと肩が強張り、ぐっと俯いた。膝下までのフレアスカートをぎゅっと握る。

「楓君はお家から呼ばれて帰ったわよ」

「俺に一言もなく?」

「なんであんたに断る必要があんのよ。休みだからってだらだら寝てるからでしょ」

綾さんの背後に隠れるように身体を小さくした。
このまま逃げてもいいだろうか。一目散に走り出したいが、こんな恰好で行く当てもない。

「あれ、誰かいんの」

「そうなの。お友達の娘さんなの。そこでちょっと会ったからあんたに紹介しようと思って誘っちゃった。可愛いでしょ?」

ぐいぐいと背中を押され、香坂と距離が近くなる。
俯いてだらだらと汗を掻いた。バレませんように。それともバレた方がいいのだろうか。
どちらにしても地獄の予感しかしない。

「…ふーん。どうも、香坂涼です」

これはバレて…ない。嬉しような、悲しいような。
どんな姿でも君を見つけ出すよ。なんて、漫画か小説の中の話しらしい。現実はこんなもんだ。

「こちらはカナデちゃんよ。さ、座って座って」

「え…」

香坂の隣にぐいぐいと押されたので、人一人分の距離をとって座った。
視線を外すように窓の外を見れば、ウィッグのおかげで香坂からは上手く顔が隠れている。

「ふーん。カナデちゃんねー」

小さく呟かれ、ギクリと心臓がうるさくなった。
だが、香坂は爽やかな笑顔を向けて言った。

「可愛い名前だね」

話しかけられびくんと身体が硬直した。声出せないってのに。
しかもその女殺しなセリフはなんだ。けしからん。
こういうことをサラっと言えるからこいつはモテるのだろう。
でも、俺に向かって言う言葉ではない。女を口説くときもそうしているのかと嫌な想像をしてしまう。

「あ、カナデちゃん風邪ひいてて声出ないのよ」

キッチンから綾さんが助け舟を出してくれた。

「あらま、残念。声も可愛いだろうなって思ってたのに」

この野郎。
今すぐぶっ殺してやりたい。ぎゅっと拳を握った。
代わりに小さく頭をさげた。ありがとう、という意味を込めて。
こうなったら俳優にでもなったつもりで可愛い"カナデちゃん"を演じてやろうではないか。
正体を知ったときに泣いて土下座したってしばらく口を聞いてやらない。しばらく、というところが情けないが。
きっと自分は香坂が浮気をしてもその調子で許してしまうのだと思う。
悔しい。すっぱりと捨てたい。けどできない。嫌な未来のビジョンが見えた。

「はい。お茶どうぞ」

冷たい緑茶を出され、丁度喉がからからだったので一気に飲み込んだ。

「男らしい飲み方するね」

香坂に言われてはっとした。所作まで女性になりきるのはいくらなんでも無理だ。
あれは訓練を受けなければできないし、気を緩めた瞬間に男の素性が現れる。
文化祭のように着物ならば色んな部分を隠せるが、洋服だと一段と難しいらしい。無駄な知識を持った。

「喉痛かったのよね?」

すかさず、自然とフォローする綾さんは流石だ。頭の回転が速いのだろう。
綾さんの言葉にこくりと頷く。
もう限界だ。まだ五分くらいしか時間は流れていないだろうがもう無理。今すぐ服を脱いでパンツ一丁で大の字になりたい。

「京はまだ寝てるの?」

「じゃねえの」

「なーんだ。京にも紹介してあげようと思ったのに」

「はあ?馬鹿言うなよ」

「なんで馬鹿なのよ」

「なんでもだよ」

「そんなに"カナデちゃん"が気に入ったの?まあ、カナデちゃんが帰ったらもう二度と会えないかもしれないしねえ」

ニヤニヤと綾さんが笑えば、香坂は恥ずかしがる素振りもなくそれを肯定した。

「あらま。我が息子ながらそういうとこ可愛くないわ。もう少しさ、恥ずかしいからやめろよとかないの」

「ないね。京には見せたくないから部屋連れてっていい」

「いいけど話せないわよ」

綾さんはちらりとこちらに目配せをした。
部屋へ行って盛大にバラしてこいと言うことだろうか。
行きたくないし、もう帰りたい。大笑いされてもいいから、今すぐ正義の味方、秀吉マンを召喚したい。

「それでもいいよ」

香坂は俺の腕を掴んで立ち上がった。一瞬の出来事で、振り解く前に前のめりになる。
香坂ががっちりと肩を押さえて支えてくれたが、身体に触れられればさすがに男とバレるだろう。

「大事な娘さんに変なことしたら殺すわよ?」

「息子に向かってなんつーセリフだよ」

「あんたの下半身がだらしないの知ってるんだもん」

「おー、こわ」

ずんずんと前を歩く香坂に引っ張られながら、待て、助けてくれと後ろを振り返ると、綾さんはがんばれと拳を握って瞳をきらきらさせていた。
わかった。自分だとバラしてさきほどの態度はなんだと説教タイムに入ろうではないか。
確かに弟君にこんな姿は見られたくない。変態と詰られる。薫の耳に入ったら一生いじられる。

部屋に通されると、ソファに座れと促された。
香坂は先ほどよりもかなり密着して隣に座った。
どのタイミングで言ってやろう。香坂が本気で口説きにかかったら、それはそれでショックだが、やはり女の方がいいと再確認されたらどうしよう。
浮気ならいい。まだ、百歩譲って許してやる。けど、男とつきあってたのは若気の至りとかいってすっぱり捨てられたらどうしよう。

