Episode16:犬猿の中

薄っすらと瞳を開け一番最初に感じたのは身体に圧し掛かる重圧。
金縛りだろうかと霧がかった視界をはっきりさせれば、その正体は香坂だった。
自分も香坂も碌に眠れない日々を過ごしていたのが祟ってか、ソファの上でじゃれ合っているうちにすっかり眠ってしまったらしい。
泊まるつもりはなかったのだが、結局そうなってしまった。
綾さんに世話になる挨拶もしていなければ、自分の母親の礼も言わないままだ。どれだけ無礼な人間なんだと頭の中が音を立てて冷静になった。

「やべっ!」

香坂を腕力で無理矢理どかせると、派手な音をたててソファから床へ落下した。
しまったと冷汗を流したが、時既に遅し。

「…ってえな…」

首に手を添えながら、寝起きで更に不機嫌な香坂はこちらを一瞥した。

「ご、ごめ…焦ってて…」

「いきなり落とすな。痛えだろうが」

多少子供っぽい口調も寝起きゆえだ。
香坂に構っている暇はないのだと思考を切り替える。
自分の携帯を手繰り寄せ時間を確認すれば、昼などとうに過ぎている。

「…寝すぎた」

綾さんに一刻でも早く挨拶をしなければと身形を整える。
折角気に入ってもらえているのに、それをすべてぶち壊すほどの非礼をしては香坂との関係も危ぶまれる。
そうでなくともあの母親が世話になったのだから、本来ならばすぐにでも礼を言わなければいけないところなのに。
香坂と一緒に過ごせることにすっかり有頂天になってしまったらしい。大事な事を見落とすくらいに。
勢いよくソファから立ち上がり、兎に角リビングへ行こうと部屋の扉を開けた。

「おーい、どこ行くんだー?」

香坂の問いは無視だ。
悠長に楽しくお喋りしている場合ではない。
他人の家だということも顧みずに、豪快な音を立てながら階段を下りる。
どうか、綾さんがいてくれますように。
そう願いながら、リビングの扉をこれまた派手に開けた。
そしてその視界に飛び込んできた光景に目が点になる。
いつも綾さんが紅茶を飲みながらテレビを眺めているソファの上には新聞を広げるロマンスグレーの紳士がいた。
真摯と目が合うこと数秒。
見詰めあいながら、お互いがお互いの存在に驚き、ぽかんと口が開いてしまった。
先手をとって現実に戻ってきたのは紳士だった。
頬を指でかきながら、首を左に動かした。

「おーい、綾。うちはいつの間に家族が増えたんだ?」

「えー?」

綾さんの声がする。
そちらへ首を九十度不自然な形で動かせば、キッチンから綾さんがひょっこりと顔を出した。

「あら、楓君!約束通り泊まってくれたのね!」

「…え、あ、はい…」

「嬉しいわー」

今は得体の知れない紳士に動揺している場合ではなかった。
当初の目的を思い出し、フルダッシュで綾さんの元へ駆け寄る。

「綾さん!」

勢いよく綾さんの両肩を掴んだ。

「ど、どうしたの…?」

「昨日すいませんでした!うちの母親が世話になったのに!なんか気付いたらこんな時間で、えっと、なんか寝てたみたいで!兎に角礼が遅くなってすいませんでした!」

自分でも何を口走っているのかわからなかった。
寝起きで物事を済ませるべきではないと学習する。

「しかもなんか、挨拶もしないで泊まっちゃって!本当にすいませんでした」

風を切る音がしそうなほどに、勢いをつけて腰を直角に曲げた。

「…やだ、何を言い出したかと思えば。いいわよ、そんなの気にしないで。ほら、頭あげてちょうだい」

綾さんの細く綺麗な手が肩にぽんと添えられた。
上目で綾さんを窺い見ながら頭を少しずつ上げる。

「…本当に、すいません…」

今俺に獣の耳と尻尾がついていたなら、それはどちらもしゅんと下を向いているに違いない。

「いいのよ、楓君のお母様のことは私がそうしたかったのだし、色々お喋りできて楽しかったわ」

「ほんと、うちのアホな母親が世話になりまして…」

あの人のことだから、綾さんに遠慮せずに口を開きっぱなしだったに違いない。

「愉快な方だったわ。楓君のお母さんって感じで」

「…いや、ほんとに…何とお詫びしていいのか…」

「本当に楽しかったのよ?今度お茶する約束もしちゃったわ」

「マジすか…!」

綾さんと母親はまったく違うタイプの人間に思えるし、そんなに盛り上がる要素があったのだろうか。
接点といえば息子の歳が近く、同じ学園というだけだ。
綾さんに無理をさせているのではないかと心配になる。社交的で気配り上手だが、母親にまで無理に付き合う必要はないのに。

「それに、楓君ならいつでも好きなときに泊まってくれていいのよ?」

うふふと効果音がつきそうなほど、綾さんは上機嫌に笑った。
気に入られているのは嬉しいのだが、それに胡坐を掻いて甘えるわけにはいかない。
親しき仲にも礼儀ありという言葉を反芻する。

