5

「あー、あ、うんっ!」

何故発声練習のように無茶苦茶な声を出しているかというと、喉の調子がおかしいからだ。
いつもより掠れているように感じるし、元々高い声ではないが普段よりも低くなった気がする。
しかし、この発声練習もどきは隣で眠る香坂にとっては不快極まりないものだったらしい。
薄っすらと太陽に目を細めながらこちらを見ると、一瞬で眉根には数本の皺。

「…なんだ、朝から騒ぐな…」

「騒いでない」

「…あれ、お前声おかしくねえか?」

上半身を起こし、喉に手を持っていっていた俺を真似るかのように、香坂も起き上がると俺の口に数本の指を突っ込み、思い切り口を上下に割られた。

「ういでででっ」

「喉は…腫れてないか…」

「いきなりなんだよ!一言声かけろ!」

「いや、風邪かと思って…」

「別に、体調はいつも通りだし…」

「となるとやっぱり俺の責任か?」

口端を吊り上げて笑った表情が憎らしかった。
しかし、香坂の見解は強ち間違ってはいないから反論もできない。
昨晩、弟君が寝た頃を見計らい、香坂が第二ラウンドを仕掛けてきた。
しかも、久しぶりな事も相俟り、お互い貪欲に求め続け、第三、第四ラウンドにすら突入するという若さを発揮してしまった。
そんなはずではなかったのだが、体温が重なっていることに酷く安心してしまい、そして何度も俺の名を呼ぶ香坂への愛おしさが拭えず、甘んじでそれを受け入れてしまったのだ。
むしろ、半ば自分から誘ったような気もしないでもない。
声を我慢するなという香坂の無茶な要望と、刹那の快感に溺れていた俺は、素直に頷き、それを彼が望むならばと鳴き続けたのだ。

「…マジで声おかしい…責任とれよ」

「責任?結婚でもしろって?」

「アホか。とりあえず何か飲む物」

「へいへい…俺が優しい男でよかったな」

「やった後限定の優しさだけどな」

「それすらないよりはましだろ?」

「それだけってのもどうかと思うけど」

「減らず口」

香坂はベットの下に落ちていたシャツを羽織り、上半身裸のままのこちらを見て、またニヒルに笑った。

「痕は隠した方がいいぜ?」

「っ、誰のせいで!」

こうなったと思ってんだ、そう言ってやりたかったが、言いかけたところでその言葉は扉に吸い込まれてしまった。
悔しさで拳を作ってみせたが、そんなやり取りすら懐かしくて嬉しくなってしまう。
腰に感じるだるさを庇いながら、ソファへ覚束無い足取りで近付いた。
ふと全身鏡に映った自分を見て呆気にとられてしまった。

「…なんだ、これ…」

そこには、無数に散った紅が色濃く残っていた。

「やりすぎだろ、これは…」

一種の湿疹や何かだろうかと疑いたくなるそれ。
香坂は愛の証だとか、所有物の証だとほざくが、それはすべて子供染みた独占欲の表れでしかない。
そんな身体にうんざりしながら、痕が消えるまでは家族の前では決して裸にはならないと誓った。
ソファに勢いよく腰を下ろし、服を羽織る。
幸いなことに、服で誤魔化せる場所だけにそれは限定されていて、上半身裸にならなければどうにか誤魔化せそうだ。
何度それをやめろと言っても聞かないのなら、今度お返しをしてやろう。
けれど彼は気にする様子もなく、平然と素知らぬ顔で普段通りの生活をしそうだ。
むしろ、こちらが羞恥を味わいそうだ。

「おーい、楓」

「あ?なに?」

扉を不躾に開けた香坂は、室内に一歩足を踏み入れる。

「綾が下に来いって」

「…帰ってきてんの?」

「さっき帰ってきたらしい。まあ、もう昼だしな…」

「ああ、そっか…今行く」

香坂の予想通り、綾さんとおじさんは外泊したようだ。
随分仲睦まじく、羨ましい。
できれば、微動だにしたくなかったくらいに身体全身がだるいのだが、綾さんには逆らえない。
香坂と共にリビングの扉を開けると、ソファに仲睦まじく並んで座る夫婦の姿がある。
綾さんの肩にはちゃっかりとおじさんの手が回っている。