「なあ」

ぽんと肩を叩かれまた現実逃避していたのだと知った。

「こっち見て」

言われたが、ふるふると左右に首を振った。
熱っぽい瞳をしていたら泣いてしまうかもしれない。

「俺の目全然見てくれないね」

何も言い返せずがっくりと肩を下ろした。

「もっとその顔見たいんだけど」

大好きだった甘くて、少し低い声。その声で囁かれれば最後には言うことを聞いてきた。
でも自分以外の人間にもそんな声を出すなんて知りたくなかった。
女性が相手だと自分にするよりももっと甘い声を出すのだろうか。
言葉だっていつもより柔らかいような気がするし、乱暴にもしない。
別の顔の香坂を見てしまった。一生知りたくなんてなかった。
相手はいくらでもいるのだとまざまざと見せつけられたようだ。

「"カナデ、ちゃん"?」

ふっと笑った気配がしたと思った次の瞬間、ソファにどさりと押し倒されてしまった。
ぽかんと口を開いて香坂を見上げる。こいつ、本当に手が早いのは誰が相手でも一緒かよ。ぎりっと奥歯を噛んだ。
頬を包まれ、顔が近付いてきたので、ぐっと胸を押し返した。
二つの意味で泣きそうになるではないか。情けないし、浮気相手になるなんて。
思いきり睨み上げたが、香坂は嬉しそうに笑った。

「怖い顔してるつもりだろうけど、それ男を煽るだけだからやめた方がいいよ」

ぶちん、と血管の何本かが切れたような気がした。
もう黙ってられるか。しばらく口をきかないと思ったけど、それだけじゃ済ませない。

「手前ふざけんな!俺だよ!」

噛み付く勢いで言った。さあ焦るがいい。浮気しようとしてましたごめんなさいと泣いて詫びろ。許さないけど。

「…知ってるけど」

「……え…」

「知ってるけど」

あっさりと言われ、いや、きっとこれは香坂の策だと思い直す。
浮気じゃないと言いたいだけだろう。その手にのるか。常に丸め込めると思うなよ。確かに自分は頭が悪いが香坂と共にいて人の裏の裏を読むことを学んだ。

「う、嘘つくな!」

「嘘なわけねえだろ」

「だって、なんかちゃんと女を口説くような感じだったじゃん!」

「だってお前はカナデちゃんなんだろ?」

「う…。それは…」

「女のお前もちゃんと口説かないとな。彼氏としては」

「ふ、ふざけんな!」

「ふざけてない」

とにかく、この体勢はやめろとぐっと胸を押したが、その腕をとられ触れるだけのキスをされた。

「…グロスってさ、キスのとき邪魔だよな」

「し、知らねえよ!」

そんな経験ございませんし?香坂様は経験豊富でしょうから?いい、わるいもわかるでしょうが?
嫌味を込めて言いたいが、このままでは流されてしまうので歯を食い縛った。
香坂は自分の唇についたグロスを舌で舐めとりながら、俺の唇を指でなぞってグロスをとりのぞいた。

「お、俺は騙されない!」

いかん。この空気になるといつも流されてしまう。まあ、いいか。難しいことは。と思ってしまう。甘く、柔らかい雰囲気と香坂の色気に馬鹿になってしまうから。

「騙されるもなにも、本当のことだし。逆に聞くけど俺がわからないわけねえだろ」

「そ、そんなの…」

こんなに完璧にプロが整えてくれたのだから普通は誤魔化されると思うのだけど。
第一普通は前触れもなくいきなり女装してばばーんと登場などしない。

「見た目が女になっても空気とか仕草でわかるわ」

騙されない。騙されないぞ。

「ってか、見た瞬間にわかったわ。また綾が下らねえ遊びでも思いついたんだろうと思って乗ってやったけどな」

「…嘘だ」

「ほんと。嘘の方がいい?」

「……嫌だ」

浮気してたらどうしよう。女に見せる顔を自分なんかに見せないでくれ。
ぎゅっと潰されそうだった心臓が、今度は別の意味で潰されそうになる。
彼の真意はわからない。嘘かもしれないし、本当かもしれない。嘘だったら簡単に騙せる馬鹿な奴だと嘲笑される。けどもう、そんなことはどうでもいい。
馬鹿は馬鹿なりに、馬鹿なほど香坂が好きだ。
香坂は小さく笑って、もう一度キスをくれた。

「まーた可愛く化けちゃって」

このままでは勢いでラウンドが始まってしまう。階下に綾さんもいるのに。
変なことするなと言われたのに。弟君が急に入ってくるかもしれないし、綾さんがドッキリでしたー!と登場するかもしれない。

「こ、香坂、まさかこのまま…」

「あ?しねえよ」

言われてほっと胸を撫で下ろしたが、香坂にしては珍しい。
やはり、気持ち悪いのだろうか。手を出されなくて少し残念、なんて、自分はどこかおかしい。
起き上がりながら妙に胸がそわそわして、心臓あたりをぎゅっと掴んだ。
なにをさっきから不安になっているのか。馬鹿馬鹿しい。

「抱くなら男のままのお前がいい。たまにならそういうプレイもいいけどな」

ぐっと腰を引き寄せられ、頭にキスをされた。

「だから早く脱いでこいよ」

「しねえから!」

「えー…」

「えーじゃない!」

ああ、馬鹿馬鹿しい。ドッキリになどならなかったし、香坂は男の自分が好きだと言うし、自分も改めて香坂を離したくないと思い知っただけだった。
ああ、なんて馬鹿馬鹿しい。恋とは大馬鹿者がするものらしい。



END

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