10


弟君は俺の腕を力一杯引っ張ると、真っ直ぐに香坂の部屋へ向かい、乱暴にその扉をノックした。
数秒後に顔を出した香坂は、寝起きなのかスウェット姿のまま、冴えない表情だ。

「…なんだよ二人揃って」

剣呑な雰囲気を醸し出す弟君の機微に気付いているのかいないのか、ただ香坂は相変わらず呑気だ。

「ちょっと話したいことあんだけど、いいか」

「どうぞごゆっくり」

欠伸を交えて香坂は扉を全開に開けて招き入れた。
ずんずんと足音を響かせる弟君の後ろで、香坂に目配せを送るが、本人は気付いているのかいないのか、尚も欠伸を繰り返すだけだ。

「何か飲むか?」

「いらねえ」

「俺もいいわ…」

ソファに着くわけでもなく、立ちすくみ、怒りを全身から放出する弟君がここにいるにも関わらず、香坂は至って平然とソファに腰を掛ける。
弟君が怒っていると伝わっているはずなのに、これが兄の威厳とでもいうのだろうか。

「で、話しって?」

長い脚を鷹揚と組み替えた香坂は弟君へ挑発的な視線を送る。
一瞬息を呑んだ弟君は、眉間に皺を寄せたまま香坂ににじり寄った。

「この人とできてるって噂聞いた…」

「…ああ、その話か…」

「恋愛にはいい加減な奴だと思ってたけど、あんまりだろ!」

「…なにが?」

「他に女がいるのに遊びで男に手出すなんて正気の沙汰じゃねえって言ってんだよ!」

「…悪いか?」

怒号を上げる弟君と反して、香坂は相も変わらず冷静でいて、そして少し楽しんでいるようにも見える。
二人の間で成す術はなく、心中焦りながらも二人の会話のキャッチボールを見守る。

「俺が誰を相手にしようと誰と恋愛ごっこしようとお前には関係ない。そのことでお前に迷惑掛けたか?」

「関係はねえよ!けどな、兄貴に尽くしてくれるこの人を遊び相手にするなんてどうかしてる!」

「楓がお前に辛いって泣き付いたか?そうじゃねえなら俺たちの問題だ。お前が首を突っ込むことじゃない」

香坂も素直に本命の女などは存在せず、俺が本命なのだと言えばいいものを、わざと弟君の地雷にずかずかと足を踏み入れるような言葉を選らぶ。
その度に弟君のボルテージは上がる一方で、今にも爆発してしまうのではないかとこちらがはらはらする。

「お前もガキじゃねえんだ。それくらいわかるだろ」

「そんなん理解するくらならガキの方がましだ!」

「まだまだ青いことで」

「兄貴がそんな奴だと思わなかった。あんたも何か言ってやれよ!」

ふいに話を振られ、動揺を隠せずに口篭った。
ちらりと香坂に視線を向ければ、余計な言葉は発するなと目が語っている。

「俺は…。えっと…」

「そもそもあんたがこんな関係に甘んじてるから兄貴が調子乗んじゃねえのかよ!」

「いや、あの…」

わざわざ香坂に牽制されるまでもなく、言葉など出てこない。
香坂が何を考えているのかは理解できないが、噂を認めるような口ぶりな彼の前で俺が何を言っても痛い子にしかなれない。

「京、楓は今の関係に不満なんてないんだ。俺も楓もそれで満足してる。それ以外に何がある?別にお前が口を出すところじゃないだろ」

鼻で笑い、有無を言わさぬ威圧感で香坂が言うと、一瞬で空気までずっしりと重みを持った。
弟君もこれには怯んだようでぐっと息を呑むが、再び香坂を睥睨すると眉間に刻んだ皺を深くした。

「兄貴がこの人のこと大事にできないなら俺が貰う!」

そして次に部屋を支配したのは妙な沈黙だ。
香坂も、そして俺もぽかんと開いた口が塞がらない。それは弟君も同じようで、言った本人がぎこちない動きでこちらに首を回すと、今俺何て言った?なんて言う始末だ。

流れる沈黙は、時間を追う毎に重力が増し、誰一人として言葉を発することのできないまま、一分は経過しただろうか。呑気に頭の中で羊を数えられれば苦労はしない。

唖然としたまま弟君を見詰めていると、時間と共に顔が朱色に染まっていった。
夕日みたいと呑気なことを思っていた次の瞬間には、再び腕を捕まれ、脱兎の如く香坂の部屋から逃げた。
ひたすら前を目指す弟君に、放心状態から徐々に自分を取り戻した。

