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きゅっと蛇口を閉め、肌触りのいいハンドタオルで手を拭いた。
時刻は朝の八時を回ったところで、リビングではカフェインレスの紅茶を飲みながらお腹を優しく擦る綾さんの姿がある。
妊娠が発覚してから、暇さえあれば香坂家にお邪魔し、お節介と知りながらも好きで世話を焼いている。
妊婦は男の想像を絶する程大変な苦労をしながら生活していると保健体育で習ったし、万が一の可能性をすべて潰してどうか無事に生まれてほしいのだ。

「楓君ありがとうね」

自分もコーヒーカップを持ちながらソファに腰を下ろすと綾さんが微笑んだ。

「いえ。好きでやってるんで」

「本当にできた子だよ楓君は。うちの馬鹿息子に爪の垢煎じて飲ませてやりたい」

綾さんは小さく溜め息を零し、それを見て苦笑した。確かに香坂兄弟は母親を労わる素振りは見せない。
しかし、自分も自分の母親相手ならばここまで熱心に手伝わないだろう。
それに元々家事を苦痛と思わないタイプなので無理をしているつもりはない。

「やっぱり私の教育がいけなかったのかしらね。楓君のママはこんなに立派な息子に育てたってのに」

「え。いや、うちの母親なんで普通ですよ普通。口煩いしすぐ怒るし」

「でも実際こんな優しい子に育ってるじゃない?」

面と向かって褒められると気恥ずかしくて、そんなことないと首を左右に振った。
特別自分が優しいなど思わないし、むしろ普段は秀吉や蓮に甘えてばかりだ。

「涼と京の面倒もみてくれてるし。あの兄弟に挟まれて上手く立ち回るなんて、私以上にお母さんっぽいね」

ふふ、と笑う綾さんだが、こちらは昨夜の出来事を思い出し対照的にげんなりした。
夕飯の準備のためにエプロン着用で台所に立っていると、気配もなく香坂が後ろにおり、腰のあたりをきゅっと引き寄せられた。
火を使っているときに悪戯をするなと叱ると、それが気にくわなかったのか今度は耳をかりっと噛まれた。
綾さんは席を立っていたが、弟君はリビングにいてよく観察すれば何が行われているかわかる距離だった。
案の定、弟君は自分の目の前でそういうことをするなと香坂に喰ってかかり、自分といえば一旦火を止め、二人の間でいい加減に喧嘩はやめろと喚く羽目になった。
そこで綾さんがリビングに戻り、あらあら、また喧嘩?と呑気に言ったのだ。

「…はは、は…」

乾いた笑いが口から零れる。
一応兄弟間の自分を巡るいざこざは決着したが、薫曰く、弟君はまだ落ち込んでいるらしかった。

「うちの息子たちは未だに起きもしないし。まったく…。あの子たちのお嫁さんになる子はすごい苦労しそう」

ずきん。胸が小さく痛んだ。
いずれそうなるかもしれない。未来はわからないが、このまま順当にお付き合いを…。というわけにはいかないだろう。
環境の変化は心の変化も伴う。男女の交際ですら別れはつきもので、自分たちなど尚更だ。せめて自分が女だったらよかったのに。もう何百回も考えた。けど、思わずにはいられない。

「そんなことないっすよ」

気持ちを振り切るように無駄に明るい笑顔を見せた。

「楓君が女の子ならなあ。ぜひ、涼か京をもらってほしいわ」

「いやいや、苦労しそうって言ってたじゃないすか。俺が女だったら苦労しなさそうな人と…」

「でも!顔だけはいいわよ?」

ずい、と身体を前のめりにして言われた。必死にならずとも自分は女にはなれないのに。

「まあ…。それはめちゃくちゃ羨ましいですけど」

でも顔だけでは困る。香坂の場合、顔だけではないから一緒にいられるが。
しかし、自分が女だったとしても同じように向き合ってくれたかはわからない。
男だからこそ、面白半分で手を出したのだし、女だったらその他大勢の一人にすらならなかっただろう。
自分の両親を思えば目を引くようなとびきりの美人に生まれた可能性は限りなく低く、よくて中の中。香坂の食指が動くことなく、素通りされるのがオチだ。

