11
混凝土の地面に視線を固定させていると、ポケットの中で携帯が震えた。
今は誰とも話したくなくて、無視を決めたがしつこく鳴るものだから観念して取り出した。画面はさほど見ずに通話をタップする。
「…はい」
自分でも驚くほど低い声が出た。
『…私だ』
たった一言で誰かわかり、俯いていた顔を上げた。
「…あー、久しぶり…でもないか…」
この前不自然に会議室で会ったばかりだ。なに言ってんだろ。工藤に関すること、すべて上手くいかない。
「…なんかあった?」
『…いや、そちらになにかあったのではないかと』
「別に。なにもないけど」
『屋上なんかにいるから心配になった』
ぽかんとして、次に乾いた笑いが口から出た。
「まさか自殺でもすると思った?」
『…いや、君に限ってそんなことはないと思うが…』
言い淀んでいる様子に口元だけで笑った。
工藤も浅倉もちゃんと大人だ。職業は関係なく、自分が手を伸ばせる範囲で困っている子どもがいたら、理由などなくとも手を差し伸べようとする。
自分は二人の目に憐れな迷い子と映っているのだろう。
立ち上がり、もう一度フェンスの金網に指を引っ掻けた。すると、もうとっくに帰ったはずの工藤が車に背を預けるようにしてこちらを見上げていた。
流れる風の音が電話の向こうからも聞こえる。
「…そんな勇気ねえから大丈夫」
笑ってみせたが表情など見えていない。
声は聞こえるし、姿も見えるけど手は届かない。この距離が自分たちにはお似合いだと思った。
『…そういえば、君は屋上が好きだと言っていたな。以前も……いや、なんでもない』
以前も屋上で工藤と会った。覚えている。あのときは工藤からの好意を受け取らず、鬱陶しいと放り投げては踏みつけた。
どうして時間は巻き戻らないのだろう。息を吐き出し、ならば、今この瞬間も遠くない未来に戻りたいと願う日がくるのだろうかと思った。
例えば完全に工藤との関係が途絶え、声を聞くこともできず、姿を見ることもできず、焦がれるしかなくなったとき、あの時何か言っていたら結果は変わっただろうか、なんて。
「…工藤」
思わず名前を呼んだ。
努力は一瞬、後悔は一生。椎名の声が頭の奥で響く。
『どうした』
「…俺…」
その瞬間頬にぽつりと雨粒が落ちてきた。一気に本降りになりそうな気配を感じ、ああ、そうかと納得した。天を見上げ、言葉を呑み込む。
「…なんでもない。濡れるから早く車乗れよ。じゃあな」
一方的に通話を終わらせ、屋上の扉を開けた。
階段を降りながら、今日も名前を呼んでくれなかったなあとぼんやり考える。
どうしてもタイミングが合わない人間というものはいて、工藤と自分もそれに当てはまる。一歩足を踏み出すと、何かが必ず邪魔をする。
以前は工藤の奥さんで、今回は天気。
きっと神様がやめておきなさいと言っているのだ。そうに違いない。どんなに惹かれていてもタイミング次第で結ばれない人は結構いるのだ。
言っても、言わなくとも結果は同じ。なら、少しだけ困らせて、爪痕を残してやろうと思った幼稚さが恥ずかしい。
昇降口を出て、屋根の下で雨のカーテンを眺める。寮まで走ってもかなり濡れそうだ。かといっていつまでもここにいるわけにもいかない。
帰宅部の生徒はほとんど下校しただろう。こんな時間まで残っている馬鹿は自分くらいだ。
翔に電話をかけて傘持って来いと言おうか。だから早く帰れと言ったのにと説教されるのは明白だ。やめよう。
腕を組み、仕方がないので走ろうかと思ったとき、隣の職員用の出入口から浅倉が出てきた。
「…また浅倉かよ」
「うんざりすんなよ」
「浅倉の顔見るのは授業だけで十分だわ」
「俺も同意見」
それは教師の発言としていかがなものか。
「こんな時間までどうした」
「…別に。ぶらぶらしてたら雨降ってきてどうすっかなあと思ってるだけ」
「…うーん、しょうがない。特別に先生が車で寮まで送ってやろう」
「マジ?」
「風邪ひかれても困るしな。駐車場まで相合傘だけど、まあ我慢しろや」
