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一時間後、バックルームの扉がこんこんとノックされた。
来た。とても顔を上げられず、握った拳を見詰める。
「遅くなって申し訳ありません」
久しぶりに聞いた声に申し訳なさと情けなさでぎゅっと目を瞑った。
「…和希」
呼ばれて恐る恐る顔を上げた。
いつものようにぱりっとしたスーツ姿の工藤が射抜くような瞳でこちらを見ている。
責められているわけじゃないのに怖くなってまた俯いた。
結局、自分が店側に教えたのは工藤の携帯番号だった。他に選択肢がなかった。
親もだめ、学校もだめ、警察は一番だめ。保護者と言われて浮かんだのは工藤一人だった。
「どうぞ、おかけ下さい」
勧められ、工藤が隣に腰を下ろす。
「電話でお話ししましたが――」
「失礼、その前に私の名刺を」
工藤は胸ポケットから名刺入れを取り出し、手慣れた様子で店長に名刺を渡した。
それを眺めた店長は急に畏まりながら慌てた様子で愛想笑いを始めた。
「ああ、弁護士さんでいらっしゃいましたか。失礼ですがどのようなご関係で…」
「保護者です」
きっぱりと工藤が言い切ったので、店長が抱える疑問はそれ以上追及できずに終わった。本当は親にしては歳が若いし、兄弟にしては似ていないし、本当に保護者なのかと聞きたかったのだろう。胡散臭そうな視線で交互に見られた。
「…そうですか。まあ、この子の鞄からレジを通していないうちの商品が出てきたものですからね」
自分を尋問していたときは偉そうだったのに、工藤相手には下手になってぺこぺこと恐縮しながら話し出した。
心の中で舌打ちをする。相手が大人というだけでこんなに態度が違うのか。未成年というだけでなにも信じてもらえないのか。
「和希」
強い口調で呼ばれて顔を上げた。
「確認するが、君がやったのか」
何秒か見詰め合い、首を左右に振った。信じてもらえなかったらどうしよう。不安になったが否定した。
「そうか」
工藤はほっと安堵するように息を吐き前を向いた。
信じてほしいと願ったが、あまりにもあっさり引かれたのでこちらが狼狽した。
「いや、そうかじゃ終われませんよ。実際商品が出てきておりますから」
「この子が鞄に入れたところを見たのでしょうか」
「その子の友人が入れているところを見ました。防犯カメラにも映っているはずです」
後ろにいた店員が言う。
「友人?」
「ぐるでやったわけじゃない!本当に知らないし、あいつとはたまたまコンビニの前で会って…」
さっき仲直りをしたばかりで、そんな悪巧みの相談はしていない。
そんな事情は店には無関係で、いくら話しても無駄だとわかっている。章吾本人が正直に話さない限り。
「この子本人が入れたという証拠はないわけですね」
工藤が確認するように聞くと、後ろに立っていた男はそれは…と口ごもった。
「この子が入れた場面を見て、レジを通さずに店を出れば現行犯逮捕です。しかしこの子が入れたところは見ておらず、やっていないのだから映像も残っていないでしょう。この子は他の商品はきちんと会計をしているようですが、それなら何故ガム一つを万引きする必要があるのでしょうか」
工藤は冷静に落ち着いた口調で、けれども威圧的な空気を放った。
「それはその子ともう一人の子しか知りませんよ。ゲーム感覚だったんじゃないですか?」
よくいるんですよ。と店長は続けた。高校生にはそういう輩が多く困っていると。
「それとこの子になんの関係が?高校生がみな、ゲーム感覚で万引きをすると」
「いえ、そこまでは言ってませんがねえ…」
面倒くせえな。そんな気持ちが顔に表れていた。
ますます工藤に申し訳なくなる。呼び出したのは自分なので今更だが、とんでもない迷惑をかけている。不快な気持ちにさせてるし、煩わせている。
「今のままでは証拠不十分です」
「いや、でも実際鞄から出てきてますから…」
一番重要な証拠はこちらが握っているのだと言いたげな、強気な態度だった。事実、その通りだと思う。自分がなにを言っても商品は確かに俺の鞄から出てきた。
食い下がる店側に工藤も為す術なしだろう。章吾を今すぐ呼び出せるわけじゃないし、電話をしたところで出ないと思う。彼の言葉がなければこちらがなにを言っても無駄なのだから。