「楓君は弟がいるんだっけ?妹だっけ?」

「弟っすよ」

「弟かー。残念」

「弟可愛い顔してますけどね。俺と違って。女だったら…」

よかったかもと言いかけて、前言撤回を誓った。
あんな女がいたら怖ろしすぎて女性恐怖症になる。女の腹の中は闇より深いと知ることになる。
綾さんはカップをソーサーに戻してねえ、と身を乗り出した。

「今日は涼と予定ある?」

「…特にありませんけど」

「じゃあさ、私とデートしようよ!」

「なにか買いたいものとかあるんすか?」

「うんにゃ、家の中にいるのも飽きてきたし、体調もいいし、久しぶりに会社にも行きたいし」

「はあ…。構いませんけど」

会社に行くなら自分同伴ではない方がいいのでは?
職場にこんな高校生がいたところで邪魔なだけだ。
かといって息子二人は気分転換に付き合えといっても首を振らないだろう。
面倒くさい、眠い、うるさいと一蹴するに決まっている。薄情者め。

「そうと決まれば準備しなきゃ。十時くらいに家出ようか」

「はーい」

一旦解散と言わんばかりに綾さんはご機嫌で風呂へ向かった。
自分もカップの片付けをし、香坂の部屋を目指す。
静かに扉を開ければ、香坂は未だ呑気に夢の中だ。俯せで瞳を閉じる姿に小さく溜め息を零しベッド脇にしゃがんだ。

「おーい」

はしばみ色の細い髪をさらりと一束掬ってみたが起きる気配は微塵もない。
すうすうと小さな呼吸を繰り返し、長い睫はぴくりとも動かない。
綾さんは自分が女だったら、と言ったが、むしろ香坂が女だったらよかったのに。
きっととびきりの美女だったろうし、スタイルも良くて頭も良かっただろう。
それほど上玉な女ならば我儘でも女王様でも構わない。そうしたら一生離さなかったのに。
どちらにせよ、自分が相手にされることはなかっただろうが。
そう考えれば、一番ありえないであろう同性同士でお付き合いをしている今がとても奇妙に思える。
神様の悪戯にしては性質が悪い。どこをどう間違ったらこのよくできた顔を持った男が、胸もなく、顔も平均、性格も頭もぱっとしない自分を気に入るのか。
ぐらぐらと自信が揺らぐがいつものことだ。
それに気付かないふりをして立ち上がった。
香坂が起きれば一緒に行こうと誘いたかったが、それは諦めて着替えを済ませて再び階下に降りた。
綾さんは女性なので準備も時間がかかるだろう。
携帯ゲームで時間を潰して綾さんが化けるのを待った。いや、化粧などしなくてもともて美しいけれど。

「お待たせー」

リビングの扉を開いた綾さんは、僅かな隙もないほど頭から爪の先まで綺麗に整えていた。
こんな母親なら買い物の荷物持ちでも電球の交換でもなんでもしてやるのに。
自分の母親と綾さんを比べそうになって、そんなの綾さんに失礼すぎるので打ち消した。

「じゃ、行こうか」

綾さんはスキップでもしそうな勢いで車の鍵を握った。
そうか。いつも家に一人きり。話し相手もいない。体調が優れずとも、疲労に苦しんでも、少し背中をさすってくれる相手もいない。
こんな広い家の中で。
一番傍にいてほしい旦那は海外。電話で話すにも時間を合わせる苦労がある。息子とくれば都内にいても滅多に帰ってこない。
そんな生活の中で、自分のお節介は綾さんにとって気晴らしになったのかもしれない。
自分より随分と大人の女性に対して失礼だが、今日は綾さんの気が済むまでとことん付き合おうと決めた。

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