4
「ココアは好きじゃなかった?」
「…別に」
「楓君はいつも何飲むの?」
「コーヒー」
「そっか、じゃあコーヒー淹れてあげればよかったね」
「これでいい」
「そっか」
相変らず、嬉しそうに見つめる瞳が心地悪かった。
そんなに風見られても、応えられない。
俺を見て何が楽しいのか。
時だけが進み、二人の間の空気は止まっているような気がした。
俺はカップを口につけ、ココアを飲む、そして水戸先輩はそれを幸せそうに見つめる。
同じ事を延々と繰り返しているだけなのに、時計の針は確かに進んでいた。
いい加減そんな空気にうんざりしていたとき、扉からノック音が聞こえた。
こんこん、と軽快に鳴る音に、情けなくも言葉通り肩が跳ね上がった。
「誰だろうね…」
口ではそんな事を言っているが、本当は誰なのか見ずともわかっているような表情だった。
そして、それを待っていたようでもある。
「はーい」
扉を開けた先輩の背中に隠され、誰が来たのかはわからなかった。
まさか、香坂だろうか。そんな恐怖が襲う。
香坂に別れを告げると決めたくせに、まだ何処かでは香坂に知られないように、汚い奴なのだと悟られないようにしたいという醜い希望がちらついている。
いい加減諦めが悪いし、自らの欲ばかり考える自分に悪態をつく。
「すまない、ちょっと聞きたい事があるんだ」
どこかで聞いた事のある、凛とした、自信と威厳が溢れる声だ。
香坂でないことに安堵し、背中と扉の隙間からちらりと見えた人物を瞳に映せば会長だった。
「氷室が訪ねてくるなんて珍しいね。なに?」
「単刀直入に聞くが、楓君の居場所、知ってるよな」
「ああ、知ってるよ」
「何処だ」
二人が交わす会話の内容を、俯き、緊張しながら聞いた。
会長が俺を捜しているということは、勿論香坂や他の皆も捜してくれているのだろう。
迷惑をかけたことを謝罪したいと思うと同時に、一生見つかりたくはないとも思った。
皆にどんな言葉を浴びせられるかわからない。
大好きな人たちからの罵詈雑言に耐えられるほど強くない。
「何処って…ここだけど」
「…え?」
「ここにいるよ。ほら」
水戸先輩は会長に俺の姿が見えるように一歩片足を引いた。
その証拠に視線が突き刺さるのを感じる。
「楓!」
しかし、聞こえたのは会長の声とは違うものだった。
聞き覚えのある、透き通った少し甲高いハスキーボイス。
その声に驚き、咄嗟に顔を上げれば目を点にしながらこちらを見詰めるゆうきが会長の隣に立っていた。
「…ゆうき」
ゆうきは水戸先輩を通り抜け、こちらに駆け寄ると、視線が同じ高さになるようにしゃがみこんだ。
「…何処、行ってたんだよ…心配したぞ。帰ろう」
ゆうきの声は少し、震えているような気がした。
見つめるゆうきから視線を逸らし、首を横に振った。
「…なんでだよ…香坂先輩が待ってる…」
「……帰らない」
瞳をぎゅっときつく瞑り、搾り出すような声でそれだけ告げた。
ゆうきは身体を強張らせ、全ての動作を止めたと思えば、次の瞬間立ち上がり水戸先輩の胸ぐらを掴んだ。
「お前!楓に何したんだよ!」
「何もーここに来たのは楓ちゃんの意思だよ」
「手前…」
「ゆうき君ストップ、暴力はいけないよ」
会長の手によって、水戸先輩から引き剥がされたゆうきは、それでも納得できないといわんばかりの表情だ。
そんなゆうきを見るのが辛かった。
俺を心配し、俺を想ってくれて。そんな価値はないのに。
香坂だけでなく、皆を裏切った想いで一杯だった。
「水戸、僕を敵に回してただで済むと思うなよ」
「やだな、会長様を敵に回そうなんて思ってる馬鹿はこの学園にはいないよ。勿論、俺も」
