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「…楓…?」
後方から声が響き驚いて振り返ると、パジャマにカーディガンを羽織った母がいた。
その手には傘が握られている。
まずい、一番見られてはいけないところを見られたかと、一瞬で身体が強張る。
「なかなか帰ってこないから心配して…何してるの、雨に濡れたまま…」
溜め息交じりにこちらに近付く母は、香坂に視線を移すと頬を上気させた。
「あ、あら、こちらの方は…?」
「……東城の、先輩…」
「まあ!楓の先輩だったの?あらあら、まあ…」
言葉にできないほどの驚きなのだろうか。右の掌を頬に添えながら困惑気味に微笑んでいる。
「もしかして、楓今日先輩と約束してたこと忘れてたの?」
「……まあ、そんなとこ…」
「この馬鹿息子!この方ずっとここで待ってたのよ!?まったく、あんたときたら…ほんとにすみませんねえ…」
「いえ、僕は気にしてませんから」
僕!?
目を見開きながら香坂を振り返ると、濡れた髪をかき上げながら見たことがない程爽やかな笑顔を浮かべた。きら、と効果音が聞こえる。幻聴だとわかっているけれど。
先程までのぼろ雑巾のような彼は霧散し、後輩思いのできた先輩がそこにいる。
夜だというのに香坂の周りだけが眩しい。
「本当にごめんなさいね…もう夜遅いし、家にいらして。身体も冷えてるでしょう?早くお風呂に入らなきゃ」
息子をだしに遣っているが、母は香坂ともう少し話しがしたいだけなのだろう。
その気持ちはわからなくはない。稀に見る美形なのだから永遠の乙女としては眼福なのだろうし、学園での俺の所業も耳に入れたいとみた。
「…じゃあお言葉に甘えさせて頂きます」
「散らかった家ですけど。ほら、楓!傘さしてあげなさい!」
「…は、はーい……」
香坂へ傘を差してやると、母はご機嫌な様子でエントランスへ向かって歩き出した。
香坂をちらりと睨めばこちらを見ながらにやりと笑う。
その笑みに苛立ち、軽く二の腕を拳で殴った。
びしょ濡れの俺と香坂を玄関で待たせると、母はバスタオルを持ってきて、子犬にするようにがしがしと俺の頭を拭いた。
「いでで!痛えよ!」
「うるさい!馬鹿息子が!」
母に言われると反論できない。その後が怖いからだ。
事情は知らないとはいえ、自分が馬鹿だったことに違いはない。
「お風呂わかしてありますから、どうぞ」
そんな俺への態度とは正反対に、香坂には少女のように頬を染めた笑みを向ける。
「すいません、夜更けなのにお騒がせしてしまって…」
「いいのよ、気にしないで。ほら!楓も一緒に入ってきなさい!」
「いや、俺は後でいいから…」
「何言ってんのよ!風邪ひくでしょ!」
「はいすいません…」
男同士なのだし一緒に風呂に入れと言うのもわかるが、残念な事に俺達は…とは、言えるはずもないけれど。
強制的にバスルームに押し込められ、パジャマは用意しとくの母の一言に、盛大な溜め息を零した。
「お前の母ちゃんおもしれえ…」
香坂はくっくと喉を鳴らしながら笑う。
確かに、綾さんみたいな品はないし、見た目だって歳相応だ。一般家庭の母親を絵に描いたようなうちの母を見れば、香坂には新鮮なのかもしれない。
「さて、風呂入るか。マジで寒いんだよ」
肌に張り付く衣服を豪快に脱いでいく香坂に、不覚にも胸が高鳴った。
裸なんて何度も見たし、別に今更意識することではないとわかっているのだが。
同じ造りをした身体に何故どぎまぎしなければいけないのだと思うと腹立たしい。
「おい、何してんだよ。早くお前も入れ」
すっかり全裸になった香坂は、バスルームの扉を開けながら言った。
「い、今入るよ!」
とは言ったものの、本当に今更ながら次から次へと羞恥が湧きあがる。それが胸を一杯にし、頭までも占領し始めた。
乙女か?俺は乙女なのか?
