13




胸の痛みごと吐き出すように吐息をついた。

「…わかった。俺だって愛人になりたいわけじゃねえし、しょうがねえよな」

ここが引き際だ。
これ以上妻帯者を困らせるわけにはいかない。工藤だけの問題ではなく、奥さんの人生も彼は背負っているのだから。

「愛人…」

工藤は顎に手を当てながらぽつりと呟いた。

「愛美とは離婚したが」

「は?」

目を大きくしてぐるりと首を工藤に向けた。

「元々そういう契約で結婚した。お互い好きな人ができたら愛人として囲うか離婚かと」

ぱちぱちと瞬きを繰り返す。だって愛美さんはうちの主人と言ったし、この部屋にも住んでいるではないか。

「君に振られたし、離婚はせずともいいかと思った。だが愛美はきちんと人を好きになれる女だ。私も誰かを好きになるという気持ちを知って契約結婚は彼女のためにならないと思った。だから本当に好きな人と結婚すればいいと愛美に言った」

愛美さんはわかったと頷き、けれど暫くは居候させてくれ、今デートを重ねている人と正式に交際したら出ていくと言ったらしい。

「今度は医者を狙っているらしい。堅物など私で懲りただろうに、変な女だ」

口ではそう言うが、工藤は珍しく目を細めて小さく笑った。
おかしな関係だと思っていたが、この二人には夫婦とも友人とも違う絆があるとわかった。あえて形容するなら戦友のような。
事情を理解し、自分があんなに悩んでいたのが馬鹿らしくなって息を吐いた。
今だってそうだ。妻の存在があるからこそ引こうと決めたのに。

「じゃあ、あんた今は独身か」

「そうだな」

ぎりぎりまで我慢して引っ張っていた糸が切れたように感じた。

「なら俺が引く理由はない。別につきあえなんて言わねえよ。俺が一方的に好きなだけ。それなら文句ねえだろ」

工藤の襟を掴んで至近距離で睥睨した。
数秒見詰め合い、彼は降参とでも言いたげに両手を挙げた。

「わかった、好きにしろ」

投げ捨てるように手を離し、もう後手に回るのはやめようと決めた。
ああすればよかった、こうすればよかった。そんな想像で苦しむのはもううんざりだ。

「…倫理的には大問題だな」

「問題なんてない。つきあってないし、あんたは高校生のガキに迫られてる可哀想な社会人。それでいい」

「しかし…」

「ああ、ごちゃごちゃうるせえ。じゃあ友だち。それならいいだろ」

「友だち…?こういう場合にも友人関係は成立するのか?友人は行動を制限させられないし、もしかしたら恋人をつくるかもしれない」

「あんたがそうしたいならそれでいい。俺もすっぱり諦める。でも俺が卒業するまであんたが俺のこと好きだったら、そのときはつきあってもらうからな」

「…まるで脅迫だな」

「ああそうですよ。でも付け入る隙を与えるあんたが悪い」

工藤は言葉にしないくせに瞳で、態度で、雰囲気で離したくないと語る。だから狡いと言ったのだ。こちらばかりに委ねて、一番大事な言葉を言わせて。
それが大人のぎりぎり譲歩できるラインなら、知った上で我慢のできないガキでいてやる。

「…俺はあんたと離れて一生分後悔した。だから今度は自分から離さない」

工藤のビー玉のような瞳の奥を覗くようにした。
彼はぐしゃりと自分の髪に指を指し込み難しい顔で唸った。

「…あまりそういうことを言わないでくれ。我慢できなくなりそうだ」

くすりと笑い、頭でっかちな大人には拙い正攻法が一番効くらしいと知る。
彼らがとっくの昔に捨ててきて、狡い対処法で誤魔化す環境に身を置いているからだ。
椎名も押しまくったと言っていたが、その選択は恐らく正しかった。物分りのいい振りで斜に構えても彼らの心にはなにも届かない。

