6
リビングの窓にへばりつき、真っ暗闇の中流れる透明な雫を眺めていた。
香坂のもとへは行けずに、もうイヴが終わろうとしていた。
キッチンからは母が食器を洗う音が聞こえる。
まだ待っているのだろうか。さすがに帰っているだろうか。いや、帰っていてほしい。
こんな大雨の中冷えた外気に肌を撫でられれば、いくら身体が丈夫な香坂といえど風邪をひいてしまう。
わかっているのだから、帰れと一言言ってやればいいのに。電話だってできるはずだ。
なのに、一歩踏み出せない自分はただの臆病者だ。男らしくないとわかっている。
臆病になるのは悪いことだろうか。香坂のことを想っているからこそ怖くなる。
彼には幸せになって欲しい。
けど、その幸せを与えられるのは自分ではないと気付いた。
本当は自分が幸せにしてあげたいけれど、できなかったから他の子にその願いを託す。
細くなった雨粒を見て、マーブル模様の感情に心細くなる。
窓から見える家々は、クリスマスに浮かれてあんなに温かな光りを灯しているのに、自分の心だけが真っ暗だ。
「楓ー!」
「…なに?」
キッチンから叫ぶ母を振り返ると、半透明なゴミ袋を翳してにっこり微笑まれた。
嫌な予感がする。
「暇そうねえ、これ、捨てに行ってくれても構わないんだけど」
「べ、つに暇じゃねえけど…」
「さっきからそこでぼうっとしてるのに?はい、早く行ってらっしゃい」
ゴミ捨てくらいは構わない。それくらい、小さな親孝行だと思えば。
けれど、捨て場に行くにはエントランスを抜けなければならない。
捨て場は建物内なので、香坂と鉢合わせすることはないが、やはり意識せざるを得ない。
「ほら、父さんを助けると思って!」
毎朝ゴミを捨てるのは父の仕事だ。
それを嫌な顔せず引き受けているけれど、気の弱い父が母に勝てるわけはなく。
浅く吐息を零し、やれやれと肩を竦めた。
仕方がない。ここは、肩身の狭い思いをしている父を助けるつもりで行くしかない。
まだ香坂が待っているとは思っていないし、いたとしてもマンションの入り口を抜けるわけではない。大丈夫。絶対に会うことなんてない。
「わかったよ…」
母からゴミ袋を受け取り、玄関でサンダルに履き替えた。
今日一度も外出せず過ごしたのに、やっと出たと思ったらゴミ捨てなんて笑えない。しかもイヴの日にだ。
エレベーターで一階を目指し、扉が開いた途端に視界に入るエントランスにどきっとする。あの向こう側に彼はいるのだろうか。
どうしたって意識をしてしまう。考えてはいけないとわかっているのに。
かぶりを振り、想いを打ち消す。
気を取り直すようにゴミ袋を持ち直す。
収集場所へ大股で向かい、ゴミ捨て場にそれをどさっと無造作に置いた。
さて、用事も済んだしさっさと帰ろう。
建物内だというのに、部屋着の上にパーカーだけで出てきたものだから寒くてしょうがない。
マンションの中でこの寒さだ。外は一瞬で身体が凍ってしまうほどに寒いのではないだろうか。
そんな中雨に打たれたら…。
考えるなと言い聞かせたばかりだというのに、気を抜けばまた意識が香坂へ流れる。
自分の思考のゴールはすべて香坂で、ほとほと呆れてしまう。
苛立ちを隠すように、足早にエレベーターへ向かいボタンを押した。
後方にあるエントランスは意識しないようにと、無理矢理心がける。
軽快な音と共に、エレベーターの扉が開く。
これに乗り、家の階のボタンを押せば温かな室内に入り、問題も解決。
ありがとう、と笑う母に軽く返事をして、歯でも磨いてさっさと眠る。それで今日も無事に一日が終了。
だらだらと無駄に過ごした一日だったけれど、ケーキも食べたし、母がツリーを飾っているのも見たし、クリスマス気分は満喫した。
