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時計の針が一秒毎にゆるやかに動くのをじっと見詰めながら、時間よ止まれと願ったが、漫画や小説の中でもあるまいし、そんなことは万が一にも起きてくれない。
そして六限終了のチャイムが鳴り、教室がざわめき出す。
何か食べて帰ろうとか、何処かへ遊びに行こうと楽しそうな会話が飛び交っている。
自分といえば、ついにこの時間になってしまったかと、盛大な溜め息を一つつく。
もう、一生授業中だったらいいのにと普段ならば絶対に思わない願いを心の中で何度も唱えた。

「楓、今日は香坂先輩と?」

景吾に問われ、その弟と、と返すと若干吊りあがった瞳が弧を描く。

「そっか!京君とも仲良しなんだね。いいことだよ、うん!」

出来ることなら代わってくれと頼みたい。月島楓は急病により、既に寮へ戻ってしまいましたと伝言を頼みたい。

「んじゃ、俺はお先にー」

晃と豊と約束があるのだという景吾は、廊下で待つ二人のもとへ駆け出した。
それと擦れ違うように、木内先輩が教室の扉に凭れかかるのを見つけ、ゆうきは短くさよならの挨拶を口にして、そちらへ向かってしまった。
一人残され、いじいじと時間を稼いだところでどうしようもないと、腹を括る。
どんなに時間を先延ばししようと弟君は永遠に待っているだろうし、約束をした分、破るなど男らしくない。
そうは思っても、足取りはいつもの何十倍も重い。一歩を踏み出すにも困難な足を少しずつ動かしながら昇降口へ向かう。
靴を履き替え、ちらりと前に視線をやれば、扉に背中を預ける弟君の姿を見つけた。
待たせては悪いと思うのだが、足は鉛がついたように重い。
引き摺ってでも行かなければと、弟君の傍へ近づいた。
ぽんと後ろから肩を叩けば、振り返った彼は一瞬笑みを見せ、それもすぐに消してしまった。

「悪い。待たせたな」

「別に、俺の方が近いんだし、俺が待つのは当たり前だし」

「…そ、っか…」

学園近辺の案内を頼まれていたことだし、早速行こうかと声を掛けようとしたとき、聞きなれた声が俺の名を呼んだ。
咄嗟に後ろを振り返れば香坂の姿があった。
そして一瞬にしてこの時間が地獄へと変わったと察っする。
なんて間が悪いのだ。もしかしたらわざとかもしれない。
この三人が揃うのは非常にまずい。
ちらりと弟君を覗き見れば、兄の姿に眉間の皺を濃くしている。

「帰るぞ、楓」

香坂は弟君を一切無視するように言うが、弟君は俺の腕をぐっと引いた。

「今日は俺と帰るんだよ」

「…お前と…?」

そうなのかと視線で問われ、香坂に向かって一度頷く。
香坂と一緒にいつも通りに帰れれば文句はないが、生憎約束をしてしまった手前、そうもいかない。
香坂は口角を上げると、納得した様子で頷いた。

「そうか。なら俺は一人で帰るわ」

止めてくれると思っていたのに、香坂は意外にもあっさりとそれを承諾した。
いつもの俺様ぶりを発揮してくれると期待していたのに、非常に残念だ。
必要なときに役に立たない俺様なら犬に食わせろと苛々する。

「じゃあな、楓。京も」

軽く手を上げる香坂は、口角を上げたまま、面白くて仕方がないのだろう、上機嫌のままに立ち去った。
弟君は、香坂の背中を追い、益々眉間の皺を深くする。
兄弟なのだから仲良くしようよと言いたいが、口は災いの元なので言わない。

しかし香坂の態度が気に喰わない。
まるで、弟君に協力的で、弟君にたじたじな自分を見て嘲笑っているかのようだ。
退屈凌ぎに丁度いいとでも思っているのだろうか。渦中に巻き込まれているこちらの身にもなって欲しい。
さすが、自分以外の人間で遊ぶのが大好きな香坂らしい。それが恋人である自分だとしても容赦はしない。
後で徹底的に文句を言ってやると心に決める。

「行こうぜ」

「…はい…」

促され、足を引き摺った。
門扉を抜けると、弟君は寮とは逆方向へすたすたと歩きだす。
案内するほどのものはこの近辺にはないのだと思いながらも、その背中を追うように歩いた。