「ちょ、どこ行くんだ!?」

掴まれた腕に力を込めて振り解くようにしたが、弟君の力が強くそれも叶わない。

「あんたの部屋だよ!」

それならば問題はないか。いや、問題は山積みだ。
兎にも角にも、俺も弟君も落ち着かなければいけない。冷静に、順を追って話しを進めれば、先ほどの発言も撤回すると言うだろう。
あれは、俺への同情から出てしまった言葉で、そこに深い意味はない。と、信じたい。
人情に厚い弟君は、俺を助けようとしたに違いない。
頭の中で物事を整理し、部屋に戻ったらなかったことにと大人の振りをして言おうと思った。
口にした手前、きっと弟君からは言い難いと思ったから。ここは自分が大人になろうではないか。そうだ、これは一種の事故のようなものだ。

再び自室の扉を開けて中に入ると、やっと腕を離してくれた。
力一杯掴まれていたものだから、薄い皮膚はひりひりと熱を持っている。そこをもう一方の手でさすりながら、弟君の背中へ話しかけた。

「あのさ、さっきの――」

なかったことにしよう。
そう言おうと思ったが、弟君はこちらを振り返り、言葉を遮った。

「俺、あんたのこと好きだったのか…?」

知らねえよ。
突っ込みたかったが、今はシリアスな空気であり、気軽に突っ込めるような状況ではない。

「いや、なんと言いますか、きっと俺が可哀想だから救ってやろうと思って言ったんだろ?俺は別に大丈夫だし」

事前に考えていた有り体のセリフを口にしたが、弟君は床に視線を預けたまま放心状態で俺の言葉も耳には届いていないようだ。

「…自分でもわかんねえのに、あんたの部屋に足が向かうことが多かったんだ。顔が見たいとか…。噂を聞いたときはすげーショックで。これってあんたのこと好きってことか…?」

だから知らねえよ。
二度目の突っ込みも、勿論呑み込んだ。

「いつから…。あんたは男なのに…」

彼女がいるという話しを聞いたことがあるし、普通の男は大概がストレートだ。男の香坂と交際中の自分だってストレートだ。女の子が可愛いと思うし、抱きたいとも思う。
そんな自分が同性を好きになってしまったときのショックは、自分にも経験がある。
心中お察しします、なんて他人事のように考えている場合ではない。
これは非情にまずい展開だ。
頭の中で警報が鳴るが、持ち前のてんぱり具合で弟君に掛ける言葉は見付からない。

「…マジかよ…」

額に手をやった弟君は、苦虫を噛み潰したような表情で呟いた。

マジではない。そう錯覚しているだけだ。同情心と恋愛感情をすり替えているに過ぎない。落ち着け、自分を取り戻すんだ。

「…同情してるだけなんじゃ…」

「同情…?いや、噂を聞く前からそうだった…。なんかあんたといると落ち着くっていうか。それが好きだからなんて思わなかった…」

それは恋ではない。弟君の気持ちがわかるわけでもないのに言い切る。
むしろそうでなくては困る。兄弟丼など誰が好むか。この展開の先に待っているのは、面倒臭いだけの人間関係だ。

「そうか。だからか…」

一人納得していた様子の弟君は、何か吹っ切れたような口調で言った。

「彼女とは別れる」

「いやいやいや!」

激しく首を左右に振ってそれを止めたが、弟君はついでにこんな風に言ったのだ。

「あんたが好きなのに付き合えない。兄貴と同じことはしたくない」

「だから、その好きは恋愛感情じゃなくてさ」

「なんであんたが俺の気持ちわかんだよ」

「そう言われると困るけど…」

「彼女とは別れるから、あんたも兄貴じゃなくて俺にしろよ」

「…は?」

行動も言動も理解不能な香坂兄弟だということは承知していたが、この発言には疑問符がぽんぽんと浮かぶ。

「あんたを暇つぶしに遣うような兄貴よりも俺の方が大事にできる」

「…いや、そうじゃなくてさ」

「俺は二股なんてしない。誓ってあんた一筋でいる。だから俺にしとけ」

何かが吹っ切れたのだろう。弟君は清々しいまでの笑顔を見せた。けれども、言葉には重みがあり、冗談で言っているわけではないというのがわかる。
どうかこれが性質の悪い冗談でありますように。両手を組んで天に祈りたいが、これは夢でも冗談でもなく現実だ。目を逸らしたくなるが、目の前の人物はそれを許してくれない。

「今は兄貴が好きかもしんねえけど、あんたを好きにさせてみせる」

驚く程に強く、真摯な眼差しで弟君は宣戦布告をし、今日はこれで帰ると、一人早々に部屋を出て行った。
取り残された俺は、その場に立ち尽くし、傾げた首を更に角度を増してみせた。

「どうすんだよ、これ…」

香坂の態度も、弟君の言葉も、すべてがスローモーションで流れる。
事情を整理しようと懸命になるが、すればするほど、何処かへ逃げ出したくなった。

香坂だけではなく、その弟にまで求愛されるとは。
こんなはなしがあるだろうか。どうしろというのだ。

詰まる所、誰が悪くてこんな状況になったかと言えば、香坂のせいだ。
誰かに当たることで動揺しきった心を怒りにすり替えることとした。

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