5

ドアレバーに手をかけたゆうきは一瞬息を呑みこちらを振り向いたが、開いた口から声は出ずに空を呑み込んだ。
そして辛辣な表情に変えると、見ていられないとでも言うように肩を竦め、扉を勢いよく開けた。
室内には蓮と景吾がいて、俺を見るなり涙が滲む瞳で縋った。

「楓!大丈夫だった!?何処行ってたの!?」

「心配したよ、楓…」

「…悪い…」

二人を前に苦笑することしかできず、今にも泣き出しそうな表情を笑顔にするのが、今できる最善のことなのだと悟った。

皆は俺をベットに座らせられ、温かな飲み物を与えられ、それはそれは甲斐甲斐しく世話をやいてくれる。
しかし、その空気の中には一点曇りが混じり、誰もが口を開こうにも開くタイミングを見計らっている。
なんとなくぎこちなさを感じた。
俺が何処へ行っていたのか、空白の数時間に何があったのか、今すぐにでも問いただして真実を聞きたい気持ちを押さえつけているのはきっと、香坂のためだ。
誰よりも先に知る権利を持つあいつが聞くまでは、それまでは口を挟まないつもりなのだろう。
一部の事情を知っているゆうきでさえ、この先に待つ結末を予想して俺から目を逸らす。

皆に囲まれているとあんなに安心できたのに、今では苦しくてたまらない。
変わらずに大切で親友なのに、優しくされればされるほどに、真実を知られた後の態度が怖くてたまらない。
事の原因は水戸先輩なのに、こうなってしまっては縋る想いだ。
もう、失うものは何もないし、手中には何も残っていない。
水戸先輩しか俺を拾ってくれる人はいない。

ベットに座ったまま俯く俺の手や肩を、何も聞かず、何も問わず、抱いてくれるみんなの温かさ。
失いたくない。
このまま時が止まってくれたなら。
香坂には会いたくない。
終わらせたくない。
悪足掻きをしてしまう自分にほとほと呆れてしまう。

しかし、そんな願いは叶うわけもなく、ノックもなしに大きな音を立てて開いた扉から、香坂の香水の香りが鼻を掠めた。
顔なんて見れなくて、俯いたままでもその存在は痛いくらいによくわかる。

「香坂先輩…じゃあ、僕達は部屋を出ようか…」

蓮が気遣ってくれるが、できるならば行かないで欲しかった。
離れていく体温に寂しさを感じつつ、部屋を去る皆を見送る。
床に視線を貼り付けたまま、顔を上げようともしない俺の足元に香坂が跪く。
瞳を絡めることはできない。
心臓が飛び出してしまう程に煩い。掌がじんわりと嫌な汗を掻く。

「……心配、したぞ…」

香坂の声は今まで聞いたこともないくらい弱々しいもので、いつも自信たっぷりの彼からは想像もできない程に切ない。
優しい言葉や、労わる言葉は聞きたくない。
決意が鈍ってしまう。
こんなに好きなのに。
その手を握って、大きな胸に飛び込んで、その存在を感じたいのに。

「何処行ってたんだ…何があったんだ…?」

か細い震える声が、反響して心に突き刺さる。
視線もあわせようとしない俺に、香坂はこちらに手を伸ばし、そして両手をぎゅっと握った。
自分は香坂を裏切った。俺に優しくする価値なんて、一つもない。
今当然に与えられる優しさも、真実を告げれば遠く彼方へ逃げて行ってしまうのだろう。

いつだって傲慢で強気で俺様な香坂が、俺がいなくなっただけでこんなに弱くなるなど知りたくなかった。
香坂が俺のことをそんなに想ってくれていたなど、今になって気付かされるなんて。
常に不安だった。自分の方が香坂の何倍も、何十倍も好きで。
感情は量れないが、いつか香坂が好きの重みで倒れてしまうのではないかと思っていた。

「……香坂…」

凍てついた空気を破るように出した声は、自分でも驚くほどに低く、震えていた。
涙が滲みそうになるのをぐっと押さえ、自分は香坂を裏切ったのだと言い聞かせる。
すぐにでもその胸に飛び込んで慰めてもらったらどんなに幸せだろう。
そうしたい衝動と戦い、香坂に握られた手をやんわりと振りほどいた。