「…楽しく話しているみたいだが、私にも紹介してくれないか?」

渋い声がリビングから響き、その存在を忘れていたと気付く。
誰かは知らないがダンディーという言葉がこれ以上しっくるくる人を見たことがない。
せいぜい映画の中の架空でしか出会ったことがなく、現実味を帯びない。

「あ、そうだったわ」

「綾、どこで息子を拵えてきたんだ?」

笑うと目尻の皺が色濃く残るが、決して不潔ではなく、それも一つの魅力に感じられる。

「可愛いでしょ?楓君っていうの」

綾さんに肩に手を回され、ロマンスグレーの紳士の前まで誘導される。

「涼のお友達よ」

「…涼?京ではなく?」

「そう、涼の一つ下で高校の後輩なんですって」

自分では然程童顔だと思わないが、紳士からすればそうなのだろう。
益々自分に自信がなくなるが、香坂が老けているだけで、自分は標準なのだと落ち込む気持ちを持ち直す。

「楓君、このおじさんは私の旦那様よ。涼のパパ」

「えっ!」

香坂家におじさまがいれば、香坂の父親だと普通は考えるだろう。
そう思わなかったのは綾さんとの歳の差がかなりのものだろうと推測したからだ。
祖父にしては若すぎるし、けれども父親にしては老けているような。
どちらにもぴったりとはまらない年齢にみえたせいで混乱してしまった。
香坂が長男なのだから、父親は四十代と勝手に思い込んでいた。自分の父親を基準にしてしまったからだろう。
ましてや、こんなに若々しい綾さんを見ているから、きっと香坂のお父さんも年齢不詳の若々しい人なのだと想像していた。

「初めまして、楓君だったかな」

「…は、じめまして…月島楓、です…」

その紳士然とした雰囲気に呑まれそうで、相手は中年男性だというのに見惚れてしまった。
さすが香坂の父親なだけあり、年齢を重ねた今でも充分素敵だ。若い頃は大層なイケメンだったのだろう。
優しそうな人で、それと同等の厳しさも兼ね備えていると思う。

「やっと紹介できたわ。早くパパにも見せたかったの」

とても嬉しそうに飛び跳ねながら俺の首に腕を回して綾さんが抱きついた。
その瞬間、紳士のこめかみに青筋がたったような気がする。
一瞬だけ、纏った空気にぴりっとひびが入ったような。

「…はは、綾は随分可愛がっているようだ」

「そうなの。涼も京も可愛げがないから楓君こそ本当の息子みたいで可愛いの!」

「こらこら、自分の息子を…」

「だってあの子たちったら…」

わかった。わかったから、俺に抱きつくのは一旦よしましょう綾さん。紳士がそろそろ限界だ。
夫婦仲がいいとは聞いていたが高校生相手に嫉妬するほどとは思わなかった。

「なんかうるせえな…」

やっと起きた香坂が開けっ放しだったリビングのドアから顔を覗かせた。
今の俺には救いの神に見える。

「あ、親父じゃん…帰ってきてたのか?」

「ああ、今日の朝方着いたよ」

「知らなかった」

「言っといたじゃないの」

「そうだっけ」

「最近涼しゃきっとしてないんだから」

家族水入らずな空間に自分は邪魔者だ。早々に撤退しなければいけない。
おじさんは海外にいるのだから、こんな風に家族が揃うのは年に数回しかないのだろうし。

「あ、あの…俺そろそろ…」

「もう帰っちゃうの?」

「まだ起きたばっかりだろ。もう少しゆっくりしてけよ」

「いや、でも…」

「私まだ楓君とお話してないし、ゆっくりしていってよ」

「う、あ、はい…」

綾さんに言われては否とは言えない。ここで断れる兵はいないだろう。
いや、例えば薫ならば口八丁で帰るのかもしれないが、俺にはそんな利口で達者な口はない。

大きな欠伸をしながら香坂はソファの上にだらしなく座り、綾さんはお茶を淹れると言い残し、キッチンへ消えていった。
そして俺といえば、緊張とこの場の雰囲気に呑まれその場に突っ立ったままだ。

「何ぼうっとしてんだ?こっち座れよ」

香坂に腕をひかれ、大人しく隣に腰を下ろす。おじさんの視線が痛い。
見定められているようで居心地が悪い。

「…楓君は涼と気が合うのかい?」

「えっ…まあ、はい…」

急に話し掛けられて瞠目し、目が完全に泳いでいた。

「そうか…涼の今までの友人とは少しタイプが違うようだから」

言われた瞬間、木内先輩や須藤先輩の顔が次々に脳裏に浮かんだ。
あんな風に落ち着いた雰囲気も、大人っぽい容姿も、やんちゃ盛りな態度も、どれも自分には欠如している。
香坂が息子であるおじさんから見れば、普通のありきたりな高校生そのものの自分の方が珍しいようだ。
言っておくが、スタンダードな高校生はこの俺であり、香坂や木内先輩のような人が的から外れているのだ。その事実に、おじさんはきっと気付いてはいない。
海外で暮らしているのなら、尚更かもしれない。
俺のようなタイプは、海外では小学生に間違われるかもしれない。

