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翌日目を覚ますと工藤の姿はなかった。
カーテンの隙間から射る明かりで随分寝坊したことを知る。
昨晩はなかなか寝付けなかった。頭を冷やしてからベッドに入ったはいいものの、寝惚けた工藤が抱き枕代わりにしたからだ。
こちらの気も知らないでとイライラして、たったそれだけのことで反応しそうになる下肢に呆れ、奥歯を噛んでどうにか耐えた。
スマホを手繰り寄せて時間を確認してから上半身を起こす。大きく欠伸をし、ぺたぺたとリビングに向かうとソファに座りながらパソコンを太腿に乗せた工藤がこちらを振り返った。

「おはよう」

「…はよ」

そのまま洗面所へ向かいぼんやりする顔を洗う。
ラグに座るとこちらに駆け寄る麗子さんを撫で、今日も世界一美人と誉めた。

「和希、これはなんだ」

工藤を振り返ると昨日元奥さんが置いていった鍵を持っていた。

「…ああ、あんたの元奥さんが昨日置いてった」

「来たのか?」

「来たよ」

「そうか…」

工藤は片手で口元を覆い苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

「…なにその顔」

「いや、すごいタイミングで鉢合わせしたなと…」

「別に気にしないけど。あんたの元奥さんめちゃくちゃ綺麗だから目の保養になるし」

麗子さんの尻尾をつるんと撫でながら言ったが工藤から返事はない。
もう一度背後を振り返ると工藤は口の形をへの字にしていた。

「今度はなんだよ」

「愛美は他に男がいるぞ」

「は?わかってるよ」

「和希には振り向かないからな」

「当たり前だろ。なに言ってんの」

首を捻るが工藤はむっつりしたままパソコンに視線を移した。
まさかと思い、隣に座り顔を覗き込む。

「妬いてんの?」

「妬いてない」

「普通は俺が妬く場面じゃね?元奥さんと鉢合わせだぞ?」

「それは…」

言葉を詰まらせたのでにやりと笑って髪を乱暴に撫でてやった。優越感で胸が一杯になる。世間話程度の言葉にむきになって、三十を過ぎた大人のくせに高校生に振り回されて。自分はもっと振り回されているのでこんなんじゃ足りないけれど。

「どうせ私はおじさんだし、目の保養にもならない」

「んなことない。工藤もカッコイーよ」

「そのうちお腹が出て健康診断でメタボリック症候群と診断される」

「それは困るな」

はっきり言うと工藤は自分の腹に手を当て肩を落とした。

「…若作りはしたくないが、多少身体を鍛えた方がいいだろうか」

「好きにしろよ」

「努力しないと若い子に和希をとられるかもしれない」

ぼそりと呟いた言葉に噴き出した。
能面の裏でそんなことを考えていたのか。杞憂だと言ってやりたいが、おもしろいので放っておこう。
自分だって思う。工藤の周りには美しく、完成された大人の女性がたくさんいるだろう。今までは工藤が既婚者だからと諦めていた女性も、離婚した今となっては次は自分の番と目を輝かせているかもしれない。
工藤の見た目は悪くないし、弁護士という肩書も収入も女性が望む条件をクリアしているだろう。事実、そういう女性と一度結婚したのだから二度目もあるかもしれない。
不安定な高校生のガキと、共に生きるのに適した女性、どちらを選ぶかなんて火を見るより明らかで、そういう不安と戦わないと工藤と一緒にいられない。