「…楓?」

「俺……お前とはもう付き合えない…」

「……は?…何を、急に…」

「急じゃない、前から思ってた。もうお前とは別れる」

嘘をつくのがこんなに辛いだなんて思わなかった。
一瞬でも気を抜いてしまったなら、本音がつい、口から滑ってしまいそうで怖い。
嘘に隠された真実、それを守るために俺は香坂を捨てる。

「嘘だろ?…お前、やっぱり何かあったんだな?だからそんな事言ってんだろ!?」

肩口を力一杯に掴むと、首が折れそうなほど揺さぶられた。

「っ、お前の我儘にはもう付き合えねえって言ってんだよ!顔もいいし、金も持ってるから我慢してたけど、いい加減愛想がつきた」

酷い言葉を吐き捨てた瞬間、涙が零れそうになった。
ここで泣いては、嘘だとばれる。
この気持ちが全て伝わってしまう。
それだけは避けたい。
どうせなら香坂に嫌われたかった。
そうすれば未練が残らないから。
お互い、想い合ったまま別れるなんてそんな器用なこと、俺にはできそうもなかった。

視界の端に香坂を映せば、呆然としたまま言葉も出ないようだった。
そんな辛そうな顔は見たくない。
俺だってこんなに辛いんだ。
せめて怒ってほしい。
俺なんかもういらないと、香坂の口から聞かせてほしい。
そうすれば少しは楽になれる気がして。

「……水戸か…?」

「……そうだよ。あの人の方が優しいし、セックスだってお前なんかよりも巧いし、大事にしてくれる。お前にはもう用はない」

わざと卑しい笑みを浮かべ、目を逸らした。
香坂をより傷つける言葉を探しているのに、何故かその度に胸に刃が突き刺さる。
これ以上は何も言えない。
これ以上、こんなにも好きな香坂に嘘はつけない。
自分の気持ちを殺すのも、そろそろ限界だ。

「…水戸に何をされた?正直に言え」

「何もされてない。ただあっちが良くなった。それだけ」

「楓!」

「うるさい!しつこいんだよ!もうお前とは別れるって言った。これ以上話すことなんてない!」

「楓!」

一層強い力で肩口を握られる。香坂の言葉にならない怒気は痛いほど伝わる。
微かに身体が震えていると思う。
殴られるならそれでもいい。いや、むしろ思うままに殴ってほしかった。
香坂の気が済むようにいくらでも罰を与えればいい。

「……楓…」

力なく、ぐったりと祈るように名前を呼ばれ胸がざわめく。
香坂とこれ以上共にいたら危険だ。どうしたってこの男が好きだという気持ちは止められない。
自分の思うようにならない心がとても邪魔だ。

「…もう、いいだろ。帰れよ。お前ならすぐ代わりは見つかるだろ。女でも、男でも自由にできるんだから」

「お前は一人しかいねえだろ!」

「はっ、香坂涼が何言ってんの。一人の人間に固執するなんてお前らしくないじゃん。お前がこんなしつこい男だと思わなかった。別れ話もスマートにできない奴だったなんてさ。引き際って言葉知ってる?みっともなく縋んなよ。ますます嫌になった」

香坂が小さく息を呑んだ。一瞬俯き、次には甘ったるい瞳は洞穴のように代わり、何も映っていないようだった。
肩を掴んでいた手を力なく離すと香坂は立ち上がった。

「……別れてやるよ」

消え入りそうな声ではっきりとそれだけ言うと、香坂は静かに部屋から去った。
その刹那、堪えていた涙が次々と流れた。両膝の上に乗せた拳に雫が落ち、濡れていく。
涙腺がどこかで切れてしまったのだろうか。涙を止める方法も思い出せない。
独りになった部屋の中は虚しさが残るだけで、悲しみ以外、なにも生み出してはくれない。

終わってしまった。

香坂との思い出も、絆も、愛も、全て終わってしまった。

これからも、幸せな思い出をつくれたらと願っていた。
お前以上に好きになれる奴はいないし、願わくば一生一緒にいたいと思っていた。
こんな終わりを望んでいたわけじゃない。

香坂との思い出が色濃く残るこの部屋にいるのは予想以上に辛く、香坂から吐き捨てられた言葉は、心を執拗に痛めつけた。
自分でそう仕向けたくせに、想像以上に傷ついて。
自嘲するかのような笑みが零れると、世界が終わってしまったかのような絶望で身を震わせた。

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