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すべての授業を終えさあ帰ろうと鞄を握った瞬間、浅倉の声が教室内に響いた。

「片桐ー」

視線を移すと浅倉がちょいちょいと手招きしている。
そういえば、椎名に今日の放課後面談できるって、と伝言されていた。面倒くさ。やっぱりなしと言って帰ろうかとも思ったが、翔や、あまり親しくない椎名にまで気を遣わせたのだし、ここは大人しく面談へ行くべきだろう。こういうのも子どもの義務の内に入るのだろうか。
鞄を握り浅倉の元へ行くと、ついて来いと歩き出した。進路指導室とか、生徒指導室へ行くのかと思いきや、ついた先は英語準備室だった。
室内は古いデスクの上に紙や教科書や辞書が散在しており埃っぽい。
浅倉は端にあったパイプ椅子を引っ張りだし、座れと言った。大人しく座ると手に針なしステープラーを握らせられた。

「は?」

「手伝えよ」

テスクの上にばさっと紙の束が置かれ、端から一部ずつとめていけと指示された。

「なんで?俺、なにしにここ来たんだっけ?」

「何かしながらの方が話し易いだろ。俺も仕事が片付いて一石二鳥」

「…浅倉はそういう先生だったよ…」

「なんだとこら」

大人しく机に手を伸ばし、紙の束を一部ずつとりぱちんぱちんと止めていく。やっぱり帰ればよかった。

「…で、俺になんの相談だ。進路でもないって椎名に聞いたけど」

浅倉は赤ペンを握り、小テストの採点をはじめた。

「あー、うん…。いや、俺は相談したかったわけじゃないんだけど、翔が無理矢理…」

「…いい機会だし話せる範囲で言ってみたらどうだ。友だちには言えないこともあるだろ」

「…うーん。浅倉は高校のとき友だちに相談できない悩みとかどうしてた」

問うと、浅倉は手をぴたりと止め、なにもない壁の方へ視線をやった。

「…どうしてたっけ…」

間抜けな答えにわざとらしい溜め息を吐いた。こいつに期待した自分が馬鹿だった。

「だよな。おっさんは高校の頃なんて覚えてねえよな」

「馬鹿言うな。俺はまだ三十一だぞ」

「おっさんじゃん。加齢臭を気にするお年頃じゃん」

「やめろよマジで怖いんだから」

浅倉は項垂れるようにしたので、ぽんぽんと肩を叩いて励ましてやった。立ち場が逆では。

「…まあ、言えないことは誰にも言わずめそめそ一人で悩んでたような気がするけど」

「へえー。進路のこと?」

「いや、色恋の方」

「うわきも」

「きもいとか言うな!俺にもそういう時代があったんだよ!」

そんなものは想像できない。
周りの大人たちにも自分たちと同じように子どもの時代があり、色んな経験をしたからこそ今があるとわかっているが、悩んだり、涙したり、そういう弱い部分はないように思っていた。