諦めるしかないのだろうか。冤罪ってこんな風に生まれるんだあ。呑気にそんなことを考えた。
「では警察へ通報して下さい。この子には正直に無実であると警察にも話してもらいます。それでも逮捕されたなら、運が悪ければ家庭裁判所行きになるかもしれません。私が付添人になります。そしてきちんとした形で無実も証明しましょう。必ず」
工藤が言い終えるとバックルームがしんと静まった。
おやじがごくりを唾を飲む音が聞こえ、急に焦り出した。
「家庭裁判所なんてそこまで話しを飛躍しなくても…」
「飛躍などしていません。万引きも立派な犯罪です。この子は捕まった時点で学校をやめることになります。本当に万引きをしたならそれは当然です。きちんと罪を償なわせます。でも無実と証明できたら…」
「まさか、私を訴えるなんて言いませんよね」
「さあ。わかりません」
さらりと言うとおやじは目に見えて動揺し始めた。
「どうしますか」
工藤が畳み掛けるように聞くと、小さく今回はいいと言われた。
「商品の額も小さいですし、今回は警察には言わないでおきますから…」
「随分と恩着せがましい言い方をされるのですね」
「そんなつもりは…」
「まあいいです。話しは以上ですよね。失礼させて頂きます」
呆然とやり取りを聞いていたが、工藤にぐっと腕を引かれて立ち上がった。
工藤が荷物を鞄の中に詰めていく。礼のガムの箱をつまみ、後ろに立っていた店員に向き合った。
「これ、購入してもいいですか?」
「は?」
「会計、あなたにお願いします。いいですよね?」
ぐっと一歩店員へ近付くと、店員は怯えたように一度頷いた。
「行こう、和希」
まだぼんやりしているとずるずると腕を引かれてバックルームを出た。
最後に何か言ってやりたいのにそんな気力もないし、頭も回らない。体力的にも精神的にもとても疲れた。
工藤は例のガムと飲み物を購入し、釣りを受け取りながら店員の顔をじっと見詰めた。
「ご迷惑をお掛け致しました」
「…いえ」
店員はまだ俺を疑っているのだろう。釈然としない様子でこちらをちらりと睨んだ。
自分は無実だ。絶対にそんなことしていない。でも、大人に向けられる疑念の瞳の威力も知っている。教師からも何度も何度も向けられた。
悪くないと胸を張れるはずなのに、この瞳に見られると身体が委縮する。嘘をついていないのにプレッシャーで焦ってしまう。
まさかこんな場所で、日常の中で関係のない大人にこの瞳に見られるとは思ってもみなかった。惨めだ。思った瞬間、軽くレジ台を叩く音がした。
音に驚いて顔を上げると、工藤がなんの色もない表情で店員を真っ直ぐ見ている。
睨んでいるわけではないし、ポーカーフェイスのままなのに鬼気迫るものがあった。
店員も緊張した様子で僅かに肩を硬くして、まだなにか?と工藤に尋ねた。
「…真っ先に警察へ通報しなかったのは賢明でしたね」
工藤は再び俺の腕を引き足早に店を出た。外に出た瞬間、小さく溜め息をついたのを聞いた。
じわじわと申し訳なさが身体中を巡る。なにをしているのだろう。どんなに無茶をしても虚勢を張っても自分はちっぽけな子どもだ。
大人に守られなければ生きていけない。自分の愚かさを目の前に引き伸ばされて見せつけられた気分だ。
「…工藤」
後ろから小さく呼んだが返事はなかった。やはり怒っているのだろう。
自分だったかんかんに怒る。振った相手が都合のいいときだけ頼ったり、子どもだからと言い訳したり。いい加減にしろと怒鳴るだろう。
これできっと工藤にも見放された。彼だけはなにがあっても大丈夫と言ってくれるなんて、根拠のない自信を持っていた。そんな自分にも呆れた。
工藤の長い脚と自分の脚ではリーチが違うので駆け足になりながら後ろをついて歩いた。
どこへ向かっているのはわからないが、もう声はかけられない。
繁華街から裏路地に入り、駐車場の前で止まった。
工藤が駐車料金の精算をして鍵を開ける。なにも言わず運転席へ乗った彼をぼんやりと見た。
なんでもいい。ひどい言葉でもいい。なにか言ってほしかった。
けれどさよならも迷惑だとも言われず、謝る機会さえもらえず別れるらしい。
道路の端っこに突っ立ってると工藤は車を出して助手席の窓を開けた。
「なにをしている。早く乗れ」
