8

一しきりじゃれ合いながら充分に身体を温め、リビングへ向かった。
リビングはまだ電気がついていて、まさか母がまだ起きているのかと思ったが、予想は的中した。
本当に残念だ。
これ以上自分の恋人に鼻の下を伸ばす母を見るのは耐えがたい上、先輩と偽っていることへの罪悪感で胸がちくちくと痛む。
もう少し上手に嘘をつけるようにならなければ、これから先楽には生きていけないと思う。

「お風呂上がったのねー」

扉を開けた音を聞ききつけ、ソファに座っていた母がにっこり立ち上がった。

「さ、座って。お腹減ってるでしょ?晩御飯の残りでよかったら食べて」

「すいません、何から何まで」

「いいのよ、本当に気にしないで」

彼には似合わない爽やかな笑みにも寒気がする。何重にも猫を被って、よく器用に演じられると感心する。
どうぞ、とソファを指差せば、おとなしく香坂がその中の一つに腰を下ろした。
自分も斜め向かいに腰を下ろし、流れる水滴をタオルで拭いながら、乱暴に髪の毛を拭いた。
キッチンからは、軽快なレンジの音がする。
慌ただしく飯の準備をする母は、なにかと理由を見つけては香坂に絡んでいる。
性別が女とつく生き物は例外なく香坂に惹かれるものらしい。
息子二人はあまり誉められた外見をしていないので、所謂イケメンというものが珍しいのだろう。
これがもし、木内先輩でも、須藤先輩でも母はきっと大喜びだ。
今度親孝行と銘打って三人を連れてきてやろうか。

「はい、あまり料理は自信ないんだけど、よかったら食べて」

「頂きます。お腹すいてたんです」

「よかったわ。もう、ほんとに楓は!」

じろりと睨まれ、へらりと笑うとわざとらしく溜息を吐かれた。
事情があったのだと説明できればいいのに、それは口が裂けても言えない秘め事だ。
俺の隣に座った母は、嬉しそうに香坂が食べる姿を眺めている。

「すごく美味しいです」

「あら、ほんと?嬉しいわあ」

「…世辞だっつーの」

こんな高校生のガキに転がされている母を見るのに耐え兼ね、ぼそりと口にすればすかさず拳が飛んできた。

「いで!」

「そういえばお名前伺ってなかったわね」

俺のことは無視か。

「香坂涼と申します」

「涼君はお住まいは何処なの?」

「田園調布です」

「まあ!すごいわー。ご両親は何をしてらっしゃる方なの?」

そんなに質問攻めをされてはゆっくり飯も食べれないというのに。
母はよく俺にそそっかしいと小言を言うが、今度同じように注意されたなら母譲りであると胸を張って言おう。

「父はアメリカで単身赴任をしていて、母はエステ経営とか…」

「エステ…?もしかして、香坂綾さん?」

「ええ、そうですけど、よくご存知で」

「知ってるわよー!この歳のおばちゃんなら知らない人はいないんじゃないかしら!ほら、これ!」

母が慌ただしくソファ横の雑誌ホルダーから取り出したのは、四十代向けのファッション雑誌だ。
ぺらぺらとページを捲ると、インタビューを受ける綾さんの写真が載っていた。

「うわ!綾さんじゃん!綾さんすげー人だったの!?」

それを見て一番驚いたのは俺だ。
美のカリスマと煽り文句がついているが、写真を見れば納得だ。
確かに、もうすぐ四十歳とは思えない肌をしているし、経営者がこれだけ美しければ店も繁盛するだろう。

「楓会った事あるの?」

「あるよ!マジか!すげー、俺有名人に会ってたんだー…」

エステを経営しているとは聞いていたが、それよりも自分の中では恋人の母というイメージしかなかった。

「私も一度行ってみたくて」

「え、うける。何やっても綾さんになれるわけじゃねえんだし、無駄な金だって!」

「楓―!」

今度は両頬を思い切り抓られてしまった。
本当のことを素直に言っただけなのに。無駄金遣う前に止めてあげただけなのに。
こちらは親切心で言ってやったのに、女心をわかっていないから彼女ができないのだと胸が痛い反撃を喰らってしまった。

