Episide17:青い鳥

最近の香坂は溜め息ばかりだ。
纏っている空気も凛としておらず、どんより雲がかかっている。
体調が悪かろうとも常に背筋を伸ばし、隙など一切誰にも見せない男がこんな有様だ。
友人は口々に何があったのかと俺を問い質すが何も知らない。
始めは何かしてしまったのかもしれないと多少焦ったが思い当たる節はない。
心配していたのも数日。最近では鬱陶しいと感じるようになってきた。
我ながら優しくないと思いつつ、どうせ聞いても何も話さないのだろうし、それならば放っておこうと決めた。

「…はあ…」

隣で溜め息をつかれれば飯もまずくなるというもの。
紆余曲折あってこうして一緒にいられるのだから、少しは楽しそうにしてくれてもいいのではないだろうか。
カレーライスを掬ったスプーンを口の中で遊ばせたまま、器用に携帯を操作する。
そこには香坂がアメリカ土産に購入してくれたストラップが揺れていた。

三学期に入り、暫くの間は香坂も普通だった。何も変わらず、いつもの俺様ぶりを発揮していた。
よりを戻して、優しくしてくれてもいいのにこいつのひん曲がった性格はそんな理由では直らないらしい。
それに呆れつつも、これでこそ香坂だと認める自分も存在していた。
それが一ヶ月程経ったあたりからこの調子だ。
いい加減、コケでも生えてしまうのではないかと思う。

「…なあ楓」

「あんだよ」

「週末さ、呼び出されてんだけど、お前も一緒に来ねえ…?」

「実家?」

「そうだ」

「なんで俺も…?」

「一人ではショックが大きすぎるから」

「わけわかんねーけど、面倒くさそうだからやだ」

「冷たい奴…無理矢理連れて行くけど」

ならば最初から聞くな。拒否権がないならば問いかけるな。
何度も忠告したのに香坂は覚えていない。
その性格にもすっかり慣れてしまい、文句を呑み込み代わりに小さく溜息を零す。

「面倒くせえな…」

「俺が一生で一度しか使わないお願いだ」

「何度も聞いてるっつーの!」

「いや、マジで…」

憎たらしくニヒルに笑って返されるかと思えば、意外なほど香坂は真摯だ。
本当に何か深刻な出来事があったのかもしれない。例えば、弟君や綾さんが病気になったとか。
想像すると自分も段々胸がそわそわしてくる。
香坂が大切にしているものを失うのは辛いし、悲しむ香坂を見るのも勘弁だ。
助けを求めているのならば、ここは支えなければ恋人として失格ではないか。
それが義務のように感じられ、責任感が強い性格も仇となり、わかったと返事をする。

「…金曜の夜に出るぞ」

「わかった…ってかお前、マジで大丈夫か?飯はちゃんと食えよ?」

「食ってる…」

「いや、食ってねえよ」

それに、あの香坂がここのところ部屋に呼び出さない。身体を求めようともしないし、キスも要求してこない。
これは重症だとわかっていながらも、誰にも頼ろうとしないから見守るしかできない。
だからといって、やたらと一緒にいようとするのも嫌がるだろうし、今は好きにさせるしかない。
お陰でこちらは友人との時間を充分に取れるしこれといった不自由もしていないけど。

兎に角、香坂が悩んでいる種が週末になればわかると思えばそれでいい。
その重大さにより、対処をすればいい。一緒にいるだけでもいいのだと、そんな風に驕ったりはしないが、何かしてやれることもあるだろう。
こんな香坂は見たくないし、こんなの香坂涼ではないと思う。
元気になってもらわなくては困るのは、俺も同じだ。
小さく吐息を零し、隣の香坂をちらりと睥睨した。

そして約束の週末、六時にロビーで待ち合わせというメールを確認し、簡単に泊まる準備をした。
ロビーに向かえば、香坂の姿が既にあった。
どうやら今日は電車で行くらしい。
駅までの道中、香坂は益々落ち込んだ様子だ。キノコの一つくらい生えているかもしれない。
梅雨でもないのに、じめじめとした空気が気持ち悪い。いかんせん短気な性格からいって、鬱陶しいと言葉にしたいところだが今は耐えよう。
香坂のためだと思って。出掛かっている言葉を一生懸命呑み込む。