「…じゃあ今は?大人だから悩んだりしない?」

「ばーか。毎日毎日色んな悩みを抱えて生きてるよ」

「ふうん」

「大人になって酒に逃げるって手段ができたのは幸いだった」

「アル中になるからほどほどにな?」

「ああ。ってなんで生徒に諭されてんの。しかも片桐に」

しかもとはなんだ。失礼だ。

「じゃあ大人も間違ったり、苦しんだりするんだ」

「当たり前だろ。いくつになっても間違うし苦しむの。大人も結構しんどいぞ」

「…しんどい…」

工藤と同年代の浅倉の口から弱音が出ると、それじゃあ彼もそんな気持ちで自分と過ごしていたのかもとか、自分が女性と歩いているのを目撃したときショックだったのかもとか、浅倉と工藤は違う人間なのに同じように当てはめて考えた。
だけどやはり工藤の気持ちはわからない。関係を絶つと言ったのは自分で、彼はあっさり引き、さらにはそんなクソガキを庇った。
自分から別れを切り出すべきだった。高校生相手に辛い思いをさせてしまった。ずるい大人で申し訳ない。彼はそんな風に別れる間際までこちらの気持ちを軽くしようと必死だった。
その後面倒事に巻き込んで、クソガキに関わるのはやめようと決めたのかもしれない。でも彼の冷酷な声はそれだけでは済まない気がして。腹に溜め込んでいるくせに表に出さずに無理に消化しようとしている。それなら面と向かって文句でも罵倒でもしてもらった方がましだ。後腐れなく、というのは意外にも難しいらしい。
やはり大人の思考回路はわからない。
ぱちん、ぱちん。単純作業を続けていると心の奥深くまで潜ってしまう。早く忘れたいのに。

「…大人ってなんだろうな」

ぽつりと言うと浅倉は頬杖をついたままこちらをちらりと見た。

「…さあな」

「おい、大人代表としてそこはちゃんと答えろよ」

浅倉はさらさらとペンを走らせ、そんなの自分が知りたいと言った。
浅倉は教師で、きちんとした大人で、自分が知らないことをたくさん知っていて。なのに迷える子どものように頼りなく瞳を揺らした。

「大人になろうと思ってなったわけじゃないしな。子どもじゃいられなくなっただけだ」

「…よく、わかんねえ」

「大人ってのは、嘘をつくのがうまいだけで中身は結構ガキなんだよ。お前もこの歳になったときわかるだろうけど、ああ、俺大人だわって思うのなんて酒が買えることと、煙草が吸えることと、お姉ちゃんのいる店に入るときだけ」

かくんと肩から力が抜けた。それが悩める生徒に言う言葉か。本当に浅倉は碌でもない。翔は相談するには適任だと言ったけれど、まったくそうは思えない。
さきほどから口から出るのは嘘か本当かわからない適当な冗談ばかりだ。
こんな教師に真面目に相談しようと思った自分が馬鹿なのか。それでも聞いてみたかった。工藤に近い大人の男の心情というものを。

「…さっきから抽象的な話ししてるけど、本当はなにが聞きたいんだ?」

視線はプリントに置いたまま言われ、僅かに口籠った。
浅倉に聞く内容ではない。だけど他に聞ける人間もいない。どうしたらいいのだろう。

「この部屋で話したことは忘れる。勿論誰にも他言はしない」

とん、と背中を押すように言われ、口を開いた。

「…浅倉さあ、十コ下とか好きになったことある?」

浅倉は走らせていたペンの動きをぴたりと止め、上目遣いで殺意を持ってこちらを睨んだ。一瞬の出来事だったがそういう勘は鋭い方なので間違いない。ぽかんと口を開けると鼻で笑われた。

「…どうだったかな。あったかもしれないし、なかったかもしれない」

「真面目に聞いてんだけど?」

「真面目に答えてますけど?で、それがなに。まさかお前八歳の子好きになったの?それはまずいでしょー。精神医学的にペドフィリアに分類されちゃうよ?」

「違えよ!」

「ああそう。安心した」

のらりくらりとはぐらかされている気がする。掴み所がないのでムキになるほど自分が馬鹿に思える。
これでは埒が明かない気がして、話したことは忘れてくれと前置きをしてから掻い摘んで経緯を話した。年上につきあってほしいと言われていたこと、最悪な形で振ったのに自分を庇ったこと、その後助けられ、礼を言いたいのに拒絶する態度をとられること。相手の性別が男だというのは伏せたけれど。