「お、おはようございます…」

「おはよう、楓君!」

「おはよう」

俺を視界にとらえた瞬間に、綾さんの瞳が多少変わったような気がする。
そして、おじさんはこちらに好戦的な視線を送る。
高校生の自分を綾さんは異性としてみているわけではないと承知だろうに。
マスコット的な感覚だと思う。見た目は立派な紳士なのに、多少大人気ないと思うが、それほど綾さんを愛しているのだとプラスに考えよう。

「楓君、どうぞ座りたまえ」

「は、はい…失礼します」

恐る恐る、視線を一身に浴びながら綾さんとおじさんに対峙する席に腰を下ろした。

「お茶入れるわね、楓君。喉渇いてたんでしょ?」

「あ、すいません…」

「俺をパシリに使うくらいに喉カラカラなんだよな?」

「パシリて…」

「涼は楓君のパシリなのか?」

「まあな」

そういうことを言ってしまうと、おじさんは真に受けると思う。
冗談が通じない人ではないと思うのだが、綾さんのこともあるし、俺の評価をわざわざ下げずともいいのに。
じろりと香坂を睨むが怯んだ様子はない。

「涼がパシリか…楓君はすごい子だな」

ほら、真に受けた。思った通りだ。

「あら、いいじゃない、あの涼がパシリなんて。楓君に弱味でも握られてるのかしら?」

むしろ握られているのは自分の方だ。
ああ、本当に香坂家が全員が揃うととんでもない方向に話が進む。居心地が悪い。

香坂のことは好きだし、勿論その家族とも仲良くできればいいと思うが、最初から敵対心を持たれては打つ手はない。
あまり世渡り上手ではないし、媚を売るのも苦手だ。方法すらも知らない子供で。
ただ冷や汗を掻くだけで、うろたえるしかできない。

「楓君にはアイスティーにしたわ」

「あ、ありがとうございます…」

手渡されたそれに、頭を下げて礼を言う。
温かいものよりは、冷たいものを欲していた。綾さんもよく気付いてくれる。

「楓君、今日こそは私とデートしよっか?」

「あ、いやでも正月も近いしそろそろ帰ろうかなと…」

「えー、そうなの、残念…まあ、楓君のご家族にも独占したら悪いしね」

「はは、綾、私が帰ってきてるのに若い子に夢中か?」

「だって可愛いんだもの。何でも買ってあげたくなっちゃうわ」

「綾…」

「正月終わったらまた呼んで、そしたら親父に秘密でデートしろよ」

香坂は、益々俺とおじさんの関係を悪くしたいのか。
むしろ、この状況を楽しんでいるようにも思える。

「それもそうね。パパに妬きもち妬かれちゃうし」

「綾、私は許さないぞ?」

「だから、秘密でするんじゃない。ねー、楓君」

「え、いや、あの…」

確かに綾さんは綺麗だと思う。歳よりもずっと若く見える。
けれど、健全な男子高校生の俺としては、恋愛対象にするには大人すぎる。
そこら辺を、おじさんはわかっているだろうか。
あなたの奥さんよりも、あなたの息子に夢中ですと、できればぶちまけてしまいたい。
そうすればもっと酷い状況に置かれるのだろうが。

「そういえば綾、俺の旅行鞄どこだっけ?」

「えー、部屋にないの?」

「ない。どっかしまった?」

「あら、じゃあ私の部屋かしら…」

「探すから手伝ってくれよ」

「しょうがないわね。ほんとにあんたはだらしないんだから…」

立ち上がった香坂に倣い、綾さんもおじさんの腕をどかせると、香坂の後を追いかけリビングから出て行ってしまった。
この状況で、おじさんと二人きりになるのは非常に気まずい。
沈黙が身体全身に痛い程に突き刺さっている。

「…楓君は恋人はいるのかね?」

おじさん、大丈夫だから安心してください。
本当に、綾さんと罪悪感を感じるような関係にはありませんので。

「…一応います」

それがあなたの息子です、とは言えないが。
香坂と恋人同士の関係になくとも、この状況ならば嘘でも彼女がいますと胸を張っただろう。

「そうか、真剣に付き合ってるのかい?」

「はい。あの、俺その人のことすげー好きで、ちゃんとつきあってるんで!」

おじさんの誤解を解くために必死になって反論した。
むしろ、焦ったことで更に疑いを深くしてしまったかもしれないが。
それでは、俺はどうすればいい。成す術がない。

「そうか、それを聞いて安心したよ」

「はい!本当に、彼女一筋なんで!それ以外考えられないんで!」

「はは、それはよかった。若さだね」

とは言うが、おじさんも大概、綾さんに夢中なところを見ると現役だと感じる。
こちらの必死が伝わってくれたのか、おじさんは酷く安心した様子で、先ほどの敵意むき出しのとげとげしい雰囲気が消え去った。

