10
香坂から呼び出しをされたのは翌日の放課後だった。久しぶりの呼び出しと連絡に浮きだつ心と同時に、弟君を思い出し一瞬で沈んだ。
愛おしい人の元に行けるのだから嬉しいのに、手放しで喜べない。
きっと機微に鋭い香坂だから、落ち込んでいると思えば励ますだろう。
辛いんだと言えば甘やかしてくれるだろう。
望んでいるわけではないが、縋りたいのも本音だ。
扉を軽くノックをして開けば、香坂がブレザーをソファにぞんざいに投げているところで。
シャツにネクタイだけという姿でもさまになる、なんて、うっかり見惚れてしまいそうになる。
「おう。早かったな」
「…いや、別に急いで来たとかじゃないんだけど」
「ふーん。急いで来てくれたわけだ」
「だから違えって」
「はいはい、いいからこっち来いよ。何か飲むか」
「…なんでもいい」
「了解」
キッチンへ消えてしまった姿に心が萎みつつ、ソファに着いた。
テレビ台を見れば、映画が好きな香坂らしく新しいDVDが並べられていた。
興味を惹かれるものがあれば、それを見ながら今日一日を過ごそうか、なんて考えながらそれに手を伸ばした。
「何か観たい?」
「…別に、そういうわけじゃないけど何かおもしろいのあればなーって思っただけ」
「アニメはないぞ」
「俺どんだけ子どもだよ」
二つのカップをテーブルに置きながら、香坂は相変わらずの憎まれ口を叩く。
それに慣れてしまっている自分もどうかと思う。
ただ、今日は傍にいられればいい。
身体を重ねなくても、ただ手を握ってくれた方が安堵する。そういう直接的ではなく、間接的な優しさが欲しかったからだ。
からからに干からびている心に一滴でもいいから水をくれる存在。それが自分にとっては香坂だと思う。
ソファに戻り、香坂が淹れてくれたコーヒーを口に含む。まだ春先で、肌寒い季節なので、ホットのそれは内側をじんわり温めてくれる。
「あれから京とは何かあったか?」
「…別に。何も」
「そうか…?」
「お前は?弟君と関係悪くなったりとかは?俺のせいで、とか…」
「京は何だかんだ言って俺にべったりだから心配すんな。これくらいで兄弟仲が悪くなる程元々関係が悪かったわけじゃねえよ」
その言葉を聞いて多少安堵した。
自分が原因で香坂兄弟の関係が収拾不可能になったらどうしようかという不安がしこりになっていた。
「お前、元気ねえな」
「…んなことないけど」
言葉では否定しながらも、やはりちょっとした変化や気持ちを汲んでくれることが嬉しかった。
「お前はすぐ顔とか態度に出るから隠してもわかんだよ」
「すいませんね、馬鹿正直で」
「鈍感」
「鈍感じゃな――」
言い換えそうとしたが、言い終える前に唇を塞がれた。久しぶりの接吻に、うっとりと瞳を閉じて陶酔しそうになる。
しかしそれが段々深いものに変わり、香坂の胸を押し返した。
「ちょ、待てって!」
「なんだよ、やれば元気になれんだろ」
香坂のその一言にかっと血が上った。
身体を重ねれば、それだけで何もかも忘れられるほど単純な生き物だと思っているのか。
冗談じゃない。
押し返した腕に力を込め、塞がれていた唇を手の甲で拭った。
「…なんだよ、どうした」
「お前がそんな風に思ってるなんて知らなかったよ」
「なんだよ、何怒ってんだよ急に」
「っ、誰のせいで!俺がどんなに苦しいかも知らないで――」
涙ぐみ、嗚咽が零れそうになって言葉を繋げなかった。
八つ当たりだ。子どもっぽい自分が情けなくて惨めになる。
「楓?」
手を差し伸べられたが、それを振り払った。
安い言葉や態度ではなく、気持ちを悟ってくれると思った。
