3
つい先日まで使用していた寮塔へ向かい、薫と弟君の園となっているであろう部屋の前、深呼吸を繰り返した。
扉の隙間から、黒く、重い空気がこちらまで伝わってくるような気がするのは、きっと気のせいではないと思う。
香坂はそんな様子にも気付くことなく、扉をノックした。
「…なんだよ、兄貴かよ…」
数秒の間の後、扉から顔を出したのは弟君の方で、口ではそんな風に言うが、香坂の顔を見て明らかにほっと安堵しているのが窺えた。
「おう、片付け進んでっか?」
「ぼちぼち。なんだ、あんたも来たのか」
香坂の後ろからちらりと顔を出せば、悪態をつかれる。
恐る恐る室内を覗けば、服を畳む薫と視線がぶつかった。
「楓ちゃん!」
薫は主人を見つけた犬のようにこちらに近付くと、俺の腕をぐっと引き室内へ招いた。
「心配して見に来たの?」
「いや、別に来たくはなかったけど、兄の務めと言いましょうか、なんと言いましょうか」
「どうせだから片付け手伝ってくれてもいいよ」
「結構です」
中はまだお互いの荷物が散乱しており、ゆっくりと寛げるスペースはなかった。
元々、室内は狭いし、片付いたところで寛げないけど。
それにしても、数日見ないだけでも数年は帰っていない自室に戻った気分だ。
ずっと、中学の頃からこの狭い部屋で友人と過ごしていたのだから、懐かしくないわけがない。
薫のベットに腰掛ければ、香坂が隣に着いた。
弟君は一度溜め息をつくと、対峙する自分のベットに座り、そしてちらりと薫に視線を移した。
「なあ、これって嫌がらせ?」
弟君は趣旨は伏せたが、言いたいことはわかっている。
俺だって、一種の嫌がらせと解釈している。
「嫌がらせってなんだよ。俺が可愛い弟をいじめると思うか?」
「思う」
「おい即答かよ。偶然だ、偶然」
この嘘つき野郎。心の中で悪態をつくと共に呆れた。
「なんだ、僕も香坂さんの差し金かと思ったよ」
「薫まで俺を悪者にする」
「そんなことないけどさ、ちょーっと頭の足りない彼の家庭教師を僕にして欲しいのかと思って」
「してくれるならお願いしたいけどな」
「おい、頭が足りねえって俺のことかよ」
「君以外にこの部屋にいる?」
「お前さ…」
「ストップ!喧嘩はやめましょうね…」
ほら。俺が思った通りだ。
誰しもが簡単に予測できる範囲だ。薫と弟君の性格が絶対に合わないということは。
「喧嘩したくてしてるわけじゃないんだけど、なーんかつっかかって来るんだよね、彼」
「お前の言い方が悪いからだろ。毒舌直せ」
溜め息混じりで言った。
「毒舌?正直者って言って欲しいな」
ああ、ダメだ。我が弟ながらダメだ。我が道を行く薫にはどんな助言も戯言だ。
「一年間同じ部屋なんだし、仲良くしてやってくれよ、薫」
「香坂さんの頼みならしょうがないかなー。ほら、僕は仲良くしてあげてもいいけど、彼がね…」
「してあげても?お前何様だよ」
「薫様?」
「ふざけんな!誰がこんな奴と仲良く同室なんてできっかよ!」
弟君の言い分も一理ある。
自分がもし薫と赤の他人だったならば、仲良くしたいなど思わない。というか思えない。
「京もいつまでもガキみてえなこと言ってんな。俺らだってずっと中学から誰かと一緒に生活してきたんだぞ」
「兄貴はいいじゃん。拓海さんと一緒だったんだし。俺なんてこいつだぞ!?ありえねえだろ!」
「東城を選んだのはお前だ。我慢しろ」
弟君に土下座をして謝りたい。うちの薫が大変お世話になりますと。
薫の棘のある言い方では誰だって不快になる。
弟君なら尚更だろうし、薫のせいでストレスを抱えた学園生活になってしまう。
「こんなことなら家から近い高校行くんだった」
お気持ち察します、弟君よ。
「それより楓ちゃん部屋番号教えてよ。遊びに行く」
「あー、二○四号室」
「いつでも行っていいでしょ?」
「いいけど…」
弟なのだから、拒否する理由はない。ないけども。
友人には極力会わせたくない。友人に対して何を言い出すかわからない。
友人に向かって暴言を吐くような、空気の読めない弟ではないと思うが、裏で何を考え、誰をどう利用するかもわかったものではない。
友人は危険な目に遭わせたくないだろう。
こいつは動く兵器だ。
「薫、新入生代表だったんだろ?」
「あー、うん。なんか面倒な挨拶頼まれて嫌んなっちゃったよ。こんなことならちょっと手抜くんだった」