「よかった今度どうぞ。楓君の事は母も気に入っていて、予約もどうにかしてくれると思うので」

「あらほんとー?嬉しいわあ…」

片頬に手を持っていきながら言う母。その仕草から直さなければ、どんなに見た目が若返ったとしてもおばちゃんのままだ。

「いつでも連絡してください。母には僕から言っておきますので」

「本当にありがとう。楓と少ししか違わないのにこの差は、やっぱり育った環境かしらね…」

じろりと睨まれてしまったが、育てたのは君ですから。

「成績もさぞかしいいのでしょうね…よかったらうちの息子の勉強もみてくれると嬉しいわ。本当に酷いんだから。留年しないかハラハラしちゃって」

「ああ、構いませんよ。僕も優秀ではないのですが」

「またまたー、見た目も素敵で、頭も良くて…言う事ないわ。楓が女の子だったらお嫁さんにしてほしかったわー」

すいません、女の子じゃないけど、僕達つきあってます。

「…今から女の子産もうかしら…」

「血迷うな母さん!女産んでも香坂が相手にするわけねえだろ!」

「あら、そー?私に似れば可愛い子が生まれると思うんだけど」

「自分で言った!」

そんな下らない応酬を黙って聞いていた香坂は、腹を抱えて笑い出した。

「あ、すいません…可愛らしいお母様だ」

「やだー、可愛らしいだなんてー!うまいわねー涼君」

さすが香坂と言うべきか、女の扱いは慣れたものだ。
その対象が熟女でも巧みなテクニックは冴え渡る。
呆れを通り越して感心しらしてしまう。
香坂が女性に好かれるのは昔から今も変わらないし、口が達者なのもわかっている。
自分もその被害者だからだ。
こうやって次々と女性を口説いては不幸な子を増やしていったに違いない。

最後に残っていたケーキを仲良く三人で食べると、漸く気がすんだのか、母は父が待つ寝室へ向かった。
きっと父を見てがっかりするのだろう。雲泥の差だとか言いながら。
そして俺達も自室へ向かった。
客人用の布団を出すと母が言ったが、香坂がそれを制した。
迷惑はかけられないからと。
狭いベッドに男二人で寝るのはどうかと思うが、切れた糸をつなぎ直した今日くらいは香坂の我儘も受け入れようと思う。

自室の扉を開け、一目散にベッドに潜り込んだ。が、香坂が許してくれるはずもなく、勢いよく布団を取られてしまった。

「寝るな。みっちり話してもらうぞ」

「いや、それは、その…」

「…何言われても怒んねえから」

嘘だ。絶対に嘘だ。
怒る。今までで一番怒る。わかっているから言いたくない。
折角こうして一緒にいられるのに、理由を話して嫌われたら今度こそ死ぬかもしれない。抜け殻になってしまう。

ベッドにちゃんと座るように諭され、渋々その通りにした。嫌だと駄々を捏ねたところで逃げ場所はない。
香坂は、目の前にクッションを持ってくるとその上に腰を下ろした。

「ほら、早く話せ」

「…えっと…」

慎重に言葉を選ばなければ大惨事だ。言葉は時として凶器だ。人を傷つけるのは容易い。
だからこそ、慎重に話さなくては。言い方一つで大きな誤解も招いてしまう。
香坂だって鉄壁の心を持っているわけではない。誰だって、人は傷つく。
覚悟はしていても、いざとなると怖くなる。折角彼が戻ってきてくれたのに、今度こそいらないと突き放されたら。

