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「楓のばーか…」
部屋に入って早々に香坂は悪態をついた。
憎まれ口を叩かれるのは慣れているものの、一々反論してしまう俺も俺だ。
「俺のどこが馬鹿だこら」
「全部だアホ」
「アホじゃない!」
「なんで母さんの肩持つんだよ」
「だって普通におめでたい話じゃん」
「いや、そうだけど…」
香坂はソファに着き額に手を添え、今日何度目かの溜め息を零した。
あまりにも不憫なその姿によしよしと頭を撫でてやる。
逆の立場ならば素直に喜べない気持ちもわかる。
「俺の親はセックス馬鹿か?」
「いや、ラブラブなだけだろ…お前だって三十になっても四十になっても現役っぽいじゃん」
「まあ、そうかもしれねえけど…」
「いいじゃん!喜んでやれよ!綾さんも息子に喜んでもらえないのは悲しいと思うぜ?」
「気にしてなさそうだけど」
「んなことねえよ!もしかしたら女の子かも!妹とか可愛いだろ?」
「…可愛いな…」
「だろ?」
「…可愛いわ…」
何を想像しているかは知らないが頭上の大雨がにわか雨くらいにはおさまった。
「悪いことばっかじゃねえだろ?」
「まあ、そう言われれば…多少ひっかかるけど…」
「頑張れ香坂。最早現実を受け止めるしか道はない!」
「俺はともかく、京がな…一番多感な時期にこれは辛いだろ」
「受験に響いたら可哀想だな」
「薫くらい肝が据わってればな」
「それはそれで恐ろしいけど…弟君も大丈夫だよ!その内慣れるって!」
「だといいけど…」
弟君だってきっとわかってくれる。
今はまだあまり受け入れられなくとも、生まれてきた子供を見れば、すぐにそんな小さな問題など忘れてしまうと思う。
赤ん坊にはそれほどの力がある。周りの世界すべてを幸せにしてくれる力が。
「俺めっちゃ楽しみ。女の子でも男の子でも可愛がる!」
「男だったら生意気になるだろうな」
「女の子でもじゃね?」
「あー…女だったらおしとやかで純情な子になって欲しい」
「綾さんに似て可愛いんだろうな」
「俺に似てたらどうする」
「えー…ちょっと可哀想」
「どういう意味だお前」
「はは」
「…なんか、お前がそう言ってくれるとへこむのも忘れるな」
「へこむことなんてないじゃん!もっと深刻な悩みでもあるのかと思って損した」
「俺にとっては深刻だ」
「こんなに幸せなこと滅多にないし、喜べよ。お前も本当は嬉しいんだろ?」
「まあ、嬉しいけど…」
「歳が離れてるし、自分の子供みたいなもんじゃん!」
「お前との子供だったら死ぬほど喜んだんだけどなー」
「俺は産めませんから!」
「いや、もしかしたら産めるかも。頑張ったら」
「気合でどうにかなる問題じゃねえよ馬鹿」
香坂の頬を軽く抓ってやればその倍の力で抓り返された。
痛いと声を上げて見詰め合って、笑いあった。
「俺も風呂入ろー」
「じゃあ俺最後でいい」
香坂はクローゼットからパジャマを取り出し扉に手をかけた。
一度こちらを振り返り、お前が楽天的なアホでよかったと言葉を残して。
どういう意味だと反論したかったが、扉の向こうに吸い込まれた香坂には届かない。
ソファの上腹ばいになってテレビに視線を移す。
こうしていると睡魔が襲ってくるが、風呂に入るまではと、無理矢理に瞼を押し上げた。
「兄貴ー」
ノックもなしに弟君が扉から顔を出した。
「香坂は風呂だぞ」
「あー、あんたしかいねえのか…」
「すいません、俺しかいなくて…」
「…ま、いいや」
香坂に用事があったのだろうが、弟君はそのままラグの上に腰を下ろした。
風呂から戻るまでここで待つつもりかもしれない。
二人きりというのも会話が見付からずに気まずいが、だからと言って追い払うわけにもいかない。
「あのさ…」
テレビを眺めていた弟君が静かに口を開いた。
「なんだ?」