「和希は女性にも男性にもモテるからな」

「いや、どっちにもモテないし、男に告られたのお前が初めてだわ」

「後輩とかに慕われるタイプだろう。精神的に未熟な時期は憧憬と恋愛の区別がつかなかったりするものだ」

「へえ…」

適当に返事をしたが、そんなことがあってたまるか。
あったとしても腕っぷしだけは自信があるので自分で対処できる。

「この前和希に話し掛けていた子二人もとても綺麗だったな」

椎名と翔のことだろうが、あの二人と自分がどうこうなんて気持ち悪いからやめてほしい。特に翔。
工藤は溜め息を吐いてパソコンを閉じた。いつもの馬鹿みたいなポジティブ思考はどこにいったのだろう。
くだらないことで悩んで、勝手に妄想を膨らませて自分自身を追い込む。恋愛って馬鹿みたいに自分本位だ。無駄が多く、だけどその無駄が楽しかったりもする。
工藤は特に好きという感情がよくわからないと言っていたので、初めての経験に苦しんでいるのかもしれない。
辛いだろうが自分の心は自分自身で決着をつけるしかない。はっきりとした答えが見付からずとも着地点を探し、いい塩梅で妥協する。それを繰り返して心を平坦にする訓練を積み重ねる。
わかっているが、じゃあ自分はできるのかと聞かれるとまだ修行中だ。
何も言わずにいると、工藤はこちらに懇願するような視線を向け、片手をとると指に唇を押し付けた。

「他の人を好きにならないでくれ」

「…友達はそういう制限ができないんじゃなかったか?」

「そう、だが、嫌なものは嫌だ」

まるで子供の我儘だが、なりふり構っていられない気持ちはよくわかるので意地悪はやめた。工藤の頬を片手で包み、真っ直ぐ視線を合わせる。

「そんな簡単に心変わりする男じゃないんだけど」

「わかっている。きっと和希は彼女のことも大事にするだろうし、浮気とか裏切るような真似もしないだろう。だが和希が自分を好きなんて信じられない気持ちの方が大きいし、なぜ私なのだろうと思う」

「今更それ言うか?」

「すまない。君が苦しんで出した答えだとわかっている。わかっているが…」

理屈じゃない部分が負の感情を引き寄せるんだよな。わかるよ。
どんな言葉を与えても足りないだろうし、行動で示すしかない。
年上で、同性で、面倒なつきあいしかできない。なのにお前しかいないのだと。
問題児と大人から爪弾きにされ続けた自分を信じ、疑わなかったのは工藤だけで、それにどんなに救われたか。
出口のない昏い場所へ落ちそうだった自分の手を引っ張り上げてくれたのは工藤なのだ。
ふっと笑い工藤の頬を摘んで無理矢理笑みの形にした。

「いつもの自己中な千尋ちゃんはどこにいったんだよ」

「…自己中ではない」

「自己中だろ。こっちの都合無視して好きだ、好きだって言い寄って」

「それしか方法がわからなかったんだ」

「それくらいの勢いで振り回せよ」

「だが」

「俺好きな子には甘いって言っただろ?」

「…どっちが年上かわからないな」

「ほんとだよ」

吐き捨てるように言うと工藤は僅かに口角を上げた。

「さすがだな、和希は」

工藤に触れていた手を戻すようにされながらさばさばした声色で言われる。
さっきまで泣きそうな顔で懇願していたくせに、もう大人の男の顔をしている。こういう切り替えが瞬時にできるところに歳の差を感じる。無駄に甘い空気にならぬよう自制して断ち切るのだ。
振り回していいと言ったけれど、やっぱりなしと前言撤回をかましたい。
あーあ、と拗ねた気持ちで天井を見上げる。愛美さんは大人の言い分もわかってあげて、大事に思えばこそなのだと言ったけれど、よくわからない。
工藤には仕事がある。社会的立場がある。すべて捨ててほしくない。自分の存在が足枷になるような状況は我慢ならない。
なのにすべてを捨てて掻っ攫う激情がこれっぽっちもないのだと知ると歯噛みしたくなる。

「腹が減っただろう。なにか用意しよう」

立ち上がった彼を引き留めなかった。代わりに陰湿な視線を送る。
ちっと舌打ちをし、スマホを操作する。友人たちからのくだらないラインに返事をし、天気予報を確認する。
雨は降らないようなので後で麗子さんと散歩に行こう。その後少しごろごろして、十七時には寮につくように工藤の家を出る。
門限くらい別にいいじゃんと思うけど、守らなければいけないらしいし、夜出歩いてなにかに巻き込まれたらまた有馬と一悶着あるだろう。
自分を守るため、同級生を守るため、工藤との関係を守るため、いい子でいなくては。
当たり前のことなのに、その当たり前を放棄して過ごしていたので大きなストレスになる。
その内キッチンから呼ぶ声がし、そちらに向かうとダイニングテーブルに牛丼らしきものが乗っていた。