そんな自分にがっくりと肩をおろし、いつまでも処女のようにもじもじしていられるはずもなく、肌に張り付くパーカーを脱ぎ、自分もバスルームの扉を開けて中を覗いた。
そこには、踏ん反り返りながら、湯船に入る彼の姿。
こんなときまで態度は横柄だ。
「生き返った…」
香坂は瞳を閉じて、心底幸せそうに呟く。
こそこそと自分も室内に入り、洗面器にお湯をため肩からかぶる。
本日二度目の風呂だ。
まさか、こんなことになろうとは。
「お前も入れば?身体冷えてんだろ?」
「い、いいよ、うちの風呂狭いし二人じゃ無理だろ…」
「大丈夫だよ、ほらここ」
指を刺さされたのは、香坂の股の間だ。
そんなところに座れと言うのか。意識しているのは自分だけなのかと思うと、益々情けなくなる。
「何もしねえから大丈夫だよ」
とは言うものの、彼のことだからわからない。
「親がいんのにできるわけねえだろ」
信じて後で痛い目見たら俺は大泣きするだろう。
心をやっと通わせてすぐさま身体を求めるなど野獣的なことはしないと信じたいが、香坂なば充分にありえる話しだ。
「もたもたすんな」
腕をぐいと引かれ、転がるように湯船の中に入った。
香坂に背中を向け、三角座りをして丸くなる。
「なんでそんなにちっちゃくなってんだ?」
「ほっとけ!」
「ふーん、別にいいけど…」
ご機嫌な香坂は、温かいお湯を堪能するように鼻歌まで歌いだした。
「あ、お前、今日は覚悟しろよ」
「覚悟とは…?」
「とぼけんな。なんで俺と別れたか、じっくりたっぷり聞かせてもらうからな」
「え、えーっと、それはまた後日…俺眠いし」
「アホ、寝させねえよ」
何もかも話したら、手酷く怒られるか、呆れられるかの二択だ。どちらも嫌なのだけれど。
真実を話したらやはり別れると言われないだろうか。そんなに頭の悪い人間とは付き合いきれないと言われるかもしれない。
けれど、逆の立場ならば納得できるまでわけを聞きたい。どんな言葉を重ねても納得などしてくれないかもしれないが。
香坂本人に懺悔しなければ、罪は消えないのだ。
わかってはいるが、躊躇われる。
「ってかお前さ、ずっと雨の中にいて体調悪いとかねえの?」
「…さあな、身体は辛かったけど、お前が戻ってきてくれたから別に」
身体の辛さと心の辛さは別物だと思うのだが。病は気からとはよく言うが、それを現実にする香坂涼、恐るべし。
「お前の家に来るの二回目だな」
「ああ、前は夏休みだろ」
「そう、前は弟にしか会わなかったけど、今日は母ちゃんに会えたし」
「お前なに?あの猫の被りようわ」
「当たり前だろ。親にもいい印象を与えないとね」
「爽やかすぎて一瞬須藤先輩と被った」
「一緒にすんな。俺が本気出せば、拓海も秀吉も敵わねえくらい爽やかなんだよ。スポーツとかしたらやばいぜ?」
「やばくはねえけど」
「お前惚れ直すぞ?」
「調子のんな!」
狭い湯船の中で騒いだ。吠えていたのは主に自分だが。
リビングで待つ母からしたらさぞ煩いことだろう。
できれば夜も遅いからと眠っていてほしい。
母の少女のような表情を見なければいけない息子の辛さが誰にわかるだろう。
崇拝するアイドルや俳優を見る目と完全に一致してた。
相変わらず俺様ぶりは健在な香坂と、久しぶりの喧嘩を楽しみながら風呂を出た。
用意してあったパジャマは俺のもので、香坂には小さいのではないかと首をひねったが、予想通り袖も裾も若干足りていない。
自分が着ると余るのだが。身体の造りの違いが憎らしい。できれば自分もスタイルがよく生まれたかった。両親をみれば確実に無理だけれど。
「お前…ちっさ」
「うるせえな!背は伸びてんだよ!」
「そうか?あんま変わってねえけど。俺も伸びてんのか」
「お前はそれ以上伸びなくていいわ!」
くだらない言葉遊びが幸福だ。
それすらも恋しかった。
ただ会話をするという、些末な行為さえもが、恋しくて恋しくてたまらなかった。
だからこの今瞬間を酷く幸せに思う。
他愛ない会話をできる距離に彼がいてくれること、手を伸ばせば身体に触れられること、香坂が自分だけに笑いかけてくれること。
その存在がここにあること。
その一つ一つは些細な幸せでも、それが積もって大きな幸福となって胸を圧迫する。
あんなに苦しんでいたのが嘘のように、嵐の後の晴天のように、心はすっと晴れていた。
悩み損かとも思うのだが、辛かったあの時間はきっと無駄ではない。
香坂という存在が自分にとってどれほど大きかったのか痛感した。
一人で突っ走って、一人で散々悩んで、それの繰り返しを再三やってきたけれど、その度に香坂が手を差し伸べてくれる。
甘えているだけで、性格を直さなければと思うのだが、これが手強くなかなか直らない。
少しずつ、そんな自分も大人になれるように頑張りたい。
周りにはかなり迷惑をかけているけれど。
そんな性格を理解し、一緒にいてくれる友人や香坂に、心の底から感謝をしている。
まずは、少しだけ素直になるところから始めよう。
性格が歪んでいるのは薫とよく似ている。誰譲りかは知らないが。
友人も香坂も同じくらいに大事だ。誰も失いたくはない。
だから、自分ができることは少しずつ、良い方向へ変えていかなければと思う。
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