10




浅倉にキャラメルを貰った日から、ポケットの中に甘い物を入れておくのが習慣になった。
意味もなく錠菓を口に放り込み、鬱蒼とする心を落ち着かせる。
窓の外の空はガラスをはめたような青空で、自分とミスマッチすぎて一層心を沈ませる。
進路について母親と電話で話したが、大学でも専門学校でも好きな道を選べばいいと優しく背中を押され尚更落ち込んだ。夢とか目標がないから悩んでいるのに、そういうものはあって当然という前提で会話を進められる。
夢ってどうやって見つけるんだっけ。幼い頃はテレビで活躍するサッカー選手を見ればそれになりたいと思い、迷子になって警察官に助けられれば警察になりたいと思った。移り気ながら、自分が憧れたものに対して素直に感動できた。
今は自分の力量を理解し、サッカー選手なんて十回くらい転生しないと無理と諦め、警察官は素行不良の自分がなれるわけがないと決めつけ、なら自分にはなにが残るか考え、なにもないことに愕然とする。
進路指導室にずらりと並んだ職業に関する本をぺらぺらと眺め、溜め息を吐く。
十八でこの先の生き方を決めろなんて無謀ではないか。八十で死ぬとして、四分の一も生きていないのに。
ぶつぶつ文句を言ったが、嘆いても世の中の仕組みが変わるわけでもなし。
本を元の場所に戻し、帰ろうと扉を開けると向こう側に浅倉が立っていた。

「片桐君、いつもタイミングいいね」

またなにか面倒を押し付けられるのではないか。不穏が気配を察知して思い切り顔を顰める。逃げようとする腕を掴まれ、室内に連行された。
諦めて窓に肩を預け、小さく欠伸をする。浅倉は持っていた本を棚に戻しながら口を開いた。

「…お前、工藤先生と知り合いだったんだな」

瞠目し、窓の外に移そうとしていた視線を浅倉に戻す。
浅倉は戻した物とは別の本を開いてぱらぱらページを捲っている。

「……まあ…」

適当な言い訳が思い浮かばず、短く返事をした。

「先生に聞いてびっくりしたぞ」

肩を強張らせた。工藤と自分の関係がばれたのだろうか。あの野郎、浅倉になにを言った。
こういうのはどちらが悪いというわけではないが、世間様には工藤が一方的に糾弾されるだろう。自分だって加害者なのに、まるで被害者のように扱われて。
どうしよう。口止めしなきゃ。

「あさく――」

「万引きの冤罪にあったんだって?」

「あ、ああ…」

そっちか。
煩かった心臓がゆっくりと速度を落としていく。
いくら工藤がボケているといっても、わざわざ自分から罪を吹聴したりはしないと、冷静に考えればわかるのに、後ろめたさから間違った答えに辿り着く。

「なんで俺らに言わなかった?」

浅倉は叱るような視線を寄越した。

「…別に、終わったことだし」

「それでも、そんな大事になっていたなら知らせてほしかった。今後の人生を左右することだし、学校側も問題は把握しておきたい」

言ったところで胡乱な目を向けられるだけだ。口では大変だったなとか、綺麗事を並べても、本当はやったんじゃないの?そんな懐疑的な視線で心を刺される。
自分の素行を振り返れば当然の結果。なのに悔しさで仕舞には教師をぶん殴りそうだ。
サッカー部の一年が校庭でランニングしているのを眺めながらふん、と鼻で笑うと浅倉は溜め息を吐いた。

「…工藤先生心配してたぞ。大事な時期に傷つけられて、落ち込んでいるかもしれないから気に掛けてやってくれって」

一瞬呼吸を忘れた。
胃の辺りが誰かに鷲掴みにされたようにきしきし鳴って、込み上げてくる感情を抑え込むのに苦労する。

「…ああ、そう」

震えそうになる声を絞り出した。
後頭部に浅倉の視線を感じる。なにか言いたげな雰囲気は伝わったが、これ以上なにも聞きたくなくてそちらは見なかった。

「……工藤先生さあ、法律の勉強会で来てたんだ。生徒に関することに適当じゃ問題になるから、これからは職員もしっかり勉強してほしいって理事長が設けた。本当は工藤先生の事務所の中でそういうのに強い別の先生が来る予定だったんだけど、工藤先生が志願して変わってもらったらしいぞ。企業弁護士なのに」