「楓君は本当に可愛いわ。普通の高校生って感じで」

お茶をお盆に乗せた綾さんが、微笑みながらこちらへ近付いてきた。
綾さんの言葉は誉め言葉か、否か。
香坂家の中で、俺は天然記念物のような扱いだ。

「楽しそうに笑うし、素直に何でも話してくれるし。高校生って楓君みたいな子を言うのよね」

「そうなのか」

目を丸くするおじさんを見れば、やはりわかっていないのだと理解する。

「仁や拓海も可愛げないし、あれは高校生じゃないわ。なんか妙に擦れてるっていうか…涼もだけど」

「悪かったな、擦れてて」

「本当よ」

ティーカップをそれぞれに差し出しながら、憮然として綾さんは言った。

「パパは海外だから知らないでしょうけど、私大変だったんだから」

「なにがだい?」

「子育て。いつ警察に捕まるかハラハラしながら毎日過ごしてたわ」

「はは、それは綾が高校生の時と同じじゃないか」

まさかという思いで綾さんに視線を移せば、可愛らしくも頬を膨らませている。
仕草はとても可愛いが、おじさんの口から零れた言葉はまったく可愛くない。
香坂の俺様はどこからきているのだろうかと常々思っていたけれど、もしかしたら綾さんかもしれない。

「失礼ね!私はもう少し可愛げがありました。ねー、楓君」

「は、はい…」

「そうだ、今日は皆でどこか夕食食べに行きましょうか!」

綾さんはぱんと両手を合わせた。

「いいよ。久しぶりに親父帰ってきたんだから、親父とデートしてくれば」

「けど、折角楓君が…」

「楓はいつでも来れるけど、親父はそうじゃねえだろ」

「さすが息子、わかっているじゃないか」

香坂の一言に、おじさんはご満悦だ。

「…そう?ごめんね、楓君…」

「いえ!俺はいつもご馳走になってるんで、全然!」

「じゃあ今度パパが戻ったらゆっくり私とデートしようね」

綾さんは茶目っ気たっぷりに微笑んだが、その斜め後ろでおじさんが青筋を更に増やしている。
綾さんはわざと言っているに違いない。

「涼、京の面倒みてちょうだいね。あの子まだ寝てると思うけど。慣れない勉強してるからストレス溜まってるのよ。そのうち爆発しそうで恐いわ」

「京いるのか…面倒くせえな…」

「お兄ちゃんなんだから」

「…そのセリフ、昔から言われ続けて耳にタコだ」

「綾、早速だが準備して出掛けよう。クリスマスプレゼントも買わなければ」

「そうね、じゃあ着替えてくるわ」

席を立つ二人を見て大きく息を吐いた。いい子を演じるのは慣れてない。
蓮や景吾の家に行っても普段通りの俺でいたけれど、香坂パパはちょっと話が違うというか。
常に品定めされている気分だ。息子の友人に相応しくないと決断した瞬間にばっさり切り捨てられそう。
震える手で紅茶を啜り、小さくなっておじさんの視線に耐えるしかなかった。

綾さんは随分おめかしを済ませて現れた。
普段着でも充分に綺麗で素敵な綾さんだが、それ以上に着飾った姿はとても二児の母には見えない。
おじさんもスーツに着替え、その腕に手を絡ませた綾さんと嬉しそうに出掛けて行く。
お土産を買ってくるという一言を残して。
もう、そのままどこか泊まってくればいいのに。

「はぁ…」

車のエンジン音が聞こえた瞬間、深い溜め息を零した。

「どうした?」

「香坂パパ、恐るべし…」

「なにが。ただのとぼけたロリコンだぞ」

「ロリっ…」

「だって、親父と綾は結構歳離れてるだろ。結婚したときなんて綾は二十歳そこそこだぞ」

「綾さん綺麗だから仕方がないっすよ…。香坂の親父っていうから、綾さんくらい若い人なのかと思ってた」

「もう結構歳だけどな」

「うん、ダンディーなおじさまって感じ。香坂は親父さん似か?まさか、お前も将来あんな感じに…」

「さあ…」

逆を言えば、おじさんが若かりし頃は香坂のような容姿だったということで。
さぞおモテになったでしょう。
その中でおじさんに選ばれた綾さんは群を抜いて美しく、気高かったのだと思う。

「とりあえず風呂でも入るか」

昨日あのまま寝てしまったものだから、なんだかものすごく嫌な気分だ。早くさっぱり綺麗にしたい。
紅茶を飲み干し、洗い物を済ませ、二階の部屋へと戻った。

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