香坂が今まで相手にしてきたような女たちと同じ扱いをするなんて、少しでも思わなかった。
それなのに、それなのに。
香坂が弟で遊ぼうなんて思わなければこんな想いをせずにすんだ。
香坂がはっきり言ってくれれば悩まずにすんだ。
香坂を責めるような言葉ばかりが頭を一杯にしてしまい、そんな自分をもっと責めた。
誰のせいでもない、自分の問題なのに。
ただ香坂にはわかっていて欲しかった。
俺がそんなに単純にできていないと。色々悩み、それでも自分なりにもがいていること。
娼婦のような扱いがどうしようもなく心を抉った。
「…帰る」
呆然とする香坂を尻目に、自分の鞄とブレザーを急いで取り上げ部屋を後にした。
廊下を歩いている間中、じわりと涙が溢れ出した。
涙と一緒に、ぷくり、ぷくりとマイナスな感情が引っ張り出される。
そんな姿を誰かに見せられるはずもなく、唇をぎゅっと噛んで俯いて歩いた。
速足で自室まで歩いた。どうか柴田がいませんようにと願いながら、部屋まであと数歩というところで、自室の前に立っている足が見え、涙を滲ませているのも忘れて顔を上げてしまった。
そして後悔した。こんな表情を一番見せるべきではない人物がそこにいたからだ。
「…あんた…」
「あ…。ど、どうした?」
一瞬俯き無理に笑ってみせたが意味はなかった。
「…何かあった…?」
弟君は声色を優しいくし、対峙するように立った。
そんな優しい言葉も、声色も、本当は香坂から聞きたかった。
思い出せばまた涙が滲んでしまいそうで、そんな女々しい自分が誰よりも嫌いで、本当にどうしようもなくなる。
「な、何もない。俺、いつも通り元気…」
俯き、つま先に視線を落としながら言った。
「何もなくないだろ。兄貴と何かあった?」
「だからなんでもない。これはちょっと目にゴミが入ったっていうか」
使い古された言い訳をしながらへらっと笑ってみせたが、自動的に溢れる涙が止まらない。
ぎりぎりと歯を食い縛って引っ込めようとするけれど、辛うじて流れていない。そんな状態だ。
何がそんなに悲しいのか、何がそんなに辛いのか、自分自身でもわからなくなってきた。
ただ、ごちゃごちゃで、誰にもぶつけられない想いがいっぱいになって表面張力では抑えられない。
「……兄貴なんだな」
言われると同時に、ぎゅっと抱きしめられた。
年下のくせに背は自分より少しだけ高く、丁度顎の辺りに鼻がぶつかる。
瞠目して動けずにいると、弟君は俺の肩に額を乗せ、ますます抱きしめる腕に力を込めた。
「…俺なら絶対あんたを悲しませたりしないのに」
噛み締めるように耳元で囁かれ、涙腺が崩壊しそうになる。
誰に苦しめられてると問われれば、こうされている弟君に苦しめられているのだが、欲しかった言葉や行動を、兄ではなく弟がくれる。
つい甘えたくなる自分を叱咤しなければ。
弟君の前で泣いたり、見苦しい姿を見せてはいけない。
優しさに甘えてはいけない。
それなのにどうして、弟君の愛情は不器用でいて、とても温かく、真っ直ぐなのだろうか。
それが今はとても痛く、薄く鋭い刃物になって胸を突き刺す。
だらんと下ろした腕を弟君の背中に回せばすべてが終わってしまう。
ただただ、囁かれる言葉がぐりぐりと心を抉る。
「俺にしろよ。あんたが悲しむことはしない。だから――」
これ以上聞いてはいけない。
押し返そうとだらんと弛緩していた腕を持ち上げた。
その腕を逆に引かれ、驚きながら振り返ると、香坂が恐ろしい形相で弟君を睥睨していた。
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