「お前料理できたの?」

「電子レンジが料理してくれた」

「ああ、冷凍食品ね」

呆れたように言うとむっと眉を寄せ、目玉焼きくらいは作れると胸を張って言われる。
それは料理といえるのかと思ったが、自分は目玉焼きすら作れないので文句は言えない。
向かい合って手を合わせ、既製品なだけあって整った味付けの牛丼を口に放り込んだ。

「…そういえば」

工藤は思い出したように箸を止めた。

「浅倉先生に言われた。和希が進路に悩んでいるようだから機会があれば相談に乗ってほしいと」

口元に持っていく途中だったグラスを戻し、は?と聞き返す。

「だから、浅倉先生が…」

「いや、それはいい。わかった」

「私でよければ相談に乗るが」

「いや、うん…」

浅倉の野郎、次会ったら余計なことを言うなと釘を刺しておこう。
工藤と浅倉の接点がどれだけあるかわからないが、恐らく浅倉は関係に薄々気づいている。面倒事に首を突っ込むタイプではないので知らぬふりをするだろうが、それとなく牽制はされそうだ。厄介事を持ち込むなと。
そもそも進路を工藤なんかに相談してまともな答えが返ってくると期待する方が間違ってる。いつもぼんやりしているし、何を考えているのかわからない。まともな思考はしていないし、ネジが何本か外れた馬鹿と天才の狭間にいる男だ。

「…工藤はなんで弁護士になったの」

どうせご立派な理由はないだろうと聞いた。

「…私が中学生のとき、父がリストラされたんだ。だから手に職をつけたかったが不器用だから技術系は向いてなくてな。できることといえば勉強くらいで」

「…そ、っか」

意外とヘヴィな答えに俯いた。その頃の工藤家を想像すると辛くなる。

「なんとなしに収入を考えた結果法学部に進んだが、今となっては自分にあっていると思うし、仕事も嫌いじゃない」

「ふうん」

「和希はどんな仕事がいいだろうな。想像すると楽しいな」

「は、一ミリも楽しくないんだけど」

こっちは切羽詰まっているのに楽しいなんてお気楽に考えられない。卒業するまで踏ん張らないと負け組のレッテルを貼られ日陰者になる。憂鬱すぎて大きな溜め息が漏れた。

「決まらなかったら来年考えればいい」

「フリーターしながら?」

「そうだ。君たちが思うより人生は大人になってからの方が長いし、たった一年、二年の遅れなどどうということはない」

「…そうかな。みんな大学行ったり、就職したり、そういうの見てると焦るじゃん」

「大学や就職がゴールではない。大学に入ったとき、二浪、三浪なんて珍しくなかったし、みんなから一年遅れてスタートしたっていいんだ」

そうだろうか。できれば流れるベルトコンベアの上に乗って目的地へ進みたい。
たた歩き続けるのはしんどい。なにか目標がないと頑張れない。特に自分は。

「でも担任には早く決めろってせっつかれるし…」

「…そうだなあ。和希は体力も根性も自信がありそうだから、警察官とかどうだろう」

「警察は敵なんで」

びしっと掌を見せて制した。幼い頃は憧れていたが、段々と幻想だと知った。あいつら見た目だけで無条件でこっちを悪者にしやがって。何度嫌な目に遭ったか。

「では消防士なんてどうだ?似合いそうだ」

「消防士ねえ…」

人助けがしたいとか殊勝な心掛けはないし、そんな半端な覚悟で就く仕事ではない。自分の身を危険に晒しても誰かに手を差し伸べられるような人間でもない。

「建設関係や鳶職なんかも合いそうだな」

「ああ、そういえばそっちに進んだ先輩に誘われたわ。若い奴全然いないしどうだって」

「それは羨ましいな」

「…羨ましい?」

「ああ。私は幼い頃近所の道路工事をしていた職人に憧れて毎日学校帰りに見学に行った。途中で向いてないと悟ったが、君のように優れた体躯と体力があったらそちらに進んでいただろうな」