電車に揺られ、香坂の実家のインターフォンを押す。すぐさま綾さんの活発な声が響き、どうやら病気という線はなさそうだと安心した。

「いらっしゃーい!楓君、待ってたわよー」

「ども、お久しぶりっす」

「さ、入って入って!」

綾さんは常に明るく聡明だが、今日は一段と機嫌がいいように見える。それに相反して、香坂の機嫌は悪くなる一方ではあるが。
リビングに通されると、珍しくソファの上に弟君の姿があった。雑誌を広げて、挨拶もなしにこちらを一瞥しただけだ。

「楓君温かいの欲しいでしょー?」

「あ、すいません、いただきます…」

「涼はー?」

「いらねえ…」

「あ、そう」

折角家族が揃ったにも関わらず、香坂兄弟の放つ雰囲気はどちらも重い。
これは想像以上に辛い出来事でもあったのかもしれない。
綾さんはそれを隠すために、無理に明るく務めているのかも。
もしかしたらおじさんに何かあった?
アメリカに単身赴任だし、あちらは日本と違い治安の悪さと戦わなければいけないだろう。
様々な出来事を頭の中で妄想し、項垂れる。果たして香坂の支えになれるだろうか。

「はい、どうぞ」

「あ、すいません…いただきます…」

目の前に差し出されたコーヒーに、綾さんにぺこりと頭を下げた。
それにしても綾さんの機嫌は最高潮で、何か悪いことがあったとは、到底思えないのだが。
しかし、この兄弟を見れば…。首を捻りながらコーヒーを啜った。

対峙するソファに着いた綾さんは、傍らに置いてあった編み物を取り出した。
可愛らしいものが大好きな綾さんは、編み物もするのだろうか。これは新たな発見だ。
お金ならいくらでもあるのだから購入した方が早いのではないかと思うが、女性らしくて好感が持てる。
うちの母親なら、絶対にしないような繊細な作業だ。

「…何編んでんすか?」

何気なく口にした途端、弟君に思い切り睨まれてしまった。
しかしそんな弟君の狂気を孕んだ雰囲気も気にせず綾さんは口元で笑った。

「楓君聞いてない?涼から」

「…なにも」

「そう…これね、帽子を編んでるの」

語尾にハートマークでもつきそうだ。香坂兄弟のために編んでいるのだろうか。だから、兄弟揃って不機嫌なのか。
もしくはおじさんへ?仲のいい夫婦だから、有り得る。

「あ、そうなんすかー」

「そう、まだ気が早いんだけどねー…」

気が早い?今は冬真っ只中だし、早くはないと思う。むしろ遅いといった方が。
ぽんぽんと頭上に疑問符が並んだ。
首を傾げれば、綾さんはとっておきの秘密を話すように笑った。

「実はね…赤ちゃんができたの」

「…はあ…」

「あれ?驚かないの?」

「……赤、ちゃん…」

「そう!赤ちゃんよ!」

「赤ちゃん……赤ちゃん!?」

「そうなのー、もう嬉しくて嬉しくて」

持っていたカップをソーサーの上に派手に置き、香坂を振り返った。
香坂は項垂れた様子で眉間の皺を摘んでいる。
今度は弟君に助けを求めれば、雑誌を千切れんばかりに握っていた。
どういうことだ?赤ちゃんって。綾さんいくつだ?いや、まだ三十代だし、高齢出産も最近では珍しくない。いや、問題なのはそこではなく。ああ、どこが問題なのだ。それすらわからない。

