12



工藤の車が見えなくなり、部屋に戻って鬱陶しく肌に吸い付くシャツを脱ぎ捨てた。
頭から熱い湯を被り、意味もなくあー、と声を出す。
今更羞恥で死にそうだ。あんな風に必死に縋って、本当に馬鹿。
だけど格好つけて背伸びをしても工藤には届かないと思った。みっともなくてもいいから自分をぶつけないと、彼は伸ばした腕を振り解く。
もういい。どうせ最後だ。格好悪くても、クソガキと罵られても。自分はどうせなにも持っていない。
相手に詰め寄って、大人の事情も考えず自分を見失って、ただほしいと手を伸ばす様はさぞ滑稽だろう。
工藤は既婚者だからとか慮って我慢して、結局我慢もできていない。
浅倉は大人の事情など考えるなと言ったけれど、そんなの絶対間違ってる。子どもは子どもなりに気を遣わなければうんざりされるだけだ。
頭ではわかっているのに、感情はすぐに成長できず、ぐずぐずと願望ばかりを大きくさせる。
風呂から出て着替えを済ませてソファに座った。
いつの間にか雨の音は止んでおり、湿度の高い重苦しい空気だけを残している。
携帯を手に持ち時間を確認する。夜の八時。まだ工藤からの連絡はない。
なにを話そうとか、なにを聞こうとか、考えるのは止めた。どうせ彼と対面すれば用意した言葉など飛んでいくのだ。
携帯が鳴ったのはそれから一時間後で、駅のロータリーまで来てほしいというメールを読み、慌てて部屋を飛び出した。
全力で走り、工藤の車が見えた瞬間ほっと安堵した。
肩で息をしながら指を折り、窓をこんこんと叩いてから助手席に乗り込んだ。
工藤はシャツからネクタイを引き抜いた姿で、けれど夕方見たときとは違うデザインのものだった。

「…一回家帰ったのか?」

「いや。事務所に戻り報告だけ済ませてきた。泊りがけも多いから着替えは置いてあるんだ」

「…そっか。悪いな。疲れてるのに何回も往復させて」

「そんなことは気にしなくていい。何処かへ行くか。それともこのまま話すか」

「どっちでもいいけど…」

駅周辺も暗いので、外側から車内の様子は見えないだろう。
だが、工藤は何度か東城に出入りしているし、こんな夜更けに生徒と会ったことが知られたらまずいのではないか。
寮まで迎えに来ず、駅まで来させたのも誰かに見られる危険性を考慮したのではないか。
女じゃないし、そこまで深く追求されないだろうが、寮にも一応規則があって、それを破らせる行為は誉められたものではない。

「あんまり人が多いところで話すのは嫌だ」

「…なら私の家でもいいか。勿論帰りも送り届ける」

「でも、奥さんは…」

「愛美のことか?週末は必ず外泊するから今日もいないだろう」

相変わらず謎の多い関係性だが、それでも一応夫婦だ。奥さんがいない時間を狙って家に上がり込むなんて、いかにも間男で気が引ける。今更だけど。
他にどこかと考え、何処に行っても人目があるので、家しかないと結論に至り頷いた。
マンションに着くまで工藤は口を開かず、自分も黙って窓の外を眺めた。
退屈だった高速の景色も今日が最後。
乗り心地のいい車のシートもこれで最後。
工藤が運転する姿を見るのも最後。
最後尽くしで嫌になる。嫌になるほど悲しくなった。
マンションの扉を開けると、小さな爪がフローリングを駆ける音が聞こえた。

「麗子さん」

どうやら覚えていてくれたようで、前足を上げて空を切る姿に重苦しい胸が一瞬和み、抱き上げてリビングへ向かった。
懐かしい工藤の家の匂い、位置の変わらぬ家具、どれも同じようで、けれど節々に奥さんの気配を以前よりも濃く感じた。
例えばテーブルの上に放り投げられた口紅や、甘い香水の香り、柔らかな柔軟剤の匂い。
ずきんと胸が痛くなり、そんなの最初からわかっていたと奮い立たせる。
ソファに着くと、工藤は麗子さんの餌を用意してからペットボトルに入ったお茶を差し出した。短く礼を言い、膝に視線を固定させる。
工藤は別れ話をしたときと同じように隙間を空けて隣に座り、シャツの釦を数個開けた。

「…疲れてるだろうし、すぐ帰るから」

シャワーを浴び、十分に休んだ自分と違い、工藤は仕事を熟した挙句、自宅と寮まで往復している。本当は今すぐ風呂に入り眠りたいだろう。
だけど最後だからこの我儘を許してほしい。
ぐっと拳を作って真っ直ぐに工藤を見つめた。ここで逃げたら悔やみきれずに死ぬ。