浅倉は紺色の傘をぱんと開き、柄をこちらに持たせた。
「…俺に持たせるんだ」
呆れたが、浅倉は当然だと威張った。
視界を塞ぐような大き目の傘と、土砂降りの雨が鬱陶しくて顔を俯かせた。
傘に当たる雨粒の音は大きく響き、少し歩いただけで制服がぐっしょり濡れ、もう傘の意味はない。
浅倉が車の鍵に付属したリモコンで開錠した音が聞こえる。
「車持ってくるからここで待ってろ」
浅倉はそう言い残し、車まで走っていった。
足元を見ると、勢いよく地面に打ち付けられた雨粒が跳ねて靴を濡らしている。
これは車で送ってもらっても、寮に入る頃にはずぶ濡れだ。天気予報の嘘つき。悪態をついて水溜りを足先でちょいちょいと遊ばせると後ろから肩を引かれ、バランスを崩しながら振り返った。
そこには濡れ鼠のような工藤がおり、肩で息をしながら眉間には数本皺を寄せていた。
「…あんた、まだいたのか」
「…君が来るのを待ってた」
「なんで…ていうか、風邪ひくから早く帰った方が…」
「話しの途中だっただろ」
掴んだ肩に力を込められ、後退りたくなった。
工藤は小さく舌打ちしながら雨粒のせいで視界が悪い眼鏡を外した。
「…俺の話しはもういいよ。なんでもないから」
咄嗟に視線を逸らした。勢いとシチュエーションが崩れると、簡単な言葉も口から出ないらしい。
「片桐ー…と、工藤先生?」
車の窓を開けた浅倉はハンドルを握りながら工藤にぺこりと頭を下げた。
「…じゃあ、俺行くから」
助手席のアウターハンドルに手をかけたが、今度は腕を掴まれた。
「私が送る」
「は?もういいって」
工藤の意味もない行動や言葉で右往左往させられるのが嫌で、無理に腕を振り払った。
「和希!」
久しぶりにその声で名前を呼ばれ咄嗟に振り返った。
「…あー、片桐、せっかくだから工藤先生に送ってもらったらどうだ?つっても二人ともすっかり濡れてるけど。工藤先生、お願いしてもいいですか」
「はい。申し訳ありません」
工藤はきっちりと浅倉に頭を下げ、浅倉も傘はあとでいいからと言い残して車を発進させた。
「とりあえず車に乗ろう」
「いいよ…こんなずぶ濡れじゃあんたの車汚すし、もうここまで濡れたら歩いて帰るから」
「和希…」
聞き分けの悪い子どもに困ったような声色。
冷たくあしらったり、心配してみたり、こちらに手を伸ばしてみたり、なんだってんだ。
大人はなにを考えているかわからない。
一貫してそう思っていた。でも今ほど工藤がわからないと思ったことはない。
もうこれ以上心をぐしゃぐしゃにするのはやめてほしい。
たった一言、和希、と呼ばれただけで胸が痛い。細い針が心臓に刺さってじくじく痛む。
「頼む。風邪をひいたら大変だ」
そういうあんたこそ、と返すと、それなら早く乗ってくれと半ば強引に車に乗せられた。
滝のように雨が流れるフロントガラスを見ていると、ベージュに黒い刺繍をあしらった女性物のタオル地のハンカチを差し出された。
「…いいよ。俺は大して濡れてないし寮もすぐだから、あんたが使えよ」
恐らく、奥さんの物だろう。
そんな物を差し出す工藤のデリカシーのなさに苛立ち、自分が腹を立てるのはお門違いだと思い直す。
工藤はエンジンをかけ、ハンドルに片手を置いたまま、アクセルを踏む気配はない。
「……愛美に聞いた。この前うちのマンションで君に会ったと。余程困ったことがあるのだろうと思った。浅倉という教師に探りを入れたがはぐらかされるばかりで…」
工藤はすっかり濡れた髪を苛立った様子でかき上げて目を細めた。
「この前会議室で会ったときも随分元気がないように見えた。なにかあったのだろう。教師にも相談できないようなことが」
低く、落ち着いている工藤の声が好きだった。じんわりと耳の奥で響き、脳に直接語りかけるような不思議な声だと思っていた。
なのに今は聞きたくなくて項垂れた。
見当違いもいいとこだ。子どもの自分を憐れんで、正しい大人であろうとする工藤の姿勢に泣きたくなる。
「……あんた、本当にいい人だね。正しくて、優しくて、狡い」