「今すくすくと育ってるのねー」

自分のお腹を擦りながら綾さんはうっとりと微笑んだ。

「いや!それはおめでたいことですけど!」

「でしょ?」

「ちょ、えっと…!なんか、頭が!頭がついていかないといいますか…!」

「あ、勿論パパとの子供よ?」

「でしょうけれども!えーっと!」

「今度は女の子がいいわ。一緒に買い物とかしたり、家事したり、きっと楽しいわ!」

「あー…綾さん似の女の子とかめっちゃ可愛い…って、そうじゃなくて!」

わけもわからずパニックに陥り、隣の香坂の両肩をがっしりと掴み首が折れんばかりに揺さぶった。

「なんで予め教えてくれなかったんだよ!」

「…言えるかアホ…」

「俺頭が!頭が割れるかも!あー!割れるー!」

「割れるならまだいいわ。こちとら事実を受け止めるので精一杯だ」

「いや、めでたいよ?めでたいけれども!」

「そうでしょー?おめでたいでしょー?」

「はい、おめでとうございます!っていうか、お前が最近鬱陶しかったのってこれか?」

「これ以外に何が…?」

一先ず冷静になって考えよう。すぐに慌ててしまうのは俺の大きな欠点だ。
そうだ、いつものように冷静になれ。いや、いつも冷静ではないけど。それは一先ず置いといて。
単純に考えても複雑に考えても、おめでたいことには変わりない。
新しい命が誕生して、香坂に兄弟が増えてこの家は賑やかになる。
弟君も東城に入学したら、綾さん一人だけでこの広い家に住むことになるし、これから香坂も弟君も自立しいつかは巣立っていく。
それならば、綾さんにとってもおじさんにとってもとても喜ばしいことではないか。
これは皆で手を叩いてお祝いしてあげなければいけない。
俺も素直に嬉しいと思う。女の子だろうが、男の子だろうが、赤ちゃんは無条件で可愛いのだ。

「わー…なんか楽しみになってきた」

「やーん、楓君嬉しいこと言ってくれるわ。涼も京も全然喜んでくれないんだもん」

「なんで?嬉しいことじゃん!兄弟が増えるんだぞ?」

香坂と弟君に向かって言えばお互い同時に溜め息を零した。

「それはな楓、他人事だから言えんだよ。よーく考えてみろ。お前の母親が妊娠しましたって言ったらお前、どんな気持ちだよ」

「えーっと…」

こんなときにこそ役立つ妄想癖。
もしも、自分の母親がある日突然妊娠しましたと笑顔で言ってきたら…まあ、多少へこむかもしれない。
嬉しいけれど、喜ばしいことだけど。
どういう過程を経て妊娠するかというプロセスをこちらはもう知っているわけで。
自分の母親と父親が未だにそんな関係でいるなど、想像したくもない。
ある意味辛い現実を突きつけられた気分になる。
絶望と幸福が同時にやってきて、今以上にパニックになるだろう。

「…まあ、わからなくないけど…」

「俺の気持ちが漸くわかったか」

「…でもさ、綾さんとおじさんは仲良しだし、なんか、見た目的にもまだまだ現役な感じだし、いんじゃね?」

それがうちのように中年のおばさん代表の母親と、生え際が後退してきた父親ならば、絵的にもどうかと思うが、綾さんとおじさんならば。

「だとしても自分の親だとそう思えねえだろ…」

「んー…まあ、そう、かな…」

「いいじゃないの。愛し合って結婚したんだから、いつまで愛し合っても」

「いいけど、いいけどさ…へこむわ、息子としては…」

「だって、私もパパもこんなに好きなのに離れ離れなのよ?たまに会ったらそりゃ、燃えるでしょ!」

「いや、そんな自信満々に言われても…いい加減卒業しましょうよ…」

「私はまだ若いわ!」

「親父もよくできたもんだな…」

「パパだってまだまだ現役よ!」

「あ、ちょっと待て。いらない想像しちまいそうだからストップ…」

「やだー、涼のエッチー」

「もう何とでも言え…」

なるほど、これは綾さんが浮かれるわけだ。
おじさんもアメリカという遠い地で、毎日にこにこ生活しているのが目に浮かぶ。
十五年ぶりの子供だし、間違ったら孫でもおかしくないが、赤ん坊ができれば親としては嬉しいだろう。生きる目標も失わずに済む。
しかし香坂と弟君を見ればお分かりの通り、またこんな性格の子供が生まれたらどうしようかと危惧する。血は争えない。まあそれも可愛ければ許される。