それで終わり。次には街の景色はクリスマスから一転、正月へ向けて慌ただしく変化していく。
年末は誰もが忙しないのだとぼんやりと考え、薫と適当に遊び、毎日を淡々と消去法で過ごす。
そんな平和で平凡な冬休みを楽しむ。平和を満喫する。
誰にも邪魔されず、香坂や水戸先輩や面倒な問題も忘れ、自分の感情すらも忘れる。
素晴らしい休暇だと思う。心を無にできるし、家族という存在が近くにあれば安心もする。
香坂に振り回されずに済むし、万々歳だ。
なのに、エレベーターの扉が閉まってしまったのに、そこから一歩も動けないのは何故だろう。
答えは明白で、だからこそ気持ちと思考が正反対に働くことに動揺した。
どちらの道を選択すれば正しいのだろうか。
気持ちに正直になるべきか、理性を保つべきか。
エレベーターの前で、かなりの時間考えこんでしまった。
今が深夜でよかった。誰かに見られたら間違いなく不審者だ。
まさか、こんな時間まであいつも待ってはいないと思う。
あれから十二時間以上経っている。
半日雨に打たれるなんて、そんな馬鹿馬鹿しい真似、怜悧な香坂がするわけがない。
そうだ、今日は外に出なかったから、少し外気に触れたいであって、今エントランスに向かっているのは何ら特別な理由はない。
イヴの日に引き篭もっていました、では格好もつかないし、その雰囲気を味わいたいだけだ。
妙な期待を抱いているわけではない。そんなわけでは、決してなくて。
俯きながら、自に言い訳するようにエントランスを歩いた。
あと一歩で入り口を抜ける。
自動ドアが開き、外の空気に身体をさらした。
想像よりもずっと寒い。
十二月で師走もすぐそこなのだから、寒くて当然なのだが、学園よりもずっと寒いかもしれない。
冷たい雨が、すべての熱を奪っている。
顔を上げれば、すべてが終わる。
香坂がいなかったと確認すれば、なんのしこりも残さずにすんなり家に戻れる。
人を待たせるのは良心が痛むし、今日すんなり眠れるように、帰ってくれたのだと安心したいだだ。
それ以上の理由はない。
早く、顔を上げてその目で確認すればいい。
ぐっと両手で拳を作り、意を決して俯いていた顔を勢い良く上げた。
「…なんで…」
眼前に広がる光景が信じられずに呟き、瞠目した。
エントランスへ続く道沿いに備えられた、膝丈くらいの花壇のブロックに、腰を下ろして雨に打たれ続けている香坂がそこにいたなど、信じられるだろうか。
首に力を入れず、ぐったりと頭を下げ、雨粒が蜂蜜色の髪の毛から滴っている。
全身びしょ濡れで、水も滴るいい男とはお世辞でも言えない。
大雨の中捨てられた猫のよう。
けれど、身体を震わせる事もなく、ただじっとその場に座っている。
なんで。
もう、半日経った。
こんな寒い中そんな格好でいたら、身体を壊すと幼稚園児でもわかる。
理屈とか、理性とか、そんなのもうどうでもよかった。
ただ、好きだ嫌いだではなくて、今のこの状況を打開したかった。
だってきっと、あいつは俺が声を掛けるまでずっとそこにいると思うから。
自分の信念は何があっても貫き通す男だ。悪く言えば頑固。
こんなときまで、頑固にならなくてもいいというのに。
居ても立ってもいられなくなり、自分が濡れることも厭わず、サンダルのまま香坂に駆け寄った。
「香坂!」
ぐっと肩をひくと、こんなときでも強い光りを放つ視線が交差する。
苛立ちや不安、あらゆる負の感情を纏うとその美貌が恐ろしいものへと変わる。
俺の顔をしばらくぼんやりと眺め、やっと確認した香坂はふっと一度微笑んだ。
「……遅えよ…」
半日待たせた相手に言う科白ではない。
それは、いつもと変わらない香坂だった。五分待たせただけでも、決まってこう言うのだ。