「ここが一番近いコンビニ。大抵皆ここで買い物するから、物が売り切れることも多いんだ」

「…一番近くてここか?」

不満げに眉を顰める弟君に、都会とは違うのだよと言ってやった。
緑は青々としているし、空気も澄んで綺麗だ。
ここが東京かと首を捻りたくなるほどに、学園付近は緑豊かで、山もあれば、夜になれば満天の星空も拝められる。

「寮から歩いて十分以上かかるけど、ここしかないんだ」

「…面倒くせえな」

「ごもっともで…。他に行くとこなんてここらにはねえよ。皆は電車で一番近い繁華街に行って放課後遊んだりするけど」

「ふーん」

あと自慢できるのは、コンビニ付近の大きな公園くらいなものだろうか。
緑豊かで、騒音も少ないここら辺は、住宅が多い。子供の数も比例して多く、意外と公園など子供が遊べる場所が用意されている。

「案内っつっても、これくらいしかないんだけど…」

ちらりと横目で弟君を見れば、明らかにつまらないといった様子だ。
香坂の実家を思い浮かべ、あそこに比べれば確かにつまらないだろうし、刺激も少ないだろうと思う。
根っからの都会っ子の弟君には耐えられない場所かもしれないが、ほっと安心して暮らしたいのならば、とてもいい場所だと思う。
電車一本で新宿まで行けるし、喧騒から離れたいと思えば寮付近を散策するのもいい。
多少歩けば大きな病院もあるし、ジャンクフードが食べたければ隣街の繁華街へ行けばいい。

「駅はこの道真っ直ぐ行ったところにあるし、そんなに遠くねえし」

そちらを指差して言えば、弟君は一度頷いた。

「…あー、なんか買って帰るか?」

コンビニを顎でしゃくりながら言えば、そうだなと弟君も了承した。

「今日の礼に何か買ってやる」

「いやいや、子供じゃないんだから…」

お菓子の一つでも与えてくれるということなのだろうかと突っ込んだ。
ちょっと待ってろと指示され、ぼうっとしながら待つこと数分。温かいミルクティを弟君に差し出された。

「サンキュー」

軽やかに礼を言えば、昼食のとき驕ってもらったからと律儀にお返しをしたかったらしい。
可愛いところもあるものだと笑みを浮かべてキャップを捻ると、弟君があっと声を上げた。
その声に素早く反応し、顔を上げれば木内先輩とゆうきが並んでこちらへ歩いてくる。

「仁兄!」

声を張った弟君を見れば、瞳がきらきらと輝いていた。本当に木内先輩のことを慕っているらしいと、その表情を見ればすぐにわかる。
木内先輩も、こちらに軽く手を上げ、ゆうきと共に近づいて来た。

「なんだ、お前も買い物か?」

弟君と俺を交互に見ながら言う木内先輩はにんまりと笑みを作ったままだ。

「ああ、案内頼んでたんだ」

今すぐにでも木内先輩の懐へ飛び付くのではないかと思う。
まるで主人の帰りを心待ちにしていた犬のようだ。
弟君に尻尾がついていたとしたら、ぱたぱたと忙しなく左右に振っているだろう。

「そうか、楓にか…」

木内先輩は相変わらずニヒルな笑みを浮かべ、俺の肩をぽんと叩くと、耳元に口を寄せた。

「話は聞いたぜ、お前も大変だな」

こっそりと言われ、わかっているなら助けてくれと悪態をつく。勿論、木内先輩本人に向かってそんな口が利けるわけはないが。

「京、これが噂のゆうきだぞ」

ゆうきの背中をぽんと押して木内先輩が言った。

「知ってる。何回か見かけたし、今日の昼も会った」

「そうか。男にしておくには勿体ねえ美人だろ?」

冗談めいた口調で木内先輩が言えば、ゆうきを凝視した弟君は何度も頷いた。
その意見には同感だと、俺も賛同する。
しかし、話題の中心にいるにも関わらず、相変わらずゆうきの反応はクールで、表情一つ動かすことはない。口を開くでもなく、弟君にも興味がなさそうだ。
人間関係を円滑に運ぼうとするタイプでもないし、笑って挨拶なんてゆうきには似合わないが、無愛想すぎるのも如何なものかと思うときもある。
ゆうきに至ってはそれでこそ、ミステリアスでエキゾチックな雰囲気にはくが付くというものだろうが。