「似合わないんですけど…」

「わかっている。幼い頃の話しだ。でも素晴らしいではないか。それがなくては大多数が困るというものを造れるなんて。道路だったり、ダムだったり、トンネルだったり…汗水垂らして泥だらけになりながら作業する姿に尊敬した」

「へえ。インテリ系はそういう職業を見下すのかと思ってたよ」

「馬鹿をいうな。日常生活に密に関わる仕事だぞ。彼らがいなければ水道も、電気も、電車だって走れない」

工藤は憧れのヒーローの話しをするかのように瞳を輝かせながら言う。

「なんつーか、真逆だから憧れるのかね」

「今でも工事現場を見つけるとつい覗いてしまう。近寄らないでくださいと怒られるが…」

しゅんと肩を落としたので、本当に好きなのだなと思う。意外な一面を見てくすりと笑った。

「でもまあ、わかる気もする。俺も小さい頃レゴとかで家作ったり橋作ったりすんの好きだった」

「私は今も好きだ」

くっと笑うと同時、重く圧し掛かっていたなにかが少しだけ軽くなった。

「じゃあ、候補に入れてみっかな」

「そうだな、視野は広く持った方がいい。和希はなんにだってなれる。可能性しかないのだから」

勉強のできない自分は何者にもなれない。だけど、工藤がそう言うなら本当に可能性があるのではないかと思うから不思議だ。
できればこれ以上勉強はしたくない。このご時世大学を出た方がいいと皆が言う。高卒と大卒では生涯年収にこれくらいの差があって、たった四年が大きな違いになりますと。データとして見せられてもいまいちピンとこないし、手前の価値観を押し付けんなと思ってしまう。
金は必要だろう。将来万が一結婚や、子供が生まれたときに苦労をかけるかもしれない。だけどまだ見ぬ、いるかもわからない嫁や子供のために進む道は決められない。とにかく自分は勉強がしたくない。

「…学校はもう行きたくねえなあ。俺馬鹿かな」

「和希は馬鹿じゃない」

「弁護士先生に言われると煽られてる気になるな」

「そんなことはない」

「…大学行って、就職して、頑張るのがスタンダード?」

「終身雇用なんて昔の話しで就職したからって安心できない時代だ。職場が自分に合わない可能性もある。地盤が固まってる人間なんて意外と少ない。今の時代は丁度弱肉強食の狭間って感じだな」

「そんなもん?」

「そんなもんだ。だから難しく考えず和希がしたいことをしろ。どうせ安心できる未来なんてないのだから」

「ああ、離婚歴がある人が言うと重いな」

「円満離婚だ」

「はいはい」

適当に流したが、こういう相談をするとき人生経験の差をひしひしと感じる。
一生埋まらない歳の差。それにこの先何度苦しくなるのだろう。駆け足で大人になりたいがそんな方法はなくて、たくさんの経験の中で複雑な感情やその対処法を学ぶ。
大人になりたい。工藤と並んで歩いてもそれが当然と振る舞えるくらいに。
工藤が自分と同じ歳で同じ教室にいたらもっと別の付き合い方ができたのにと思うけど、同じ歳なら絶対こんな関係になってない。
グラスを傾ける姿を頬付をつきながら眺め、改めて不思議だなあと思う。
あのとき自分がふられていなかったら。工藤があの場所で飲んだくれていなかったら。
人の縁は本当に不思議だ。
この先どんな関係に落ち着くのかわからないが、少なくとも彼を好きになったことに後悔はしないと思う。

「腹も膨れたし麗子さんの散歩でも行くかな」

「私も行く。運動しないとすぐメタボになる」

腹を擦る様子を見て、また気にしていたのかと笑った。

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