6
漸く自宅に帰ることを許されたのは、三十一日の大晦日だった。
何度帰るといっても、香坂に聞き入れてもらえず綾さんまでもが帰らないでと駄々を捏ねるのだ。
そこにおじさんも乗っかったものだから手に負えない。
綾さんの相手、おじさんの相手、弟君の相手、慣れない気遣いをしながら過ごし、へとへとに疲れ果てながら自宅の玄関を開けた。
「ただいまー…」
「おかえり楓ちゃん。やっとご帰還ですか?」
「おー…」
家の中には薫しかいない。
父と母は買い物にでも出掛けているのだろうか。折角の正月休みなのに、母の相手をしなければいけない父も、大層お疲れだろう。
「疲れたー…」
ソファの上に横になる。薫が顔を覗き込むように見てくるから、なんだと視線を上げた。
「やりすぎ?」
「はあ!?」
「やりすぎで疲れたのかと思って」
「お前っ…はあ…」
「なにその溜め息」
「なんでもねえよ。随分理解のある弟だと思っただけ」
「ってことは事実なんだ」
「ちげーけど!」
「またまたー」
ああ、いかん。自宅に帰ってきても疲れてしまうなどあってはならない。
ここは、長男として威厳と余裕を持って接しなければいけない。
「…お前勉強は?」
「正月くらい休んでも大丈夫でしょ」
「相変わらず呑気だな」
理事長の息子である木内先輩の存在は薫には黙っている。
言った瞬間に、じゃあ勉強しなくても楽勝じゃん、などと余裕をかますだろうと確信しているから。
使えるものは親でも使うような、末恐ろしい弟だ。
見た目はどこかあどけなく繊細な印象を持つのに、考えていることははかり知れない。
「あ、そういえばね、母さん、香坂さんのお母様と連絡とってるらしいよ」
「は?」
「なんかメアドと電話番号交換したらしくて、今度お茶行きましょうよーとか言ってた」
「マジかよ…」
「親公認?」
「アホ、んなわけねえだろ。俺と香坂がつきあってるって知ったらそうはいかねえよ」
「そうかな、香坂さんのお母さんとか理解ありそうじゃん」
「んな簡単な問題じゃないだろ。マジ面倒くせえ…」
「まあ、そうなったらちゃんと味方についてあげるから」
「お前は長い物に巻かれろ精神だからな…」
「失礼だな。これでも楓ちゃんを考えてますー」
「どうだか」
「だって楓ちゃんアホなんだもん」
「は?」
「アホで馬鹿じゃん?僕が味方についてあげないと」
「兄にむかって…」
「事実ですから」
完全にこれ馬鹿にされてる。兄の威厳など最初からなかった。
ふらふらと、着替えるためにソファから立ち上がった。
暫く帰っていなかった自室は冷たい空気で出迎えた。
「さむ…」
急ぎ足で部屋着に着替え、部屋を出ようとしたときベットサイドの棚の上に置かれた箱に視線が奪われた。
それは、香坂からもらったクリスマスプレゼントだ。
雨に濡れ、それが乾いたものだから、包装もなにもかもぐちゃぐちゃになっているけれど、それでも何よりも大事なもの。
ゆっくりと手を伸ばしリボンを解いた。
何が入っているのだろうかと緊張しながら箱をあけると、銀色の輪が視界に飛び込んだ。
「腕?いや、足か…?」
それは以前肌身離さずつけていたアンクレットに酷似していた。
香坂が欲しいというからあげてしまった物だ。
指先で持ち上げ、眼前でそれを見詰める。
昔と同じように右足にそれをつけてみた。
まだ真新しいシルバーの輝きを放つそれに、なんだかとても安心した。
常につけていて、身体の一部のようなものがなくなってから、ずっと違和感があった。
それが戻ってきたような気がして、しっくりくる。
足に感じる重みも懐かしい。
携帯に手を伸ばし香坂に電話をかける。
ついさっきまで一緒にいたのに、電話をするのは鬱陶しいかと思ったが、礼を言わなくては。
「もしもーし」
『おー、なんだ。もう寂しくなったか?』
揶揄するように言われ、思いきりそれを否定した。
「ちげーよ!あの、プレゼント…」
『ああ、あけてみたか?』
「うん…」
『お前、好きだろ、そういうの』
「好き、だけど…」
『気にいらねえ?』
「んなことない!ただ、礼を言おうかと…」
『礼なんていらねえよ。俺の勝手な自己満』
「…あの、大事にするから…」
『そうしてくれ。お前のことだからなくしそうだけどな』
「なくさないようにずっとつけてるわ!」
『そうか』
「俺も、なんか買うから…」
『気にしなくていい』
「いいんだよ!」
こちらがもらったにも関わらず、返さないわけにはいかない。男としてのぎりぎりのプライドだ。
『まあ、好きにしてくれていいけど…あ、そうだ。俺明日から日本いねえから』
「は?」
『綾の思いつきで親父の単身赴任先に行くことになった』
「全員で!?」
『ああ、面倒くせえけど』
「マジか…いつ帰ってくんの?」
『さあ、綾次第だな』
「随分セレブなお正月ですこと…」
『俺がいねえからって拗ねんなよ』
「拗ねてない!」
『帰ってきたらすぐ連絡するから』
「…別に、いいけど…三学期になれば嫌でも顔合わせるし…」
『相変わらず素直じゃねえな』