「ほーん。お前意外とモテんのな」

「意外は余計だ」

「なるほどねえ…それで大人ってなに考えてるかわからない、か」

「まあ…」

素直に頷くと、浅倉は小馬鹿にしたように笑った。むっとして顔を上げると、彼は目を細め、苦い顔をしていた。

「こっちからすりゃ今時のガキの考えてることさっぱりわかんねえけどな。怖いよ、お前ら」

「…怖い?」

「ああ。好きって言った次の日には嫌いとか言うだろ?経過をすっとばして結論だけ求めたり、その逆もあったり。そういう一過性の熱が怖い」

俺に向けての言葉というより、他に意図している人物がいる気がした。

「たぶん、その人も怖いんだと思うぞ」

「大人なのに?」

「大人だから怖いの。俺らからするとお前らは未確認生物と同じようなものだし。生徒と毎日接している俺ですら思うんだ。高校生に接する機会がない奴はもっとわかんねえだろうよ」

そうだろうか。ガキなんて単純な喜怒哀楽で生きているし、赤ん坊より扱いやすいと思う。それは自分がガキだから。工藤は工藤で今の自分のように悩んだりしたのだろうか。

「大人の考えなんて無視しとけ。ガキは自己中に行動したり、素直に言葉にしていいんだよ。それを上手に隠したり、まとめたり、痛みを軽くするのが大人の仕事」

「でもそれってただ甘えてるだけじゃん…」

「いいんだよお前らはそれで。急に大人になれるわけでもないし、身の丈に合わない無理をする必要はない。悪かったと思うなら、お前が大人になったとき子どもの痛みを肩代わりしてやればいい」

「…そんなのフェアじゃない」

「最初からフェアじゃないの。理不尽だと思うだろうがな、俺らはそういうのも納得して呑み込んでる。そりゃ、しんどいが重なるともうどうでもいいやって思ったりするけど」

「じゃあ俺はどうでもいいやって思われたパターンか」

「さあな」

浅倉は採点が終わったようで、プリントをとんとんと整えてから伸びをした。

「あまり周りの意見に惑わされるなよ。俺とその人は違うし、最後はお前が決めることだ」

「…そう、だけど」

「手前が納得する方を選べ。誰のせいにもするな。お前の責任で行動しろ。いい加減にしろってびんたされたら引けばいいんじゃねえの?」

そこまでくると手遅れ以上の悪道に足を突っ込んでいる気がするが、結局それしかないらしい。もう自分にできることはないと言い聞かせてきたけど、納得できない気持ちが日に日に膨れて。それならどう転ぼうが行動あるのみなのだろう。
自分はただ工藤に正直な気持ちを言ってほしい。むかついたとか、ふざけんなとか、大人をからかうなとか。
大人と子ども。フェアでいようとすることが間違っている。でも同じ男として工藤ばかりが泥を被っている現状が辛い。

「…浅倉、この話しマジで忘れろよ」

「わーかってるよ。相手の社会的立場もあるしな…」

こくりと頷く。さすが大人なだけあってこちらが危惧している問題は浅倉も理解してくれる。

「俺も教師じゃなくてそこら辺の適当な大人として助言したし。教師として言わせてもらえば、法に触れそうな大人とは今すぐ縁を切りなさい。だな」

もう遅い。覚えていないとはいえ、たぶん自分は工藤と一度寝た。

「安心しろ。生徒のプライベートまで管理しようとは思わねえし、俺も人様に説教できる身分でもないしな…」

はは、と死んだ魚のような目で笑ったので、自分より浅倉の方が病んでいるのではなかと思った。

「んじゃ、そろそろ帰るか。仕事も終わったしな」

頷き、まとめた資料を浅倉に手渡した。
廊下に出て、きっちりと鍵をかける。職員室がある階まで共に下り、浅倉が最後にぽんと背中を叩いた。

「勉強に支障をきたすくらい悩んだときはまた声かけろ」

「…おう。なんていうか、助かった…」

「お前を助けるのが俺の仕事。あ、あと、進路な。ちゃんと先生と話し合えよ。胃が痛いって泣きそうになってたぞ」

「あー、はいはい」

くるりと背中を向けると、寄り道しないで帰れよと叫ばれた。最後までうるさい。


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