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「ここが俺の部屋だからね、覚えておいて」

水戸先輩の部屋の前、部屋番号が書かれたプレートを指差すとにっこりと俺に微笑みかける。

プレートに書かれた番号をちらりと見て、一度だけ浅く頷いた。
覚えるつもりは毛頭なかった。自ら進んで訪れることはないだろう。
呼び出されれば赴かなければならないのだろうが。その状況を想像すると自然と奥歯に力がこもる。

「じゃあどうぞ。何もない普通の部屋だけどね」

三年はそれぞれ個室を用意されているため、勿論ここも一人部屋だ。
室内にはテーブルとソファ、テレビや棚が置かれている居室と、併設されて水戸の寝室がある。
造りはすべて同じなので、他の部屋と同じように生活する上での必要最低限の物が揃っている。
特に珍しい部屋でもない、ごくごく普通の高校生が生活していますと主張するような部屋だ。

「適当に座って」

促され、ソファの端っこに腰を下ろした。
一々動作をするたびに、自分の中に入ったビー玉くらいの玩具が擦れて俺に不快感を与える。
自ら取り出してしまいたいのだが、水戸先輩に気取られればおもしろがってそれを阻止するだろう。
部屋の中にある掛け時計を見れば七時近くになろうとしていた。

皆はどうしているのだろうか。
自らがこんな状況にあるというのに、考えるのはこの先の身の上の不幸ではなく、皆の笑顔だけだった。
自分のことなどどうでもいい。
こうなってしまっては取り返しはつかないし、半ば諦めの気持ちで一杯だ。
足掻いたとしても事実は変わらないのだし、香坂に嘘をついてまで共にいられない。
一つの嘘は綻び、次第に後戻りができない程に自分の首を絞め続けるだろう。
いれが現実だと理解はしているが、冴えない呆けた頭ではどこか他人事のようにも感じられた。

「炭酸、好きだったよね?」

手渡された、身体に悪そうなどす黒い液体を片手で受け取り、両手で包むように持った。

「安心して、何も入ってないから」

そんな警戒はしていなかったし、むしろもう何をされようが俺の知ったことではない。
一度深く汚れてしまったものは、どんなに白く染めたとしても浮き上がる。いっその事、白が残らない程に汚れた方が楽なのだ。
自分は水戸のモノになると決めたのだから。

ペットボトルのキャップを捻れば、微かに炭酸が抜ける軽快な音が漏れた。
思えば酷く喉が渇いている。たくさん泣いたからかもしれない。
身体の中の水分が足りないと、身体が訴えているようだった。
一口飲み込むと、冷たい液体が喉を通って胃に辿り着くのがよくわかった。
神経が研ぎ澄まされ、些細なことも敏感に感じているように思う。

水戸先輩といえば、なにやらキッチンで忙しなく動いている。
先輩が何をしようと興味はなく、ただモスグリーンのラグに視線を落とし、これからを考えた。
先のことを考えるとぐらりと眩暈が襲う。脳だけ揺さぶられているようにぐらぐらと不安定で、絶望という二文字が掠める。
皆にはなんと説明をしよう。本当の事を言おうか。それとも――。

「楓ちゃん」

自分の名に弾かれるように顔を上げた。

「これとこれ、どっちがいい?」

これ、と言うのはお菓子の類だ。

「どっちでもいい」

「そっか」

俺の答えに満足したのか、また先輩は微笑んだ。
もっと手酷く扱われるかと思ったが、意外にも水戸先輩は箱入り娘のように慎重に扱う。
それも最初のうちだけ、という事はわかっている。
先輩の奥に潜む修羅が顔を出した途端、恐怖に脅えるに違いない。

「はい、これどうぞ。お腹減ってるでしょ?」

ロウテーブルの上に、いくつもの菓子が並べられた。
それを何気なく見つめ、一かけらのチョコレートに手を伸ばした。
今の季節に相応しい、生チョコと書かれたそれは、口に放り込むとじわりと溶け、身体の内側全体を甘くしているようだった。
息を吸い込めば、鼻にかかって甘さが残る。