違う。こんな風に八つ当たりしたかったんじゃない。
工藤は正しい。高校生のガキが迷っていたら気に掛ける大人の優しさと余裕。それができる人は多くない。だけどもう同情や偽善で差し伸べられた手を握れそうにない。
自分から助けを求めたくせに、今度はそれをいらないと言って。行為は同じなのに、それに伴う感情が自分の理想と違うからと突っ撥ねて。
ああ、また自分がいかに子どもか思い知らされた。
「…大丈夫。なにもない」
鬱陶しい自分を振り払うように顔を上げた。
「気に掛けてくれてありがとうな。もう、大丈夫だから…」
だから早く帰ろうと促したが、工藤はこちらを見たままうんともすんとも言わない。
「…工藤?」
工藤は小さく息を吐き、狡いか…と呟いた。
「実は…」
工藤はその先を言うのを躊躇うように口を閉じた。暫く待ったが続きを話す気配はない。
「…なに」
「…いや、すまない。のんびり話している暇はなかったな。早く着替えないと風邪をひく」
シフトレバーを操作し、アクセルを踏んだ姿に急に不安になった。
万引きの冤罪から助けてくれたときのように、工藤の雰囲気が硬く閉じこもるようなそれに変わったからだ。
きっとこれが最後だ。もう二度と工藤は車に自分を乗せるような真似はしない。
寮の門まではすぐに着き、工藤がブレーキを踏む。不安は最高潮に達し、その腕をしっかり掴んだ。
「帰りたくない」
「…どうした?」
「帰りたくない!どうせこれが最後なんだろ!」
自分でもなにを言っているのかわからない。でもこの扉を開けたら死ぬほど後悔すると知っている。だってあの夜自分は泣きたいくらい後悔した。突っ撥ねられても関係ないともっと縋ればよかった。自分の気持ちを吐き出せばよかった。次があるなんて怠慢し、次などなかったと愕然とした。だからきっと、今回も次はない。
タイミングが合わないなら無理矢理合わせてやる。掛け違えた釦は最後まで中途半端なままで、でもそんなのどうでもいい。掛け違えたままで構わないから、ただこの腕を離したくない。
「最後にするつもりだろ。もう二度と俺の電話にも出ない」
否定しない工藤に苛立ち力を込めた。
「…帰らない」
お菓子を強請る子どものようにそれだけを呟く。
暫くして、工藤は長い溜め息を吐いた。
呆れられただろう。
浅倉も言っていた。好きと言った次の日には嫌いと言う一過性の熱が怖いと。
きっと工藤もそう思っている。なにもないと言ってみたり、帰りたくないと言ってみたり、定まらない心に振り回されて考える前に行動する幼稚さが怖いと。
「…風呂に入って着替えなければ風邪をひく」
「そんなの別にいい」
「よくはないだろ」
「いい!」
「和希!」
怒鳴られはっと顔を上げた。
眉間の皺を深くした表情を見て、どれだけ馬鹿なことを口走ったかを知る。
でもこれでは以前と同じだ。ここで引いたら次はないのだから。
「…本当は言いたいことも聞きたいこともたくさんある。だから最後に子どもの我儘、聞いてくれよ…」
今なら椎名の言葉の意味がわかる。椎名は病気を利用したと自嘲したが、自分は子どもという立場を利用した。
そうやって、相手の弱味につけ込まなければ大人には相手にされない。
もう情けないとか、男らしくないとか、そんなものはどうでもいい。地面に額を擦り付けろというならやってやる。
「…頼むから。これが最後でいいから」
唇を噛み締めた。
頼む、頼む。心の中で繰り返すと、工藤が小さくわかったと言った。
「ただし、今すぐ部屋に戻って風呂に入ること。また夜に迎えに来るからそのとき話そう」
「…本当にまた来るか?」
「本当だ」
「でも…」
「和希」
握っていた手を優しく解され、工藤は目線を合わせてしっかりと頷いた。
また連絡すると言われ、最後まで疑いながらも車を出た。
浅倉に借りた傘を広げ、走り去っていく車を見送る。
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