胸がざわついてポケットに手を伸ばした。小さな飴を口に放り込み奥歯で噛み砕く。

「…まったく、大人ってのは臆病で嫌になるねえ」

ぱん、と本を閉じながら浅倉が言う。

「手前じゃ動けないくせに影から動向を窺って、きっかけをガキに委ねて」

「…なにが言いたいんだよ」

「別にー。俺も反省しなきゃなーって思っただけ」

浅倉は目的の本が見付かったようで、それでとんとんと自分の肩を叩くようにしながら勉強頑張れよと言い残して出て行った。
遠くのグラウンドからは相変わらずサッカー部の掛け声が耳に入っているのに、それは自分の身体を次々と通り抜けていく。
ぼんやりとして、もう一度ポケットに手を突っ込んだ。手はなにも掴むことができず、さっきのが最後の一つだったと知る。
いつもこうだ。なにも考えないからなくしてから後悔する。
菓子はまた補充できるけど、工藤は世界に一人しかいないので補充できない。
いよいよ工藤がなにを考えているのかわからなくなったが、もう疲れてしまって何故と思うのもやめた。
なのに心の端っこがそわそわと落ち着かない。
冷酷に徹しきれず、一応の義理で心配をしてくれたのだろうか。
工藤の何気ない言葉が大きな悩みとなって返ってくる。
なんの気なしに言っただけかもしれないのに、すべてに理由をほしがるから子どもなのだ。さらりと受け流して笑えばもっと楽になれるのに。
しんどい。
見えない首輪で締め付けられているように、呼吸をするのが苦しくなる。
頭も心も許容範囲をとっくに超えていて、ぼん、と壊れてしまいそうだ。
いっそ壊れた方がいいのかもしれない。投げやりになってもう一度グラウンドに視線を戻した。


屋上のフェンスに指を絡めた。
来客用の駐車場に工藤の車が止まっているのをぼんやり眺める。
廊下で先生が勉強会について話していたのを聞き、浅倉に捕まって工藤と顔を合わせぬよう屋上へ避難したのだ。
部屋に戻ればいいのに、せめて後姿だけでも見たいと願う姑息な心にうんざりした。
何度目かの溜め息を吐いたとき、重く、錆びた扉がきいっと嫌な音を立てて開いた。

「片桐君」

椎名の声に振り返る。彼は小さな紙袋をこちらに差し出した。

「翔から届けてほしいって頼まれて」

「…ああ、サンキュ」

中身を確認し、翔は?と聞いた。

「翔委員会なんだって。忘れてたらしくて、これを和希に、屋上にいるから、って騒ぎながら走ってった」

「そっか。悪かったな」

「ううん」

椎名は隣で同じようにフェンスに指を絡めて初めて屋上に来たと呟いた。

「初めて?」

「うん。だってここ、入っちゃだめなんでしょ?」

「そうだっけ?」

「たぶん」

くすりと笑う横顔は、初夏だというのに青白い。異国の血のせいではなく、彼の体調のせいかもしれない。

「…最近身体、どうだ?」

「すこぶる良好です」

言葉とは裏腹に、触れたら消えてしまいそうで怖くなる。
透き通る青空と強い日差しを受けても、彼の姿はどこか浮世離れしていて、ホログラフィーのような不安定さに心がざわつく。

「あ、その目は信じてないね?」

「…そういうわけじゃねえけど…」

「保健室にも滅多に行かないし、休んでないでしょ?マラソンはまだちょっと苦手だけど…」

「そうだな」

高杉と二人並んでへろへろ走っている姿を思い出して笑みが浮かんだ。
会話が途切れ、咄嗟に年上の彼女と上手くいってる?と聞いた。椎名には無神経な質問かもしれないと気付いたが、彼は然程気にした様子もなく、微笑だけで返した。その顔がとても綺麗で、だらしなく口を開け見惚れた。
病は気からというが、椎名の調子がいいのは彼女が支えてくれているからだろうか。
儚さと危うさと、すべてを諦めたような目をする椎名をしっかり理解し、前を向かせているのだろう。誰かは知らないが、ありがとうと心の中で感謝する。

「…なあ、聞いていい?」

「なに?」

「なにがきっかけで彼女とつきあったの?」

不躾だし、然程親しくない間柄でこういうプライベートな質問はいかがなものか。
でも知りたかった。そうすれば自分がどこで間違ったのかわかる気がして。
椎名は驚いたようにこちらを見てから、腕を組んでうーんと悩み出した。