「…楓、大丈夫だからちゃんと話せ」

まだしっとりと水を含んでいる俺の髪を耳にかけながら彼は微笑む。
ぎこちなくそれに頷く。臆病になってはいけない。誰よりも傷つき、損をしたのは香坂だ。振り回した罰として、彼には誠実でいなければいけない。

「えっとー…あの、さ……俺、いなくなったじゃん?」

「…ああ、散々捜した」

「その時さ…水戸先輩になんか薬品使われて気失って拉致られ、て…」

「だから気をつけろって言ったのにお前は…」

「いや、それはほんとに悪いと思ってるけど……んで、目覚めたら水戸先輩がいて、俺を抱いたって言うんだ」

その瞬間、香坂の目がぎらりと光った。この表情の香坂は本気で怖い。

「あ、結局やられてはないんだけど。でも俺知らなくて、香坂にばらされたくなかったら言う事聞けって言われ、て…」

語調は弱々しく、言い終えた瞬間に俯いた。
香坂の機嫌がどんどん斜めになるのが雰囲気でわかる。
自分が悪いことをしたのだから、怒られて当然だし、むしろそれくらいしてくれないとこちらも気が済まないのだが、怖いものは怖い。

「まんまと言う事聞いたのかよ」

「そう、です…」

「で?俺に別れ話を持ち出したと…」

「はい…」

「はあ…お前は本物のアホだな。もしもお前が水戸にやられてても関係ねえだろ。俺が水戸を殴ってそれで終わりだ。なんでそれで別れる事になんだよ。あー、もうほんとにお前の脳みそどうなってんだか」

「す、すみませ…」

「お前は俺を信じてねえのか?」

「…そんなことはない、けど…」

「だったら俺に最初から正直に言え。やったやられたで別れるほど、お前と俺の関係は薄っぺらくない。そうだろ?」

「……う、ん…」

説教をされているには変わりはないが、香坂の言葉に一々胸が反応してしまう。

「そんで水戸は?お前を離したのか?なんなら今からぶるぼっこにしに行くか?」

香坂からすれば腹の虫が治まらないだろう。

「水戸先輩は…俺のことはどうでもいいんだよ、もう。弟のためにやったらしいし」

「…なんだそれ」

「水戸先輩、義理の弟と色々あるみたいで、そいつがやって欲しいって言ったからやったんだって」

「…くっだらねえ…」

香坂は溜め息を吐き、眉間の皺を摘んだ。

「秀吉と神谷先輩が俺を離せって、水戸先輩を説得してくれたらしいんだ」

「…なるほど、だいたいわかったけど、問題はお前だな、楓」

「は?俺?」

「そうだ。元々は水戸が仕掛けたのが悪いけど、冷静に物事を判断して、一番最初に俺に言ってればこんなごたごたしなくて済んだものを…」

確かにおっしゃる通りなのだが、俺は自分を守るために香坂と別れた。
こんな汚い自分はもう傍にはいられないと思ったから。
もっと、香坂にお似合いの子がいるんだと思ったんだ。
元々男同士、いつまでも一緒にいられるなど呑気に考えていたわけではない。
もしかしたら水戸先輩を離れる理由にして、それに縋ったのかもしれない。
いつか香坂から別れを告げられるくらいならば、と…。