「遅えじゃねえよ!自分が何してんのかわかってんのか!」
「…わかってるよ、馬鹿じゃねえし」
「馬鹿だろ!半日もこんな雨の中……兎に角!家に入れ!」
腕を掴んで立たせようとしたが、その場から動こうとしない。
「…ただ、お前に渡したい物があっただけだ。渡したら帰るから…」
どことなく、いつもの覇気はない。相当弱っているように見えるのは気のせいだろうか。
話すのも精一杯な様子に思える。
今更後悔した。
電話に出て、素直に帰れと突き放せばこんな状態にならなくて済んだ。
一時間も待てば諦めてくれるだろうと思っていた。
けれど、香坂はそんな半端な性格はしていない。わかっていたはずなのに、香坂自身やその思い出に蓋をして喪失していた。
弱々しい香坂を唖然と見つめる。胸の中ではどんどんと後悔と罪悪感という言葉が大きくなる。
香坂は掌で大切に包んでいた箱を差し出した。
それは、雨粒に濡れて、包装紙もリボンもぐちゃぐちゃで。
受け取っていいものか悩んでいると、もう一度、ふっと笑った香坂の声が耳に届く。
「びびんなよ、ただのクリスマスプレゼントだ…」
「……プレ、ゼント…?」
「ああ。お前に前から買ってあった…捨てるに捨てられないし、お前に買った物だから。
あとは、お前が売るなり捨てるなり好きにしろよ」
こちらに差し出した手は微かに震えていた。
体温は急激に下がり、手の感覚も麻痺しているだろう。
本当に馬鹿だ。
普通プレゼントを渡すために半日も雨の中待ち続けるか。
こんな俺のために。香坂を裏切った俺なんかのために――。
香坂が馬鹿すぎて、呆れて涙が溢れる。
歪む視界で小さな箱を受け取った。
「…じゃあな」
立ち上がりながら定番の別れの挨拶をした。それは本当にいつも通りで、今関係が途切れていると忘れてしまいそうになる。
香坂はふらふらと足取りも覚束ないまま歩き出した。彼が行ってしまう。
「香坂!」
胸の中に溜め込んだ気持ちが溢れそうになり、咄嗟に呼び止めてしまった。
「…なんだ?」
振り返った彼の顔色は目を見張るほどに悪い。
「……なんで…なんでこんなこと…」
流れる涙は雨に混じって頬を流れる。
「…お前が好きだからだよ」
然も当然のように、微笑を浮かべながら彼は言った。
そして、その言葉に益々涙が溢れたのは言うまでもない。
何故そんなに簡単に、こちらが必死で喰い止めていた想いを口にするのか。
どれだけ悩み、どれだけ苦しみながら忘れようと努力したのかわかっているのか。
そんなことを言われたら制御が利かない。香坂への想いが、禁じ得ない。
憎んでいるのだと思っていた。
もういらないと言われるのが怖くて必死に避けていた。
何故こんなに汚い俺を、そんな澄んだ瞳で好きだと言えるのか。
わからない。あんなに傷つけたのに。
狡賢く、何度も縋ろうとしたのに。
仕舞いには嗚咽まで漏れるほどに泣きだしてしまった。
香坂は、狼狽した様子で苦笑を浮かべている。
「…なに泣いてんだよ。相変わらず泣き虫だな」
「るせえ…泣いてなんか、ねえよ…」
涙を拭ってしまおうと、パーカーの袖で両目を擦った。
拭いても拭いても溢れる涙に嫌気がさす。
「泣くなよ」
ぽんと、頭に置かれた優しく大きな掌と、いつもの言葉。
何もかもいつも通りで。俺が泣くと、慰めるためにこうしてくれた。思い出して、また涙を流す。
変わらない態度に言葉に声色。どこれもこれも懐かしい。
けど、自分が今その温かさを与えられていいのだろうか。
こんな汚い自分が。
「困らせるつもりはねえよ。ただ、俺の勝手な気持ちだ」
「き、もちって……なんで…なんで俺なんか好きなんだよ…」
「さあな…でも好きなもんはしょうがない。自分じゃどうにもなんねえし」