「その子を大事にするといい。私のように」

「はい…」

あなたの息子なんですけどね。
嘘をついているようで心もとないが、仕方がない。
まさか息子さんと付き合ってます、などと言えるはずがない。
けれど、香坂とこの先も付き合うのならば、その家族とも仲良くしたい。
一先ず、俺と綾さんの関係を疑うおじさんの誤解を解く方が先決だ。

「ところでうちの息子は学園ではどうかね?」

「へ?」

おじさんは打って変わって機嫌が良好になり、膝の上で両手を組みながら微笑んだ。

「問題など起こしてはいないだろうか」

「…はあ、まあ…」

問題児のレッテルを貼られているとは口が裂けても言えまい。
どんな息子だろうが可愛くて仕方がないのだから。
勿論、教師からしてみれば溜め息を零したくなる素行の悪さはあるものの、だからといって犯罪に手を染めるでもないし、まだ目を瞑れる範囲だと思う。
誰かを虐めるでもないし、大っぴらに喧嘩をするでもない。卑怯で下らない悪さだけは絶対にしない。そこは誉めるべきところだろうか。
そもそも真っ当に生きている人間を誉めるべきとは思うのだが。

「あまり成績はよくないようだが…」

「あ、でも、俺も勉強教えてもらったりしてますけどわかりやすいです」

元々できが悪いわけではないと思う。ただ、真剣に勉強をしないだけで。

「あの、後輩の面倒見もいいですし、結構慕われてますし…」

「そうかそうか。それを聞いて安心したよ。うちの息子も少しは大人になったらしい」

「はあ…」

「単身赴任が長いもので、なかなか一緒にいられないからいつも心配なんだ。綾に任せていれば大丈夫だと思いつつもね」

「成る程…」

「京はまだしも、涼は一旦きれると何をしでかすかわからないからね」

「…確かに」

「学園でも、先生方に迷惑をかけていないかと心配なんだ」

「…だ、大丈夫だと思いますよ!」

実際、香坂や木内先輩に頭を悩ませている教師は山ほどいるだろうが、教師も慣れたものだろう。
学園にそんな奴らは他にもいる。一々すべてを相手にしていたら、きりがないというものだ。

「昔は可愛らしい子だったんだがね…」

「でしょうね。どことなく綾さんにも似てるし」

「そうなんだよ!わかってくれるかね?」

「え、ええ…」

おじさんは綾さんの名前を出しただけでテンションが上がるらしい。

「そうだ、昔の写真見るかい?」

「あ、是非見たいです!」

「ちょっと待ってなさい。確かこの引き出しに…」

香坂と出逢ったのはつい最近で、昔の香坂を見られるのは写真でしかない。
できるなら、タイムスリップでもして生で見たいが、到底無理な話だ。
今はあんなに俺様な香坂にも幼少期はあって当然だけど、まったく想像ができずどきどきしながらそれを待った。

「あった」

引き出しから数冊のアルバムをテーブルに並べたおじさんは、好きなのを見ろと勧めてきた。その中の一冊に手を伸ばし、表紙を捲る。

「…わぁ…!」

そこには、今よりもずっと若い、ますます綺麗な綾さんに抱かれる、生まれたばかりの香坂がいた。

「可愛い…」

赤ちゃんなのだから、可愛いのは当然かもしれないが、さすが香坂だけあって、生まれたときから可愛らしい。

「可愛いだろう。私も嬉しくてたまらなかったよ」

ページを捲っていくと、はいはいしている写真や、掴まり立ちしている写真、幼稚園から小学校まで様々な写真があり、見ていて飽きなかなかった。

「幼稚園のときとか、マジで可愛いですね!」

「綾によく似ているだろ?」

「はい!そっくりです!」

幼稚園の制服をきちんと着て、斜めの鞄を提げた香坂は、本当に女の子のように可愛かった。
綾さんに甘えている写真を見れば、香坂にも子供時代があったのだと、妙に感動してしまう。