「…あんたは嬉しい?」
「…赤ちゃんのこと?」
「そう…」
「嬉しいに決まってんだろ。めでたいことだし」
「…そっか…」
いつもは威勢が良すぎるほどに喰いかかってくるのにこんな風にしおらしいのは珍しい。
相当落ち込んでいるのだろうか。こんな姿を見れば可哀想になってしまう。
「弟君は嬉しくない?」
「…別に、んなことねえけど…」
「きっと可愛いぞ。赤ちゃん。弟君も、兄貴になるわけだし」
「俺が…」
「そうそう、香坂もお兄ちゃんだけど、弟君もお兄ちゃんになれるんだぞ?」
末っ子というのは、弟や妹が欲しいものだろうと、励ますつもりで言った。
すると弟君は暫く考え込んだ様子だったが、俯きながらこっそりと微笑んだ。
どうせ頭の中ではこき使えるとかそんな悪巧みをしているに違いないが。
「それにさ、香坂にも言ったけど、女の子とかだったら可愛いだろ?」
「…どうだろな」
「お兄ちゃん二人が喜んでやんねえと、赤ちゃんも可哀想じゃん」
「…まあ、そうだけど…」
「素直に喜んでやれよ。綾さんのためにも」
「…なんか、あんたに言われるとむかつく」
「は?」
「上から目線でむかつく」
「言ってくれるじゃないか、弟君よ…」
「あーあ、なんか、あんたと話してると悩んでた自分がアホらしくなるわ」
君達兄弟は何故二人揃って同じようなことを言うのか。
俺は俺なりに、落ち込んでいるのは可哀想だと同情した上で励まして差し上げてるのに、そんな言い方があるだろうか。
いつだって貧乏くじを引くのは自分だ。
「…東城に入学したらいじめてやる…」
「心の声が漏れてんぞ」
「あ、つい…」
「あんたなんかにいじめられるほどひ弱じゃないんで。残念ながら」
「じゃあ木内先輩に告げ口すんぞ」
「…あんた仁兄と仲いいの?」
「まあ…普通に…」
正しく言えば、俺のお友達がそれはそれは仲がいいわけで、俺はあまり話しもしないが。
「仁兄には言うなよ」
「あれー、もしかしてびびってます?」
「んなわけねえだろ!」
「ぷぷぷ、木内先輩は恐いわけか…」
「うるせえな!」
なんて弟君をからかっているが、正直自分も木内先輩は恐い。何をされるわけではないとわかっているが、あの威圧感に身体が固まってしまう。
敵意を向けられていなくとも、その存在が既に悪だ。肉食獣に目をつけられた草食動物のようになる。
普通につきあっているゆうきや、木内先輩に遠慮せずおねだりができる景吾を心の底から尊敬する。
「入学できたらのはなしですけどねー」
「あんたでもできんだから大丈夫だろ」
「だからね、俺もね、必死に勉強したのよ?」
「俺だってしてる」
「ま、精々落ちないように頑張りな」
「…マジでむかつく…」
ぎらりと弟君の瞳が鋭くなったが、こちらは年下相手だからと余裕をかました。
ふと弟君の視線が俺から離れ空を見詰めた。
「…あんたさ、よく泊まりに来てるけどさ…」
「なに?」
「いつもどこで寝てんの?」
「どこでって、ベットで」
「兄貴と一緒に?」
ぎくりと胸が跳ねた。やましい関係でなければ平然と返せた答えも、不埒な関係だからこそ口を割って出ない。
「まあ…」
「男二人で?」
「…だって広いじゃん?」
「そうだけど、なんか気持ち悪くね?」
確かに一般的にはそういう感想を持つだろうが、こちらは中学から東城で、蓮と同じベッドで眠ることも多かったし、そんな常識はすっかり何処かへ置き忘れていた。
「…いや、なんか布団用意させるのとか悪いし。端に寄れば平気だし…」
「ふーん…」
ただこれだけの会話で俺と香坂の関係を疑われたりしない。わかっているが、こちらは冷汗が止まらない。
いつかは知られることだ。
香坂はそんな風に言うが、こちらとしては一生知られたくない。
母親の妊娠ですらこんなにショックを受ける弟君だ。俺と香坂の関係を知ったら卒倒してしまうかもしれない。
