8


翌日は土曜日。休みを利用して、約束も取り付けないまま香坂の部屋へ朝一番で向かった。
時刻は十時を少し過ぎたところだ。この時間ならば、彼もきっと目を覚ましている。
三年の寮塔へ向かい、部屋の扉をノックした。中から応えがあったので、部屋の扉を開けた。

「…お前か」

「すいませんね。俺ですよ」

「入れよ」

ソファの上、珈琲を片手に雑誌を見ていた香坂は、首だけこちらに向けてそう言った。お言葉に甘えて室内へ足を踏み入れる。自分にも珈琲をくれと香坂に頼み、テレビのスイッチを押した。

「ほれ」

「サンキュ」

手渡されたそれに短く礼を言い、一口飲み込む。牛乳と砂糖がたっぷりと入ったこんな物ばかりを飲んでいると、糖分過剰摂取による糖尿病にでもなってしまうかもしれないと思いながら。

「あれはどうした」

再び雑誌に視線を移し、香坂が言う。

「あれって?」

「京のこと。随分てんぱってた割りには落ち着いてんだな」

「あー、あれね…」

昨日の件を思い出し、苦笑が浮かぶ。

「まだ耳には入ってないみたいだけど…」

「そうか。まあ時間の問題だけどな。いっそのことこっちから言ってやろうか。楓は俺の色だって」

「色って…。ヤクザか…」

「随分なプレイボーイぶりだな。噂の中の俺は」

「聞いた?」

「拓海にな。本命の女と遊びの女が何人かいて、そんで男の楓にも手出してるらしいじゃん」

そんな言われようにも関わらず、香坂はくっくと笑った。噂を信じるようなタイプではないから、一種の余興のように楽しんでいるのかもしれない。

「らしいな。いつの間にか俺は男妾だ」

「言わせとけ」

「別に気にしねえけど」

しかし噂している一年はこう思っているのだろう。香坂先輩に本気にされていないのに、俺ばかりが本気になって可哀想、と。事実は異なるのに、そんな風に憐れまれるのはごめんだ。

「ま、昔の香坂を思えば噂も大概嘘ばっかりじゃないだろうけど?」

「…昔の話だろ」

中等部の頃、俺たちの中でも似たような噂がなかったわけではない。香坂涼という男はその持ち前の甘いマスクで女を口説き、一週間と続かない。次から次へと標的を変え、堕ちない女はいない、と。
そんな男前なら一度は拝んで自分にもその才能を分けて欲しいと思ったこともあった。
蓮に夢中で、そんな噂に真剣になるほど馬鹿な自分ではなかったけれど。
兎にも角にもいい意味でも悪い意味でもこの男は人目を惹き付ける。それに伴い噂が流れるのも仕方のないこと。人の口には戸は立てられないのだ。

「仁と、それから柴田辺りも噂の標的になってるらしいけどな」

「柴田?」

「柴田と三上な。目を合わせると殺される、とか?」

香坂はにやりと笑い、愉快と言わんばかりだ。

「んじゃ俺はとっくに死んでんな」

確かに柴田も三上も凶暴かもしれない。売られた喧嘩は即買うような奴らだ。しかし、だからと言って意味のない殴り合いを好むようには思えない。時と場合により、だ。

「一年も高等部に入ったばっかりで色々楽しんでんだろうけど、噂される方はたまったもんじゃない」

鬱憤を香坂へぶつければ、まあそれもいいじゃないかと余裕たっぷりの返答だ。
浅く溜め息を零す。この男の神経は怖ろしいほどに図太い。他人が自分をどう評価しようと、俺は俺だと胸を張って言えるくらいには。
勿論、噂の類には興味など示さないが、香坂のせいで自分も噂の餌食にされていると思うと、腑に落ちない。
平凡で、これと言った特徴も特技もない自分が、香坂の男妾と囁かれているのだから。

「あ、そういえば昨日弟君が部屋に来てさ」

「お前の部屋?」

「そう、すぐ帰ったけど。なんか、わけわかんねえこと言って帰ってったぞ」

「何?」

「弟扱いすんじゃねえとか、名前で呼べとか…?」

言えば、香坂は一瞬目を丸くして俺を見詰めた。

「…なんだよ」

「いや。珍しいと思っただけだ」

「何が」

「あいつが人に名前で呼べなんて。気に入られたんだな」

「はあ?俺が?」

「ああ。対して仲良くない奴に気安くされるの嫌うんだよ。名前で呼ばせるのは特別、なんだとよ」

「ああ、そんなこと言ってた」

「よかったな、気に入られて」

浅く笑いながら香坂は言うが、それが本当ならば余計に面倒なことになる。
仮に弟君が自分を気に入ったとすれば、兄貴とできあがっておりました、では益々嫌悪を示すだろう。

「お前の弟だけあって、行動も言動もわけわかんねえよ」

「そうか?わかりやすいだろ」

「さっぱりわからん」

「…あれだな、血は争えねえてことだな」

ぽつりと香坂は呟く。その言葉の真意が理解できず軽く首を傾げた。

「血?」

「鈍感なお前にはわかんねえか」

「なんだよ!はっきり言えよ!俺鈍感とかじゃねえし!」

「…その内わかんじゃん?」

「もったいつけんな!」

「楽しくなりそうってことだ」

雑誌に視線を移したまま、香坂はにやりと嫌な笑みを作った。この表情をしているときは、何か企んでいるときだ。

「…さっぱりわかんねえ…」

自分一人だけ取り残されたようで納得はいかないが、これ以上香坂を問い質しても答えはくれないだろう。
香坂の言葉の意味を理解することを諦めた俺は、珈琲を飲みこみながら頬杖をついた。