「小学生になるとおじさんに似てきますね」

「そうかい?」

「はい。小さい頃は綾さんにそっくりだけど、段々おじさんに似てきてます」

「そうかそうか」

似ていると言われると嬉しいのか、おじさんは一層目尻を緩めた。
だんだんと今の香坂の面影がちらついてくる。

「あれ…これ、もしかして…」

これと指差したのは、五人程で映っている写真だ。

「木内先輩…?」

「ああ、仁君と拓海君だね。あと桜ちゃんと、類君だ」

「これが、桜さんか…」

話しには何度も聞いていたし、自分が嫉妬した相手でもある。初め顔を見て、吸い込まれるようにそれを見詰めた。
まだ、小学生とは言えど、そんじょそこらの女の子では到底及ばない程に綺麗な顔立ちをしている。まさに美少女だ。
ついでに、木内先輩と須藤先輩を見れば噴出しそうになってしまった。
これがあの先輩たちかと思うと、おもしろくて仕方がない。ゆうきや蓮にも見せてやりたいものだ。
二冊目に手を出すと、中学生の香坂がそこにいた。
最初に入っていたのは中学の入学式の写真。今とは違い学ラン姿だ。
髪も短く、だいぶ今の香坂に近いが、それでも可愛らしさが抜けていない。

「わー、学ランだ…」

珍しくて、中学時代の香坂につい見入ってしまった。
そこには成長した桜さんの写真もあり、益々綺麗になっていた。
こんだけ美少女ならば、香坂も惚れるだろうと納得する。
自分でも、桜さんが目の前にいたら惚れてしまいそうだ。
中学時代の写真には、木内先輩と須藤先輩の写真はない。別々の道に進んだのだから当然だけれど。

「その時が一番荒れていたよ」

「…桜さんのことで、ですか?」

「涼に聞いたかい?」

「はい…」

「私は、海外にいたものだから、詳しくは聞いていないが、それはすごい荒れようだったって綾に聞いたよ。自殺するのではないかとはらはらしたとね…」

苦笑を交えて話すおじさんは、苦しそうに言った。
それほどまでに、香坂を追い詰めた事件だったのだ。
俺も、今もし香坂が死んでしまったら正気を保てる自信がない。
心の底から、桜さんを愛していたからこそダメージが大きいのは仕方がないけど、香坂はどれほど苦しかったのだろう。

「今じゃすっかり元気だし、むしろ生意気になったようにも思えるがね…」

「はは、そう、ですね…」

「桜ちゃんが生きていれば、将来涼の嫁になってもらいたかったものだよ」

何気ないその一言に、心臓が一度大きく高鳴った。
家族ぐるみで仲がよかったようだし、桜さんと香坂は相思相愛で、もし桜さんが今も生きていたら、今でもお互いはお互いを想っていただろう。
俺とも出逢わずお互いの存在を知らないままに人生が流れていって。
そして香坂は桜さんと結婚して、俺も彼女を作って、家庭を持ったりして。
それが一般的な幸せというやつで、そのレールに誰しもが乗ろうとする。勿論、俺もそうだと思っていた。
けれども、人生とはどこでどう変わっていくのかわからない。
おじさんは将来嫁を貰うものだと、なんら疑いの余地もなく信じているだろう。
俺たちがこの先ずっと一緒にいるかなどわからないが、一緒にいる限り香坂の家族や、俺の家族に辛い思いをさせるのかもしれない。
犠牲にするものが大きすぎる関係。
こんな風に笑って一緒に過ごせるのもあと僅かなのかもしれないと思うと、急に恐くなった。

「やっと見付かったーって、何見てんだよ、お前」

リビングに戻ってきた綾さんと香坂は、アルバムに視線を移すとそれをゆっくり取り上げた。

「親父だろ」

「いけなかったかな?」

「ダメに決まってんだろ。ガキの頃の写真なんて…」

「あら、今でも充分子供よ?」

「うるせえな」

「懐かしいわ。アルバムなんて見ること最近なかったから…」

隣に腰を下ろす香坂と、アルバムを広げた綾さんを交互に見た。
綾さんだって、きっとおじさんと同じ思いなのだ。
裏切っているように感じられ胸が痛む。

「…どうした?」

「なんでもない…」

「俺があまりにも可愛かったからびっくりしてんのか?」

「はいはい」

茶化すような香坂の科白に、いつものように言い返すが心の中はそれどころではなかった。
正月前くらい余計な事を考えずにゆっくりしたいのに、次から次へと苦悩する出来事と出逢ってしまう。

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