「…きっかけかあ…僕がしつこく迫ったからかな?」

「椎名が?意外だな」

どちらかというと、綺麗なお姉さんにその気にさせられたのだと思っていた。
線が細くとも椎名も男だもんなあと妙に納得する。

「全然相手にされなかったけどね。頑張ったらどうにかなったよ」

はは、と笑う顔が先ほどとは違い逞しく見えた。

「すげえな。よくへこたれなかったな」

「身体がこんな調子だし、明日死ぬかもしれないから後悔しないようにと思って。清水の舞台から飛び降りる覚悟というか…」

「死ぬとか怖いこと言うなよ」

椎名は苦笑し、だから言えたけど、そうじゃなかったらとても告白できなかったと続けた。

「あのときの自分は我ながらどうかしてたと思うね」

うんうんと頷く様子を見てくっと笑った。

「でも、それで結果つきあえたならいいじゃん。椎名が頑張ったから相手も好きになったんだろうしさ」

「だといいけどね。逆を言うと身体がこんなだからこそ同情でつきあってくれたのかも。誰だって明日死ぬかもしれない人間の望みは叶えてやろうと思うでしょ」

すいと遠くに視線をやった姿を見て、恋人同士になっても悩むこともあるのだろうと察した。
自分も工藤と接して大人を相手にする苦労が身に染みてわかった。近い関係を築こうとすればするほど、ドツボにはまっていく。
自分がいかに子どもかと自覚するはめになって、背伸びして、失敗して、さらに子どもっぽい醜態を晒す。それの繰り返しだ。

「大丈夫。椎名はイケメンだし、大人っぽいし、俺が女なら惚れてる」

ばしっと背中を叩くと、椎名は顔をくしゃっとしながら笑った。

「ありがとう」

健康体で、明日なんて当たり前にくるものと思っていた自分と椎名では、時間の流れの感じ方が違うのだろう。
椎名のように考えられたら、ぐずぐず悩んでいる時間すら勿体無いと思えたのに。

「じゃあ、僕そろそろ行くね」

フェンスから指を放した椎名に軽く手を振って駐車場へ視線を戻した。

「片桐君」

扉を開けながら椎名が叫んだ。

「努力は一瞬、後悔は一生、だよー」

じゃあね、と椎名は扉の向こうに消えたが、しばらくその場から視線を逸らせなかった。
後悔は一生。口の中で復唱して、自嘲気味に笑う。
その通りだ。人間はやらなかった後悔に支配されて生きるという。
結局物事にはやるか、やらないかの二択しかなく、理由や言い訳は後からいくらでも付け足せる。お金が、時間が、社会的立場が。
そうして正しいと思う方を選択したはずなのに、決まってあのときこうしていればと後悔する。
工藤は既婚者。だから自分がこれ以上彼と接点を持つのは不毛。
頭で正しい答えを導いて、それを納得させようとしても別の部分が不満だと訴える。
人間の脳味噌が大きくなりすぎたのは進化の過程の最大の失敗だ。
特に自分のように馬鹿な人間が小難しく考えると、消化不良で自棄になる。
広い空に視線を移す。さっきまであんなに晴れていたのに、今は西の方から重く厚い鈍色の雲が暗闇を連れてきた。
さっさと帰らないと雨に降られるかもしれない。
正しい判断は正しい感情を連れてきてこない。わかっているのに動けない。
頭か感情、どちらか一つだけならよかったのに。相反するそれらを一つに纏める作業はとても疲れる。
空を見上げながら何度目かの溜め息を吐いたとき、下の方から和希、と呼ぶ声が響いた。
そちらに視線を移すと、翔が校門への途中でこちらを振り返り、ぶんぶんと手を振っていた。隣には椎名と、そして少し先には工藤の姿があった。

「和希ー!雨降りそうだよー!」

苦笑しながら右手を挙げてそれに応える。
大声で叫ぶものだから工藤もこちらを振り返り、一瞬視線が絡まった気がした。
気がしただけで実際は判断できる距離ではない。自分に都合の良いように考えているのだろう。広いコンサート会場でアーティストと目が合ったと思うのと同じ心理だ。
工藤は何事もなかったように踵を返し車へ乗り込んだ。
下校していく椎名と翔の後姿、車へ乗り込む工藤の後姿、みんなを見送って、フェンスに背中を預け、ずるずるとしゃがみ込んだ。
こちらに気付いたはずなのに、なんのリアクションもないことに落ち込んだ。
落ち込むということは期待をしていたということ。
期待の裏側はいつだって落胆だ。歓喜だったことは一度もない。

「あーあ…」

膝に肘を乗せ、片手で頭を抱えるようにした。


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