「…けど、香坂に気をつけろって言われてたのに、あんなことになったし…もう顔合わせられないと思って…」

「だから、南関も言うけどな、一人で突っ走んのはやめろ。なんのための俺なんだよ。付き合うとか、別れるとか勝手に一人で決めやがって…」

「…ご、めん…」

「アホらし。別れた理由がそれかよ。なんのためにお前と別れたのか…こんな事なら無理矢理でも別れなきゃよかったぜ…」

「…ほんとに、ごめん…」

俯いたまま、謝罪の言葉を口にすると、香坂が隣に座り、ぽんと頭を撫でた。

「わけはわかった。お前の性格を考えればしょうがねえけどよ」

しょうがなくなんてない。
香坂を傷つけ、自分も傷ついて、散々遠回りした。その時間がとても勿体無い。
なんのために苦しみ、悩んだのか。自分以上に香坂は辛い想いをしたのかもしれない。
わけもわからないままに恋人に罵声を浴びせられ、別れて。
本当に申し訳ないと思う。
いつもいつも自分一人で悩んで、そして出した答えは突拍子もないものなのに、それだけが答えなのだと周りが見えなくなって、突っ走って…。
こんなこと、もう何度目だろう。一番悪い癖だと自覚しているし、直さなければと思う次の瞬間には同じことを繰り返してしまう。
いい加減、それに付き合わされる香坂も愛想がつきているのではないかといつも不安だ。

「…楓、ほらもう寝るぞ」

「……ん」

電気を消し、先に横になっていた香坂の隣に滑り込む。吐息をつくと香坂に腰を浚われ、彼の胸の中におさまった。

「こうさ…」

「黙ってろ」

こうして抱きしめられながら眠りたいと、何度願った事だろう。
毎晩毎晩、その影に涙を流しては、枕を濡らした。
以前はそこにいて当前だったが、今は尊い存在に感じられて胸が締め付けられる。

「…香坂、ほんとにごめんな……あんな言葉言ったりして…傷つけてごめん」

「…過ぎたことは気にすんな。本心じゃねえならそれでいい」

「けど、いっぱい傷つけたと思うから…」

香坂の胸に顔を埋めながら話した。頭上から穏やかな低音が響く。

「……まあな、お前に別れ話された時はへこんだけどな…」

「俺も辛かったよ…」

「どうせお前のことだからめそめそ泣いてたんだろ?」

「泣いてねえよ!」

「嘘つけ。お前はほんとに泣き虫だから。俺の前では特に。だから可愛いんだけど…」

「へ…?」

「可愛いよ、お前が。可愛くてしょうがない」

言いながら、額にキスをくれた。
俺も、前よりもずっと、ずっと大好きだ。

罪を犯した事実は変えられないが、自分は救われてもいいのだろうか。
あんなことをしたのに、こんなに幸せでいいのだろうか。
神様は許してくれたのだろうか。
どうしよう、嬉しくて、幸せで仕方がない。
香坂が今ここにいてくれるのがどうか夢ではありませんように。

「…楓、お前のこと本気で好きなんだ。わかってくれ…」

わかってる。
どんなに想っても伝わるのは半分で、だから言葉に形を変えるけど、香坂は滅多にその言葉をくれなくて、不安になったりもする。けれども、わかってるから。

「…俺も好きだ…」

「……楓、俺から離れるな。二度目はねえぞ」

「…ん、わかった…今度何かあったらちゃんと言う…」

「ま、何かあってからじゃ遅いんですけど」

「っ、気をつけるから!」

「わかればいいけど…」

ごそごそと布団に潜る香坂に、どうしたのかと聞こうとすると、今度は俺の胸に香坂が顔を寄せた。

「少しくらい甘えてもいいだろ…マジで、辛かったんだ」

「……しょ、うがねえな…」

憎まれ口を叩くが、こんな風に甘える香坂はとても珍しく、その身体をぎゅっと抱きしめた。
香坂も辛かった。自分と同じくらい。
それくらい俺たちは想い合ってる。愛し合うために出逢ったのだと世界中に叫びたい。
男同士だけれど、普通ではないかもしれないけど、そんな些細な問題は霞んでいく。
こんなに好きになれる相手はこの先絶対現れない。
だから、お前も俺から離れたりしないでくれよ。
もう、俺も離れたりしないから。
二度と、その手を離そうとはしないから。
きつく握って、誰の手でも離れないくらいに、何があっても離れないくらいに。
何もいらない。彼がいればそれだけでこんなにも幸福だ。
だから、この存在を俺から奪おうとしないで。

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