「俺はいつでも素直だよボケが!」
『薫と、あとお前の家にも土産送るから』
「あー、気にしなくていいけど」
『まあ、一応な。自分の株を上げるためにも』
「物でつるな。うちは物で簡単につられる家族なんだから」
『お前もな』
「俺はそんな安くねえよボケ」
『そうか』
香坂はくっくと喉を鳴らして笑う。
電話で話すのは珍しく、なんだか声だけというのも新鮮だ。
いつもは、電話で話すならば会った方が早い距離にいたから。
ついこの間までは電話をするような関係でもなく、酷く、懐かしく思える。
香坂の甘い低音を、耳元で聞くのも悪くない。
甘すぎて、胸焼けをしそうだ。
「まあ、気をつけてな」
『ああ、寂しいからって浮気すんなよ』
「そんな相手がいると思いますか?」
『わかんねーだろ』
「しない。んなくだらないこと。お前こそ、ブロンドに惑わされんなよ」
『ブロンドは翔で見慣れてる』
「ああ、そうですか…」
『まあ、アメリカでもモテたら自慢でもしてやるよ』
「死ね」
『なるべく早く帰ってくるからいじけんなって』
「だからいじけてない!じゃあな!」
『ああ、またな』
切れてしまった電話に、寂しさを感じつつ、それをベットの上に放り投げて足首を見詰めた。
自然と頬が緩んでしまった自分がとても気持ち悪い。
嘆息を零し、再びリビングに戻る。
相変わらず薫はだらだらとソファの上に座りながらテレビを眺めている。
出掛けたがりな自分と違い、この弟は出不精だ。
その理由をいつか問いかけたとき、こんな答えが帰ってきた。
"だって、人混みとか苛々するじゃん?全員死ねって思わない?"
それを笑顔で言われたのだからたまったものではない。
どこでこんなに自己中心的な性格になってしまったのだろうか。
もしかしたら、香坂に勝るほどの俺様へと進化しようとしているのかもしれない。弟の未来が、心底不安になる。
だからといって、何ができるわけでもないが。
自分が認めた人間以外の意見は聞かない。勿論俺が言う言葉は論外だ。
「なに?人の顔みて」
「別に…」
玄関から相変わらず活発な母の声がリビングまで響いた。
「ただいまー!」
「おかえりー」
「あら、楓帰ってきたの?」
「いけませんか」
「お正月も涼君の家で過ごすのかと思ってたわよー」
「んなわけねえだろ。香坂は明日からアメリカですから」
「まあ!いいわねえ!うちも海外旅行でもしてみたいわ…」
じろりと嫌味な視線を投げかけられた父は、気まずそうに曖昧な笑みを浮かべた。
父もこちらへ移動し、薫の隣に腰を下ろす。
小さく、こっそりと溜め息を零した父にお疲れと声をかけた。
「外寒い?」
「寒いよ。人も多いし、やはり正月だね」
家族のために働いて、家では母にこき使われ、父が一番苦労しているのではないだろうか。
しかも長男は頭が悪く、次男は性格が悪い。可哀想な父である。
「楓と薫は、今年も一緒に初詣行くのかい?」
「んー、どうしよ。気が乗ったら」
「お前、受験生なんだから行けよ」
「えー、別に神様に頼まなくても受かるよ」
「薫は頼もしいな」
へらりと締まりのない笑顔を見せるが、そこは気を抜かずに勉強しろと叱るのが父親ではなかろうか。
とても温厚な父だが、たまにしっかりしてくれよと思うときがある。
そう思った矢先、キッチンから声が響いた。
「薫、それでもし落ちたらどうするの。ちゃんと勉強しなさいよ!」
「へーい」
さすが母は強しだ。
キッチンで忙しなく、御節料理でも作っている母と、ゆったりと正月番組を眺める父。
何も変わらない実家の風景に、ほっと安心した。
香坂の家にいるのも楽しいが、気楽に過ごせる我が家が一番だ。
夕飯を皆で食べ、風呂に入り、リビングで皆と談笑した。
十二時を回る頃には父は布団に入り、残ったのは薫と母と三人だ。
今年も来るかと予想していたが、十二時を回った瞬間に携帯がメールの着信を煩く知らせる。
まずは景吾、そして秀吉、蓮と、珍しくゆうきからも。その他にもクラスメイトから。
絵文字を大量に使った景吾のメールに笑顔が浮かんだり、控えめな内容の蓮のメールに、会いたくなったり、短い一文で終わらせたゆうきのメールに苦笑したり、秀吉の関西弁を懐かしく思ったりした。
毎日いやというほど一緒にいるから、離れてしまうと寂しいものだ。
二年になってクラスや部屋が変われば、同じようには過ごせない。
ましてや、卒業してしまえば別々の道だ。
それでも、変わらずに俺たちはこれから先もずっと友人でいられる気がする。
最後に、香坂から届いた素っ気無いメールに笑みがこぼれた。
あいつらしい、シンプルなメールが余計に好ましく思える。
今年も、友人とも変わらず、そして香坂とも変わらずに過ごせるといい。
辛いこともあった一年だったけれど、それでも沢山楽しい思い出と、そして変化を齎した一年だった。
来年も、皆が笑顔でいられますように。
神社に行ったら、きっとそう願おうと思う。
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