無理矢理押し殺していた想いが溢れるのは、彼の言葉に安心したからだろうか。
当然のことを、自分の気持ちから目を逸らさず力強く言い切る姿に、こちらも肩の力がふっと抜けた。
自分ではどうにもならない気持ちを抱え、矛盾し、苦しむ。
自分の尻尾を追いかける犬のように、くるくると同じ場所を回っていた。
香坂もそうだったのだろうか。自分と同じ気持ちに苦しんだのだろうか。けれども仕方がないのだと、気持ちを受け入れる覚悟をしたのだろうか。
一瞬でも、このままこいつの腕の中にいてもいいと、錯覚してしまった。
「よりを戻せなんて言わねえから、好きなようにさせてくれよ」
こちらが否定したところで好き勝手するくせに、こんな時だけ求めるなんてずるい。
「お前が水戸を好きでもいいから。想ってるのは勝手だろ」
「…きじゃない」
「なに?」
「水戸なんて好きじゃない…」
待てと、もう一人の自分が警告音を鳴らしている。
頭の中で煩く鳴り響くのに、その足枷を止められないほど、様々な想いが入り混じり、まともな思考ができない。
「お前だけしか、好きじゃない…」
泣きじゃくりながら、香坂の胸の中に飛び込んだ。
そんな資格はないとわかっていながらも。
あんな姿を見て、そんな声を聞いて、欲しかった言葉をもらえたら、我慢もなにも限界だった。
頭の中が真っ白になり、ただ、香坂を想う気持ちばかりが溢れてしまい、自分では止められない。
「……けど、お前…」
「色々言ったけど、あの時はそうするしかなくて…ごめん…」
「……お前、俺のこと好きなのか?」
「……好きだ…」
言った瞬間、強く、強く身体を抱きしめられた。
雨に濡れながら、こんな人目のつくマンションの入り口で馬鹿な真似をしていると、冷静になればわかるはずの答えも今は考える余裕がない。
香坂が恋しくて、大好きでたまらなくて、今はそれしか考えられない。
「…また、無理してたのか?本当に素直じゃねえ奴」
「るせ」
「素直じゃなくて、一人で突っ走って、頑固で、面倒くさくて…こんなアホなガキ、なんで好きなんだか…」
「誉めてんのか貶してんのかわかんねえよ…」
辛かった心を解きほぐすように、香坂はずっと抱きしめてくれた。
何故香坂はこんなに温かいのだろう。
だからこそ忘れられなかった。
誰のものとも違う温かさと甘さに中毒になっていた。効果が切れると脳が欲しい、欲しいとそれしか考えられなかった。どんな強力な薬よりも副作用があると思う。
どうしてこんなにも、香坂を欲しがってしまうのかわからない。
「楓、好きだ。お前だけだ…」
耳元で響いた香坂の言葉は、ひどく切なかった。
また胸がぎゅっと締め付けられた。限度なく何度も何度も締め付けるから、とても痛くて、けれどもずっとそうしていたいと思う。
女々しいと笑われようが貶されようが涙が止まらない。
どんなに自分を偽っても、香坂を目の前にすれば嫌でも素直になってしまう。
言ってはいけないと、想ってもいけないと封印した心がいとも簡単に音になってしまう。
好きだ。押し殺していた分、その感情は激流となって俺たちを包む。
香坂は身体を離し、愛おしそうに微笑む。そして乱暴に涙を拭ってくれた。
「優しくしろよ!」
「うるせえな、生意気なガキにはこれくらいで充分だ」
二人で見詰め合い、そして笑った。
香坂の表情は今まで見たことがないくらいに優しいもので、また、この顔が一生忘れられなくなるのだろうと思った。香坂を失った苦しさを知っているから愛されるのが怖かったけれど、でもどちらにせよどんなに努力しても忘れられないのだろう。
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