「俺、あんな振り方して、面倒に巻き込んで、そんな俺が言えた義理じゃないのはわかってるけど…」

一旦言葉を止め、すうっと息を吸った。

「あんたが好きだ」

工藤は一瞬瞠目したように目を大きくし、困ったような顔をした。
言葉にせずともわかる。もう手遅れなのだと。

「…和希」

「なにも言わなくていい。わかってる」

握った拳はそのままに俯いた。ご飯を食べ終えた麗子さんが膝に乗せろとせがみ、顔を寄せ鼻先を舐めてくれる。苦笑して頭を撫でてやると満足気に小さな身体を預けてきた。

「俺が言いたかったのはそれだけ…」

そんな言葉なら、なぜ電話で言わなかった、車で話さなかった、そんな風に呆れられただろうか。
恋は不安ばかりを呼び寄せる。勝手に相手の頭の中を想像し、怖くなって殻に閉じこもる。
以前はこんな風じゃなかったのに。真っ直ぐ相手にぶつかって、常に心をオープンにしてきた。だから和希といると安心すると元カノたちは笑ったし、我慢も遠慮もしないから相手を振り回すことも多かった。
怯えた鼠のように隅で震えるなんてらしくない。初めて知る自分に戸惑い、脱力するように肩から力が抜けていった。

「…まだ電車動いてるし電車で帰るからさ」

ずるずると居座ると子どもな自分を全面に押し出して甘えたくなるだろう。
だからさっさと切り上げた方がいい。麗子さんを一撫でし、二撫でし、そうして繰り返す腕を工藤に握られた。

「和希、さっき私が言いたかったのは…」

工藤は車内で言い淀んだときと同じように言葉を区切り、苦渋の決断をするように眉を寄せた。

「なんだよその顔。別に無理しなくていいって」

努めて明るく笑った。これ以上彼が重荷を背負う必要はないのだ。
馬鹿な子どもが馬鹿みたいに恋をした。ただそれだけで、誰も悪くないし、責任を感じる必要もない。
それをわかってほしいと思うけど、工藤なら言わずとも理解してくれる。
だけど工藤はにこりともせず、ますます眉間の皺を深くした。

「…すまない。そんな顔をさせたかったわけじゃない」

謝罪され、意味がわからずぽかんとした。
またわけのわからぬ自責の念で苦しんでいるのか。こっちだって、そんな顔をさせるために告白したわけじゃないのに。

「工藤、俺は別に――」

「今日浅倉先生に言われた」

遮るような力強い声にぱっと顔を上げた。

「大人のふりばかりしてると、瞬きした瞬間に離れていくと」

意味がわからず首を捻った。

「私はとっくに振られているし、関係ないと思った。でも君を一目見たらもう、だめだった」

工藤はもう一度悪かったと謝罪し、ますます頭が混乱した。

「君の言葉がとても嬉しい。でも…」

「……一過性の熱が怖い?」

問うと、彼はゆっくりと頷いた。
浅倉の言葉を一つ一つ思い出す。大人は臆病で、子どもの情熱を怖がり、しんどいが重なると放り投げたくなる。

「…じゃあ、一過性の熱じゃなければいいのか。俺が卒業するまであんたを好きでいたら…」

工藤はますます困ったような顔をした。

「…君はまだ若い。環境も変わり、この先たくさんの人と出逢い、恋もするだろう。でも私はある程度環境が安定したおじさんだ。おじさんは一度心が傷つくと修復に何年もかかる」

「なんで傷つくの前提なんだよ」

「最初に最悪を予想しなければ立ち直れないからだ」

「…そんなの…」

「わかってくれとは言わない。こんなのただの逃げるための言い訳だ」

工藤が言わんとしていることはわかる。わかるけど理解はできない。
一度工藤を傷つけた自分が悪い。傷を修復する作業が余程辛かったのだろう。だからもう同じ想いはしたくないと蓋をする。
でもそんな仮定の想像で振られるなんて納得できない。

「…じゃあ待つよ。何年でも」

「和希、そうじゃないんだ」

「じゃあ他にどうしたらいいんだよ!方法があるなら教えてくれよ!」

思わず出た大声に麗子さんが驚いて膝から飛び降りた。
ごめんと頭を撫でるために腰を折ると、じんわりと目頭が熱くなった。

「…すまない。こんなことを言って。和希が悪いわけではない。私が悪いんだ」

「俺はあんたが好きで、あんたも俺を好きで、他になにがあんだよ。どんな理由が必要なんだよ。俺は、他のものじゃ換えられないと思った。あんたしかいないのに」

項垂れそうになって、意識して背筋を伸ばした。下を向くな。最後までしっかり前を向け。
自分があんな振り方しなければよかったのだ。散々傷つけて、もう一度信じてほしいなんて虫がいい。なのに理不尽な怒りで頭が痛くなる。

「…和希…」

工藤がこちらに手を伸ばし、肩に触れる寸前で拳を作った。
感情だけで動く動物じゃない。たくさん難しいことを考えて、理性を保って、正しい答えを導き出す。大人はそうやって自分の首を絞めている。
でも、そうせざるを得ないのも仕方がないと思う。子どもがほしいと大声で叫べるように、大人はほしいと胸の中で堰き止める。
だから仕方がない。自分たちは根本がずれているのだ。仕方がない、仕方がない。
納得させようとして、そんなものクソくらえとも思う。

「…あんたはこれを最後にしたいんだな」

きつく睨むと工藤の瞳が揺れた。
脱力してソファの背凭れに頭を乗せた。ぼんやりと高い天井を眺め、どうしたらいいのだろうと思う。
どうもこうもないのだけれど。
自分は好きだし、だけど工藤は既婚者だし、発展のしようがない。

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