「え…」
「寮まで送る」
「い、いいよ。電車で…」
「いいから乗りなさい」
珍しく強い語調と険しい顔に、ただでさえ怒っているのだから言う通りにしようと思った。
これ以上の迷惑はかけられないとも思うけど、下らない押し問答はやめよう。
おずおずと助手席に乗る。ゆっくりと進みだした車の中でも俯いた。
なにか言わなければいけない。とにかく謝らなければ。でもごめんなさいでは足りない気がする。じゃあ他にどんな言葉があるだろう。
気持ちを言葉に変えるのがこんなに難しい作業だと知らなかった。
好き、嫌い、楽しい、悲しい。そんな単純な感情の中でしか生きてこなかった。
複雑な気持ちは面倒くさいと考えないで投げ出した。
ちらりと工藤の横顔を見た。微かに眉間に皺が寄っている。
僅かな変化でも能面のような工藤にしてみれば大きな感情が動いている証拠だ。
喉までごめんなさいという言葉が出かかっているのに、彼の空気に圧倒されて呑み込んでしまう。
お互いなにも話さない無言の時間が過ぎ、ついに寮についてしまった。
シートベルトを外し、ちゃんと謝ってから帰ろうと思う。でもやはり言葉が出てこない。
あれでもない、これでもない。頭の中の引き出しを開けても当て嵌まる言葉がない。
「…着いたぞ」
なかなか降りようとしないので、さっさと帰れと促された。
早く帰らないと。工藤は明日も仕事だ。疲れているのにこんなことに巻き込んで、そりゃ怒る。二度と関わりたくないと思う。当然の結果だ。
なのに工藤から拒絶の感情を向けられショックを受けてる。随分なご都合主義だと知った。
「和希、着いたぞ」
聞えていないと思ったのか、もう一度言われた。
早くしなきゃと思うのに、和希と名前を呼ばれて冷える心の片隅で嬉しいとも思った。馬鹿みたいだ。
「……ごめん、なさい…」
歯切れ悪く口の中でごもごもと言った。工藤はなにも答えてくれない。謝罪すら受け取ってもらえないのだろうか。
「…なんか、言ってくれ」
不安になって顔を上げると歯を食い縛るように表情を硬くしている工藤と視線が合った。
金縛りにあったように視線を逸らせず数秒見詰め合い、けれども彼はすっと逸らして窓の外を見た。
「…早く、帰りなさい」
更なる追い打ちをかけられ、ぱりぱりと音を立てて心にひびが入る。
自分が思っている以上に怒っているのだ。怒りだけじゃない、失望されただろうし、面倒くさいガキだと思われただろう。
鼻の奥がつんと痛くなった。こんなことで泣いたりしない。泣くのは汚い。工藤が悪役になってしまう。
「…本当に、ごめんなさい…。ありがとう」
振り絞るように声を出し、車から出た。見送りたいけど、見送ったら泣いてしまう気がした。
ぎゅっと瞳を瞑って歯を食い縛る。小さく頭を下げ、逃げるように部屋へ帰った。
部屋まで歩いている間にも鼻の奥はちりちりと焦げるように痛くて、あと一度瞬きをしたら涙が零れそうだった。
ぎりぎりと限界まで食い縛って戻るなり服を脱いだ。
熱いシャワーを頭から被って漸く身体の力を抜いた。
今日あった出来事が頭の中で断片的に再生される。
悔しい。悲しい。むかつく。激情にかられる余裕もなく、ただ脱力した。
なにもかもが嫌になる。やっぱり厄日じゃないか。部屋から出なければよかった。
章吾に会って仲直りできたなんて浮かれなきゃよかった。あっちはそんな風には思っていなかった。ずっと自分を憎んでいたのだろう。いい気味だと笑いたかったのだろう。
逆恨みだが、そんなことはどうでもよかった。
万引きと疑われ、それを晴らす術すら持たない自分と、工藤に頼り、庇ってもらい、生かされた事実が皮膚を刺す。
無力な子どもと言われれば牙を剥いた。けれど自分は何も持っていなかった。対して工藤はしっかりとした大人だった。
恋愛の仕方も知らない馬鹿な大人だと思ってきたが、彼は自分や他人を守る防具もつけているし、言葉という剣も持っている。世間と戦えるだけの材料が揃っている。
馬鹿なのは自分の方だった。
こらえていたものが静かに目から落ちてきた。あとからあとから溢れてくる。
シャワーとは違う雫が床に落ちるのを呆然と見た。
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