「じゃあな、京。たまには部屋に顔出せよ」

「うん」

木内先輩とゆうきはそのまま、コンビニの中へ吸い込まれ、弟君は視線でその後姿を追う。

「…木内先輩に随分懐いてんだな」

寮へと歩き出しながら、貰ったミルクティを一口飲み込んだ。

「ああ、仁兄は俺の憧れだし」

「…憧れ、ですか…」

あれに?という言葉は呑み込もう。木内信者の前で悪口でも言った日には半殺しにされるかもしれない。
確かに木内先輩は男前だし家柄もいい。しかし、性格に難有だ。
ゆうきを傍に置くようになってからは、多少丸くなったと思うが、以前の彼は傍若無人だったと聞く。
本能に逆らわず、我慢を知らない。自分がルールで随分と楽しい毎日を過ごしていたようだ。
逆らったら最後と噂されるような男のどこを尊敬しているのかは知らないが、尚も弟君はきらきらとした瞳で語った。

「仁兄には昔から世話になってるし、色々教えてくれた」

その色々の多くは悪事だと思う。いけない遊びを面白半分で、幼く無垢な弟君に教えたに違いない。
そして弟君はその無垢な心を穢され、何を間違ったか大人の男として木内先輩を尊敬するに至ったのだろう。

「…仁兄の恋人、あんたの友達なんだよな…?」

「そう。中学の頃から仲良しこよし」

「…綺麗な人だけど、喋らないし、表情も変わらないんだな」

「ゆうきに愛想はない。性格も見た目もクールそのもの。長いこと友達やってても、なに考えてるかわからないときも多いし」

「ふうん。それでもあの見た目だから目立つしな」

呟いたその言葉にそうそうと首を縦に振った。

「でもいい奴だぞ。友達は大事にするし」

「仁兄が恋人にしてんだからいい人なんだろ。あの人と付き合うようになって女遊びもやめたって言ってたし」

「ああ、木内先輩はゆうき一筋――」

そう言ったところで、地雷を踏んでしまったことに気付いた。
木内先輩はすっぱりと女遊びをやめ、その分の時間をゆうきに遣うことを決めた男。対して、香坂はまだ女と遊び、俺とも遊び、不埒な男だと弟君が思ったのは間違いない。
慌てて話題を逸らそうと思ったが、適当な言葉が思い浮かばなかった。

「一筋、ねえ…」

ぼつりと呟いた弟君の言葉には、妙な重みがずっしりと込められている。
きっと、弟君の頭の中では恋人に誠実である木内先輩と、不埒な関係を築いている香坂が天秤にかけられている。
そんなことはない。俺だって香坂に大事にされている方だと思う。
その一言が言えればどんなに楽だろう。しかし、誤解を解くのは俺でもなく、木内先輩でもなく、香坂本人だ。
香坂は今の現状を楽しんでいるようで、弟君が俺にはまればはまる程面白いと言ってのけるだろう。
協力を請うてもそれは無理だろうと、なんとなくわかる。

ぶらぶらとミルクティを飲みながら寮まで碌な会話もないままに到着した。

「じゃあ、俺あっちだから」

ロビーで指をさして言えば、弟君は振り返る俺の腕を引き、自分の方へ手繰り寄せる。

「あのさ、携帯の番号とか聞いてなかったんだけど」

「…ああ、携帯ね…」

これ以上の関わりを持ちたくない俺としては、プライバシーである携帯の番号もアドレスも教えるのも憚れるが、断る理由もない。
弟君に個人情報を与えれば、彼はひどく嬉しそうに綺麗な顔をくしゃっと変えて笑った。

「これでわざわざあんたの教室まで行かなくても話せるし、部屋に行くときも連絡がとれる」

俺の携帯の番号やアドレスを知れたことがそんなに嬉しいのかと嘆息を零した。

「連絡する」

恋人同士の別れ際のようなセリフに苦笑を浮かべる。
今度こそじゃあと別れの言葉を発し、自室へ戻るために踵を返した。

まさか、明日から電話やメールの嵐になるのではないかと物騒なことを考え、すぐにそれを払拭させた。
恋だと勘違いをしている彼に対し、自分がどういう態度で臨めばいいのかわからない。
やはり、真実を香坂の口から言ってもらうのが一番ベストな方法だ。
しかし、彼はそれを拒むだろう。好きにやらせておけばいいと余裕をかまして言うだろう。
思いあぐねるのはいつも自分で、苦労を重ねる度に無駄に歳をとっている気がする。

やはりここは秀吉あたりに相談しようと、自室へ向かうのをやめておき、秀吉の部屋へと直行した。

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