俺と香坂は好き合っていて、自然と恋人同士になったけれど、外の世界ではそんな言い訳が通用するわけがない。
薫のように頭のネジが二、三本外れていれば別だが。
「ま、いいや。じゃ、俺部屋に戻る」
「香坂に用があったんじゃねえの?」
「いや、もういいや」
「そうか。頑張れよ、受験生!」
「あんたが言うと嫌味にしか聞こえない」
「嫌味だし」
「ぜってー入学してやる!見てろよ!」
捨て台詞のようにこちらを指差しながら叫んだ弟君は、大袈裟な音をたてて扉を閉めた。
香坂に比べれば、弟君なんて可愛いものだ。
確かに見た目は大人びているが、中身はただの中学生だ。
暫くすれば香坂が戻ってきた。入れ違うように自分もバスルームへ向かい、一日の疲れを癒す。
部屋に戻り他愛ない話をして、一つのベットに潜り込む。
何度となく繰り返してきたことだが、こうして共にいられる喜びを今は余計に感じてしまう。
隣にいるのが他の誰でもなく香坂ということに、とてつもなく喜びを感じる。
豆電球すらついていない真っ暗な闇の中で、仰向けになる香坂に身体ごと向きかえった。
「さっきさ、弟君に一緒のベットで寝てんの、って聞かれた」
「へえ」
興味なさげな返答に、眉間に皺が寄る。
香坂は考えが足りないときがある。無駄な問題は考えても仕方がないと言うけれど、こちらはそこまで肝が据わっていない。
「へえじゃねえよ。マジでばれないようにどうにかしようぜ」
「…別に、いいだろ」
「よくない」
「隠す必要なんてない」
「それじゃ社会ではやっていけないでしょうが!」
「そんな社会はいりません」
「…俺様は世間に対しても俺様ですか…」
「…俺は、お前のことを好きでいるのは恥ずかしいことじゃないし、何で隠さなきゃならないって思う。それだけだ」
「それは…」
嬉しい。素直に、とても嬉しいことだ。
けれど、だからといって大っぴらにできるような関係ではないのだ。
これが、どちらかが女ならば何の問題もない。けどそうでないから困っているのに。
俺だって香坂を好きでいる自分は嫌いじゃないし、開き直る覚悟もできている。
しかし俺たちの関係が誰かを苦しめたり、悲しませたりするならば、自分の我儘だけでは通らない道もあると思うのだ。
「京も本当に好きな奴ができたらわかる。最初は戸惑うだろうけど」
「ちゃんとフォローしてやれよ?」
「さあな」
「悪い兄貴だな」
「お互い様だろ?」
微笑んだ香坂に自分もこっそりと笑みを零し、布団の中でどちらともなく手を繋いだ。
触れ合っていないと気が狂いそうだなんて、いよいよ自分も病気に侵されたのかもしれない。
「京のことは心配すんな。あいつは大丈夫だから」
「…だと、いいけど…」
「それよりも綾を心配してやれ。俺も京も何もできねえけど、お前なら色々手助けできんだろ?」
「俺ができることはする。絶対可愛い女の子だもん」
「男だったらどうすんだよ」
「それはそれで可愛がる」
「どっちが兄貴だかわかんねえな」
「香坂と血が繋がってんだから、可愛くないわけがない」
「遠まわしに俺が可愛いって言ってんのか?」
「だといいんですけどね。可愛げゼロな香坂君なんで」
「それもお互い様だ」
闇に包まれたままベットの中で他愛もない話しをする時間が好き。
情熱的に身体を重ねなくとも、穏やかで優しい雰囲気に包まれている時間が好き。
触れるだけのキスをして、目が覚めてもそこにいてくれる安心感で満たされる。
香坂を想って眠れない夜を過ごしてきたからこそ、与えられた感情なのだ。
「明日は朝から起きて綾さんの手伝いしなきゃ…」
重くなる瞼に逆らって、どうにか口を開いた。
「…そうだな…」
香坂が額に小さくキスをくれて、おやすみと囁いてくれたがそれに答えられたか覚えていない。
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