「どういうつもりだ?」
「どうもこうも、さっきも言ったけど楓ちゃんが来たのは彼の意思で俺は関係ない」
「なるほど…今の言葉後悔する日が来るぞ」
不穏な空気が二人の間に流れるのを呆然と見つめる。
「楓君は連れて帰る。構わないよな、水戸」
「お好きにどうぞ」
今度は会長が俺の前に跪いた。
「さ、帰ろう楓君…」
ここから一歩も離れたくなかった。
香坂や皆の顔を見るのが辛い。
皆が自分から離れて行くのを、目の当たりにするのが辛い。
永遠にここで、水戸に飼われたままならどんなに楽だろう。
ソファの上から動こうとしない俺を見て焦れたのか、ゆうきが扉から声を荒立てる。
「楓!早く行くぞ!」
「ゆうき君も呼んでる。行こう?」
腕を会長に握られ、それでも動こうとしなかった。
「…しょうがない」
会長は浅く息を吐くと、俺の身体を持ち上げた。
暫く声もなくばたばたと四肢をばたつかせて抵抗してみせたが、会長に敵うわけもなく、俺の抵抗をものともせずにあっという間に廊下に出た。
「じゃあ、楓ちゃんまた明日ね」
水戸先輩の声だけが耳に届くが、顔は見えない。
ぱたりと扉が閉まる音がして、愕然とした。
「手荒な真似をして申し訳ないけど、このまま僕の部屋まで運ぶよ」
会長に告げられ、脱力し、だらんと腕と脚を伸ばしたまま抱えられ歩き出した。
ゆうきからぴりぴりとした雰囲気が伝わってきて、それだけで涙が出そうだ。
皆に責められるのが恐い。香坂に嫌われるのが恐い。独りになるのが恐い――。
臆病な俺は、先ほどまで当たり前にあった皆の温もりが急激に離れていくことが恐くて、辛くて、どうすればいいのかと自問自答するだけだった。
「ゆうき君、鍵あけてくれる?」
「はい」
豪奢な扉が開錠され、会長に抱えられたまま室内に入る。
他の部屋とは造りも、置いているものも、何もかも違う。
ソファに下ろされ、ご丁寧に座る体勢まで会長に整えてもらった。
身体に力は入らず、視線も定まらない。
「これからどうしようかな…」
会長が独り言のように呟いた言葉に身体が強張った。
「とりあえず楓君が見つかったこと、皆に報告してくれる?ゆうき君」
「わかりました」
ゆうきが制服のポケットから携帯を取り出し電話をかける。
それを阻止しようと抗ったところで、再び会長に抑え込まれて終わるのだろうとわかっているから、好きにさせた。
もう何もかもを諦めるしかないのだ。
「…俺だけど、楓見つかったから。今会長の部屋。大丈夫だから…皆にも言っといて」
本当は見つからないまま、知られないまま、水戸先輩の部屋にいられれば楽だった。
「会長、楓を部屋に帰したいんですけど…皆も楓の顔見たいと思うし」
「そうだね、自分の部屋の方が落ち着くもんね」
自分の意思とは反し、自分のこれからが決まって行く。
もうどうなってもいい。現実を受け入れる他ない。仕方がないのだ。
「楓、行こう」
心配そうに揺れた瞳でゆうきが顔を覗きこんだ。
それに一度頷けば、ほっとしたように目を細める。
「ゆうき君一人で大丈夫?僕も行こうか?」
「いや、大丈夫です…色々、ありがとうございました」
「いや、気にしないで…」
ゆうきに腕をぎゅっと握られ、連行されるように会長の部屋を出た。
廊下を二人で歩くが、ゆうきは何も言葉を発しない。言葉を選んではそれを呑み込んでいるようだった。
そんな風に気を遣わせる自分が情けない。
どれ程の迷惑を皆にかけてしまったのだろう。
俯きながらゆうきに先導されるまま歩き続けると、ゆうきがぴたりと足を止めた。
顔を微かに上げれば、見知った自分の部屋だった。
[ 63/152 ]
[*prev] [next#]