「京に知られたときのフォローは俺に任せとけ。どうせお前はてんぱって上手いこと言えねえだろうし」

「…お前だって上手いフォローなんてできねえだろ。どうせ男を好きになって何が悪いって言うに決まってる」

「ご名答」

「んなこと言われたって弟君が納得できるわけねえだろ。フォローなんて期待してないけど」

「大丈夫だ。こっちには最終兵器がある」

「最終兵器?」

「仁だよ。あいつが言えば京は大人しく言うことを聞く」

香坂の言葉になるほどと納得した。柴田と同じように弟君も木内仁崇拝者だ。神のように木内先輩を崇め、一生ついて行きますと言わんばかりに。男に惚れられる男が真の男なのかもしれないが、木内先輩も面倒事に巻き込まれては可哀想だ。

「木内先輩、ねえ…」

確かに木内先輩とゆうきが交際しているという事実を聞いても、然程弟君は動揺していなかった。仁兄がすることに間違いなどあるわけがないと、どこから湧いてくるのかもわからない自信で溢れていたからだ。しかし、それは飽く迄も他人だから言えること。実の兄となれば、話は別になる。
そこら辺を香坂は理解しているのだろうか。

「あんまり考えんなよ。考えたってしょうがねえだろ?」

「って言われてもなあ…」

「こっちは十年以上京の兄貴やってんだ。お前は黙ってことの成り行きを見てればそれでいい」

「…俺に火の粉が来なければそれでもいいけど、もしかしたら俺のとこに殴り込みに来るかもしれねえだろ」

「そんときゃ一発くらい殴られとけ」

「それが恋人に言うセリフか!」

「女じゃねえんだ。それくらいいいだろ、別に」

その返答に見せ付けるように溜め息を吐き出す。俺が守ってやるとか、そんな類のセリフを香坂に期待しても無理ということだ。
別に、女のように大事に守られていたいわけではない。そんなの男として恥ずかしいとすら思うし、男として対等に接して欲しい。
けれども、一大事でこちらが頭を悩ませているのだから、安心できるような一言くらい言ってくれてもいいと思うのだが。
鷹揚に構える香坂には動揺など一ミリも感じられない。最悪のパターンを想像し、その中で悶えている自分とは対極の場所にいる。
何故そんなに平静でいられるのか、こちらとしては不思議で仕方がない。

「でもさ、弟君にばれて、そっから綾さんの耳に入ったりとかしたらさー…」

テレビから香坂に視線を移し、小さくぼやく。

「そんときゃそんとき。どうにかなんだろ」

「どうにかなったら人生こんなに苦労しません」

「お前も小せえことでよく悩むよな。どっしり構えとけよ」

「すいませんね、小心者で。俺は誰かさんみたいに俺様でもなければ図太くもないもので」

「また一人で突っ走ったりすんなよ。面倒くせえから」

「言うに事欠いてそれか!」

「俺の家族に関しては俺がちゃんと面倒みるって言ってんだよ」

「…だったらいいんですけど。信用できないもんで」

「俺はお前ほどアホでも馬鹿でもねえよ」

「お前っ――」

自分は馬鹿でも阿呆でもない。ただ、繊細な、硝子のような心を持っているだけだと主張したかったが、言葉を呑み込んだ。こいつに何を言っても仕方がないという諦めのようなものだ。
いい加減一年近く付き合っていれば、香坂という男がどういうものかというくらい、多少なりとも理解しているつもりだ。

そう言えば、交際を始めて一年が経とうとしているのだと、改めて実感した。
別に、普通のカップルではないのだから、一周年記念など面倒なことをやりたいなど言わないし、やるつもりもないのだが、一年もこの男に振り回されて生きてきたのかと思うと、感慨深いものがある。

色々あったなあ…と、走馬灯のように思い出が巡る。
一年の間に十年分くらいの苦労をしたような気がするし、色んな感情を知り、色んな経験をさせてもらった。
それも東城に入らなければ、風紀委員に入らなければ、すべてなかったことかもしれない。

他の学校へ入学していれば、今頃の俺は可愛い彼女の一人や二人、できていたのだろうか。
できれば、人生の選択肢としてそちらを選びたいところではあったが、この一年がお粗末だったかと問われれば、はっきりと首を横に振るだろう。
貴重な一年であり、人生の分岐点になったような気もする。運命の相手が香坂かどうかなどわからないが。
テレビを見ながら、そんなことをぼんやりと思った。

「…一年って早えなあ…」

「…何親父くせえこと言ってんだよ」

「あ、俺口に出てた?」

「ああ。ちなみに、お前は他の学校に行ってたとしても彼女はできてないと思うぞ」

「うるせえな!」

香坂には思い出に浸るという感情はないのか。
俺と付き合って一年。その一年を振り返り、これからも一緒にいようと契りを交わすとか、そういう女が好むような恥ずかしいイベントも平然とやってのけるように思えたが、そうではないらしい。
香坂は見た目に反して意外にも不精だ。
これでよく女にモテたものだと思うが、その見た目を思えば不精であることくらい、別れる原因にはならないだろう。
女性は香坂を一種のブランドと思い、自分を着飾るアクセサリーを身につけるようにして連れて歩いていたに違いない。
香坂の過去の女たちも想像できないだろう。今や男の俺と絶賛交際中など。

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