「甘いの好き?」

向い側のソファに座った先輩は我が子を見るような、慈しむ瞳で俺を見つめた。

「…普通」

「そっか」

一言、二言しか話さないのに、たいそう嬉しそうで、そして満足しているような表情だった。
自の想い通りになった俺を見ていれば、愉快でしょうがないのだろう。
一体、何を思いこんなことをしたのか、皆目検討もつかないが理由なんてどうでも良かった。過程よりも結果が全てであり、現実は変えられない。
自暴自棄になりつつある自分を、もう一人の自分が少し離れた所から焦燥しながら見つめているのを感じた。

「……温かいの飲みたい」

ペットボトルをテーブルの上に置き、ぼそりと告げた。

「わかった」

我儘にも、嫌な顔ひとつせず聞いてくれる。
どうせなら思い切り我儘を言って、愛想を尽かされるよう仕向けようか。きっとそれがいい
でも、例えば先輩が飽きたと解放したら、俺はどうすればいいのだろう。
何を目標に、誰を愛して生きればいいのだろう。
香坂が傍にいない人生など価値がないとすら思っていたのに。
水戸先輩が憎いことには変わりないが、香坂を失い生きる意味を失くした俺に、玩具にならなければいけないという義務を与えた人でもある。
そもそも先輩がいなければ香坂を失うこともなかったかもしれないが。
香坂の中の自分を守るため、真実を告げられないためならば、多少の苦労は呑み込めると思う。
香坂も水戸先輩もいない、一人ぼっちになってしまったら、俺はどうすれば、どうやって生きればいいのだろう。
香坂がいない毎日などもう思い出せない。どうやって呼吸をしていたのかすら。
果てしなく広がる暗闇の中、スポットライトを自分の場所にだけ当てられ、どこにも動く事のできない孤独感に襲われた。
本当のことを話したら、きっと友人も離れていくだろう。
侮蔑し、そんな俺はいらないのだと。
そうしたら、自分に残るのは水戸先輩だけで、その彼までもが離れていったら、俺は誰に必要とされるのだろう。
本当の孤独というのはそういうことなのだろうか。
誰にも必要とされない恐怖を初めて知った。

陥れた水戸先輩にまで縋ろうとしている自分に反吐が出そうだった。
独りじゃなければ誰でもいいのだ。
香坂でなくては意味がないと思い込んでいたけれど、きっと香坂ではなくとも、心の隙間を埋めてくれるならば誰でもいいのだ。
綺麗事を並べて香坂への愛を語ってきたが、ただ独りになりたくなくて、香坂にしがみ付いていただけなのだ。
自分は、そんな人間なのだ。
愛してる、なんて笑わせる。
結局は自分が一番可愛くて、自分が一番大事。
独りにならないためならば、誰にでも縋る。
その相手は拾ってくれる人ならば誰でもよくて。
より自分を必要としてくれている人に着いていく。
そしてそうすることによって、自分が生きる価値を図る。

"これでいいのだ。だって水戸先輩は俺を必要としている"
その言葉が耳のずっと奥の方で、煩いくらいに木霊する。

水戸先輩に向けられていた憎しみは、何倍にもなり自らへ返ってきた。

思考がゆっくりと麻痺していく。
何が正しく、何が正解と呼べるのかもわからない。単純な思考すらもできなくなる。
本当の自分が何処にあるのか、何を考えているのかも。
香坂を失った瞬間から、迷子の子供のように右往左往しながら出口を探すが、出口などそもそもないのだということもわかっている。

硝子が軽くぶつかる音ではっと現実へ戻った。

「眉間に皺なんて寄せてどうしたの?」

「……別に」

淹れてくれたココアを啜る。礼など言わない。
いつもなら吐き気がするほどの既製品独特の甘さも、口の中に残るざらりとした感触も、今の自分には丁度よかった。

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