「ま、とにかくめでたいわけだし!」

香坂の背中を思いきり叩いた。気合いを入れる意味でも。
もっと、悲惨な出来事が起きたのではないかと心配していたこちらとしては、めでたい話しで安心した。そういう一大事ならば、いつでも大歓迎だ。
俺も綾さんと一緒に編み物でもしようか。
自分の兄弟ができるわけでもないのに、それ以上に嬉しくなる。

「綾さんも身体大事にして下さいよ。仕事も大事ですけど…」

「ええ、仕事は部下に任せることにしたわ。高齢出産だし、大事にしたくて」

「うん、それがいいですよ!俺も手伝えることがあったらやりますし!」

「まあ、楓君は息子よりも頼りになるわー」

「こう見えても家事はできるんで」

「楓君は本当にいい子ねー。もううちの息子になったらいいのに」

「…はは、ははは…」

嬉しいような、悲しいような、複雑な言葉だ。

「もう俺無理…風呂入って寝る…」

最初に音をあげたのは弟君だ。雑誌を閉じ、それを放り投げるとふらふらと覚束無い足取りでリビングを後にした。

「京ったら、ショックでご飯も喉を通らないとか言い出したのよ。失礼しちゃうわ」

「…まあ、思春期ですしね…」

思春期真っ只中で赤ちゃんができるというのは、想像以上にショックかもしれない。
そしてそれは香坂もしかり。

「勉強もしないで一日中だらだらしてるもんだから困ったわ。受験はすぐそこなのに」

「まあ、なんとかなる…と思いますよ。その内立ち直りますよ」

「だといいけど。涼は喜んでくれると思ったのに、涼も普通のお子様だったのね」

「アホ。俺だって思春期真っ只中だよ」

「あら、そうだったかしら。変に大人びているから忘れてたわ」

「…このやろう…」

香坂の放つ刺々しい雰囲気も物ともせず、綾さんは微笑んだまま指を忙しなく動かしている。

「悪阻とか大丈夫なんですか?」

「ええ、元々ない体質だから…けど、眠気が酷くて。一日中眠っても足りないくらい」

「そうなんすか…なんか、俺にはよくわかんないけど、無理だけはしないで下さいね」

「そうね。ありがとう。楓君だけだわ。私を心配してくれるの」

「俺と京の心配もしろ」

「あなた達はなんでもないでしょ?いい加減現実を受け止めてちょうだい」

母は強い。赤ちゃんを身ごもって、益々綾さんは強くなったような気がする。
他人の子供ですらこんなに嬉しいのだから、自分の子供となればその何十倍も何百倍も嬉しいことなのだろう。
幸せそうな綾さんを見ていると、こちらも幸福になれる。

「さ、私もお風呂入って寝ようかしら」

「おやすみなさいー」

「ごめんね、大したおもてなしもできなくて」

「全然!俺のことは気にしないで下さい!」

「ありがとう、楓君。ゆっくりしていってね」

ひらひらと手を振り、綾さんは編みかけの毛糸を持って自室へと向かった。
自分も笑顔でそれに応え、そして隣の梅雨真っ只中の男に視線を移す。
これをどう処理しよう。とても面倒だ。

「香坂、俺らも部屋行くか!」

「…ああ」

極力明るい声を発したがそれに釣られる様子もない。
キノコどころかカビでもはえているのではないか。香坂の頭上にだけ大雨が降っている。そのうち雷雨に変わりそうで恐い。
背中を丸めてしゃっきっとしない香坂に苛立つが、ここは俺が大人になろうと思う。

「さくさく階段はのぼりましょうねー」

後ろから香坂の背中をぐいぐい押した。
こうでもしないと、何時間かかっても階段を上りきってくれなさそうだ。
まるで介護をしているような気分だ。
できることなら放っておきたい。が、そうもできない悲しさ。

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