きっと薫のことだから、そつなくこなしたのだろう。真面目ちゃんの猫でも被って、三年間学業に励むことを宣言したに違いない。
「京も見習って勉強しろよ。ひでえ成績だったらまた綾に怒られんぞ」
「俺だってやればできんだよ。高校からは難関って言われてる東城にだって受かったんだ」
いや、それは裏口ですよ。とは言えない。実力で受かったと思っている弟君に、現実を見せるのは酷だ。
「君の場合はコネがあるせいじゃないの?実力とは思えないけど」
「お前、本っ当にいちいちむかつくよな!事ある毎に突っかかってきやがって」
「本当のことだから」
「一発殴りてえ…」
「頭が足りない人ほど暴力に物を言わせるよね?」
「…マジで殴っていい?こいつ」
「ひどい弟ですが、暴力は勘弁してやって下さい…。たぶん負けると思うんで。いや、絶対負けるんで…」
身長差、体格差、経験、暴力になれば薫は勝てない。
そんな細い腕の薫が弟君に本気で殴られたら、骨の一本や二本ではすまないかもしれない。
どうか、穏便に過ごしてもらいたい。
薫の性格が最悪なのが元凶だが、捻くれた性格は一朝一夕では直らない。
弟君には申し訳ないが、大人になって耐えてくれるとありがたい。
「京も薫も、喧嘩腰はやめて仲良くしろよ。俺らみたいに」
「香坂さんと楓ちゃんみたいな関係は無理だけどね。まあ、同室者としてならね」
「薫!」
「なに」
「なにじゃなくて…!」
しれっとする薫の性格の悪さに兄でも辟易とする。
香坂との関係は弟君には絶対に知られたくない。
そんな世界など知りもしないのだろうし、兄の恋愛事情を知ったら卒倒してしまうかもしれない。
大きなショックを受けて、精神的ダメージのせいで食も喉を通らない可能性もある。
誰だって嫌だろう。兄が男と付き合っているだなんて。薫が特殊なだけで。
「はいはい、わかってますよ」
本当にわかっているのか疑問だ。
それをネタに更に弟君を虐めるのではないだろうか。
香坂ではないが、できるなら薫にフォローを頼みたい。
仲良くなんてしなくてもいいから、もし知られたら相談役にでもなってくれれば。
なんて、虫がいい話だし、薫には無理か。
しかし、東城に入学した限り、俺たちの噂を聞く日は来ると思う。
香坂は東城の中での知名度は最高峰だろうし、色んな噂だって度々耳にする。
嘘か誠かは知らないけど。
だから、きっと新入生の間でも話題になって…ああ、怖い。
「じゃ、俺らはそろそろ行くか。片付けの邪魔しちゃ悪いしな」
「うん、そうしようそうしよう」
一刻でも早くここから脱出したい。
「もう帰っちゃうの?手伝ってくれてもいいのに」
「だから嫌だっつーの。それくらい自分でやれ。いつまでもお兄ちゃんを頼んなよ」
「だってお兄ちゃんってそういうときに使うためにいるんでしょ?」
「…お前、俺をなんだと…」
薫の性格は相変わらずで、怒りよりも呆れ、そらにそれも通り越し、また一周して呆れる。
誰が薫をこんな風にしてしまったのか。
「薫、俺の部屋にも遊びに来いよ」
「うん!香坂さんがいいならいつでも行きます」
「おう。じゃあな。京も、あんま薫と喧嘩ばっかしてんなよ」
「こいつの態度次第だよ」
「愚弟がお世話になります」
最後に弟君にぺこりと頭を下げ、漸く二人の魔の巣から解放された。
扉を閉めると、盛大な溜め息が自然と漏れる。
寿命が縮まった気分だ。
「…だから同室になんてすんなって言ったのに。絶対あいつら無理だって」
「どうにかなんだろ」
「無理無理。備品とか壊すって」
「考え過ぎだ」
「自分だけでもいっぱいいっぱいなのに。八割薫が悪いけどさ」
本当に弟君には同情する。
なんなら部屋を替わってやりたい。
しかし、どう足掻いても一年間同室で、余程のことでもない限り部屋替えはない。
弟君が香坂や木内先輩に限界だと泣き付いたところで、こいつらの場合はそれをおもしろがるような性格だ。
仕方がないから、定期的に部屋を訪ねて、二人の関係を良好にしていくように努力をしよう。
薫の魔の手から弟君を庇ってあげなければ。
香坂は全然当てにはならないし、自分だけでも弟君の味方になってあげよう。
お先真っ暗って、こういうときに遣う言葉だったんだ。
そんなことを思いながら、部屋まで送ってくれた香坂に軽く手を振り別れた。
[ 100/152 ]
[*prev] [next#]