「…今更だと笑うかもしれないが、君が卒業するまで一線を越えたくない。氷室さんと仕事を重ねて、彼の大事な息子さんに悪戯をしているような罪悪感で潰れそうになる」

「あ、そ。別にいいんじゃねえの。俺は遠慮しないけど」

「大人をからかってって楽しいか?」

「子どもを傀儡して楽しいか?」

挑発的な視線を向けると、工藤は軽く頭を振りながら溜め息を吐いた。

「冗談だよ。あんたらが安パイの関係性を望むのは理解できる。ちゃんとわかってるから」

工藤は社会人で、色恋なんかで自分の人生を犠牲にできない。
それこそ今更だが、高校生のガキに手を出したなんて知れたら職を失い、人権を失い、暗い井戸の底に突き落としてしまう。
きっと苦労して弁護士になったのだろうし、優秀だとも聞く。彼の人生を脅かす存在にはなりたくない。
床に降りた麗子さんの頭を撫で目を細めた。
本当は友人だろうが恋人だろうが名目はなんでもいい。
工藤の心が少しでも自分にあって、自分も工藤を好きでいられて、おまけに彼は独身で、手を伸ばせば触れる距離にいる。苦しかった毎日に比べればそれだけで十分だ。
ポケットから携帯を取り出して時間を確認した。まだぎりぎり電車が動いている。
立ち上がって鞄を拾うと工藤が首を傾げた。

「俺電車で帰るから」

「送ると言ったはずだが」

「いいよ。あんた今日疲れてるだろ」

「…こんな時間に一人で帰すのは心配だ。この前のニュースを見たか?男子高校生が通り魔に刺された事件」

「見たけど…」

「さすがの君でも不意打ちには勝てないだろう。だから送ると言いたいが、実際疲労も限界だ。だから今日は泊まってくれ」

意外な提案に頷きながらもいいのかと聞き直した。

「理事長の大事な生徒を家に泊める罪悪感はねえの?」

「…なにもしなければやましいことはない」

「まあそうだけど」

「これからは無断外泊などさせない。今日だけだ」

吐き捨てるように言った姿がおもしろくて笑った。
必死に言い訳を並べ、自欺して、そんなに辛いなら手放せばいいのに、簡単に捨てることもできない。
工藤も自分も揺れる気持ちを上手に扱えない。彼は自分より多くのことを知っている。でも恋愛に関しては赤子のようなもので、今まで知らなかった感情に戸惑い、爆発しそうなのを必死で堪えているのだ。

「じゃあ今日だけ泊まる」

工藤は心底安心したような表情を見せた。
風呂に向かったのでソファにごろんと横になり、腹に乗った麗子さんの小さな身体を掌で包むようにした。

「麗子さーん、お前の主人は融通が利かない頭でっかちだなー」

潤んだ瞳で見つめられ、勝手にそうかそうか、わかってくれるかと大きな耳に触れた。
一回り以上も歳が離れていて、同じ男で、冗談の一つも言えない堅物で、傍から見たらただのおっさん。
そうやって表面上をすくってばっさり切り捨てられるうちはよかった。
学校でも厄介者扱いされるような自分に手を差し伸べて、疑いをかけられても自分の言葉を信じてくれた。たったそれだけで好きになるには十分だった。
麗子さんを胸に抱き瞳を閉じた。
卒業まで半年以上ある。その間、彼が女性に出逢う機会はいくらでもあって、大人の恋愛を楽しめるチャンスもあるだろう。自分はなにも持ってないので、同じ土俵で戦えない。
そのときがきたら潔く身を引こう。
それは明日かもしれないし、明後日かもしれない。わからないから自分に与えられた時間を後悔を最小にして過ごすしかない。
心は後ろばかりを向こうとする。無理にでも前を向かせなければ。落ち込むのも大泣きするのもあとでいくらでもできる。今しかできないことをしよう。
自分以外のぬくもりに飢えていたのか、麗子さんの温かさにひどく安心した。
眠くなって、こんな風に力を抜いて眠るのはいつぶりだろうと考える。

「……和希?」

さらりと髪を払われ、起きていると口を開こうとしたが、もう限界で指先一つ動かせない。

「ベッドで眠らないと」

低い声に蜂蜜をかけたような囁きがとても懐かしい。
以前はこうやってしつこいくらい名前を呼んでくれたっけ。

「…しょうがない」

麗子さんが腹の上から去った気配の次には身体が浮遊した。

「まだまだ子どもだ」

くすりと笑われ、嬉しいような、悔しいような、マーブル模様の気持ちのまま彼の首に腕を回した。
丁寧に下ろされたベッドの上で枕に顔を突っ伏す。工藤はベッド脇に座り、もう一度さらりと髪を撫で立ち上がった。

「…工藤」

咄嗟に手を伸ばし、パジャマのズボンをきゅっと握った。

「なんだ」

「…好きだ」

言い終えると同時に意識が遠のき、気を失うように手を離した。

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