5



「楓ちゃんおはよ。冬休みだからって寝すぎー」

「うっせ」

パジャマ代わりにしているトレーナーの裾から手を差し込み、腹をかきながらリビングへ向かった。薫は既に受験勉強を開始いていた。テーブルの上には教科書や参考書が乱雑に並んでいる。
携帯だけを部屋から持ってきて、テーブルの上に放り投げた。

「…雨降ってんのか…」

「そ、折角のイヴなのにねー」

そういえば今日はクリスマスイヴだったっけ。
薫に言われて初めて気付いた。
イベントを気にしている場合ではなかったから、すっかり忘れていた。
友人たちは恋人と過ごせているだろうか。
皆には散々迷惑かけて世話にもなった。
恋人たちのためである今日という日くらいは、何も考えずに過ごしてもらいたい。
友人の幸せは心から願っているつもりだ。

それにしても頭が重い。
昨日、泣き腫らしたからだろうか。
ずんと、錘でもつけられたように重力に逆らえない。
だるい身体を引きずりながら、テレビのリモコンを手繰り寄せ電源を入れた。

「楓ちゃんイヴなのに出かけないの?」

「…お前こそ。恋人は教科書か?」

「ええ、僕は真面目な受験生ですから。皆が浮かれて遊んでいる間に努力して、皆が必死こいてるときに楽してやるんだ」

我が弟ながら性格が最高に悪い。ひん曲がり、複雑に入り組んでいて、真っ直ぐ戻すのはもう無理だろう。
どんな性格でも結構だが、他人への感謝だけは忘れないでいてくれよ。そんな兄の些細な願いも届かないだろう。

窓に叩きつける雨粒は大きく、外の世界を遮断するかのように厚い雲が停滞している。
どうせ予定もなかったし、雨だろうが晴れだろうがどうでもいい。
けれど、日本中の恋人たちは残念なことこの上ないだろう。

時計を確認すればとっくに昼を過ぎている。
どのチャンネルに変えても、奥様が好みそうなドラマやニュースばかりだ。
あまりのつまらなさにテレビを消し、ソファに横たわる。

「また寝るの?」

「んー…だってつまんねーし」

「課題とかないの?」

「あるけど、そんなん適当に蓮の写すし」

「またそうやって蓮さんに頼って…だから頭悪いままなんだよ」

頭悪いままなんだよ――。その言葉がぐさりと胸の深部に突き刺さる。
痛い。とてもイタイ。それは言わないお約束ではないか。
高校二年になろうとしている今、どんなに頑張ったとしても、国立大学にを目指せる位置にはいない。
諦めが肝心。昔の誰かがそんなことを言っていた。諺に従っているだけなのだ。
薫につけられた傷を自分で慰める。

「あ、そういえば蓮がお前に会いたがってたぜ」

「マジ」

「元気なのーとか、心配してた」

「そっか。蓮さんに全然会ってないし、僕も会いたい」

「その内三人で会うかー」

薫曰く、俺よりも蓮の方が数倍兄貴らしいのだとか。
優しく、頭も良く、面倒見の良いと三拍子揃っていれば兄貴としていうことなしだ。
実際蓮は弟と妹がいるし、とても可愛がっている。

大きな欠伸を一つした。長期休みは幸福だが、何も予定がないと退屈で死んでしまいそうになる。
イヴに出かけてもきっと恋人だらけ。おまけにひどい雨で驚くほど寒いだろう。
一日中家の中で過ごそうと決め、未だはっきりしない頭をどうにかするため、キッチンへ向かった。

冷蔵庫を開ければ母が作った朝食の残り物がある。それをレンジで温めている間にコーヒーを淹れる。
リビングにそれらを運ぼうと、カウンターにそれらを置くと呑気な薫の声。

「楓ちゃーん、携帯なってるー!」

「メール?」

「電話みたい。香坂って書いてるよ」

まさかの名前に、心臓が大きく跳ね上がる。全身を巡る血管が膨張したかのように、速度を上げて流れ始めた。

「出ないのー?香坂ってあの人でしょー?」

「…あ、ああ」

カウンターに置いた朝昼兼用の飯は放っておいて、薫から携帯を受け取った。
ディスプレイには確かに香坂の名前。けれど、あいつがかけてくるわけがない。
もしかしたら木内先輩や須藤先輩かもしれない。
何か伝えたいことでもあるのだろうか。それとも香坂から罵詈雑言をを浴びせられるのかもしれない。腹の虫が治まらない、と。
どちらにせよ、電話に出る勇気はない。呆然とメロディーが流れる携帯を持ったまま立ち尽くした。
その内留守電に切り替わったが、やはり通話ボタンは押せずにいた。

「…なんで出ないの?また喧嘩中?」

「そんなんじゃねえよ」

「じゃあなに?」

興味津々といった様子の薫の顔つきに、苦笑を零す。話しを逸らすように、ぽんと頭を撫でた。
それ以上追求されまいとキッチンへ戻る。スープにホットドック、簡単なサラダワンプレートになったそれをリビングのテーブルの上に置いた。

「いただきます」

「今更朝ご飯?」

「いいんだよ、ダイエットだ」

「楓ちゃん痩せる必要ないじゃん」

「…じゃあ、筋トレ?」

「意味わかんない」

呆れる薫はこれ見よがしに溜め息を零し、再びノートに向かった。
家族にいらぬ心配はかけたくないし。特に薫は受験生だ。勉強だけに集中できる環境を整える必要がある。
ホットドックにかぶりつきながら、ポケットに入れた携帯を取り出した。
ディスプレイには、留守番電話有の文字。
何が、入っているのだろう。恐くてとても聞けやしない。
大好きだった声で罵倒されたくない。想像しただけで身体が芯から冷えていく。きっと二度と立ち直れない。だからといって、逃げるのは卑怯だ。
香坂を傷つけたのだから、それ相応の覚悟は必要で、どんな言葉も受け入れなければいけない。
それすらもできない自分は臆病な卑怯者だ。

ホットドックを食べ終え、それをコーヒーで無理矢理胃袋に押し込んだ。
こうでもしないと、まともに飯を食える気がしない。
最近は空腹すら感じない。
人間の身体がおもしろいもので、精神が衰弱すると、食べて生きるという最も大切な行為を放棄しようとする。
このまま痩せていったなら、いつか死んでしまうのだろうか。勿論、それは避けたい。
だから、無理矢理でも食べる。

「ごちそーさん」

「おそまつさま」

「お前が作ったわけじゃねえだろ」

「いや、なんとなく。答えてあげないと可哀相じゃん。独り言とか痛い子になっちゃうから返事してあげたの」

「…余計な心配り、ありがとう」

ふくれる薫は軽く無視し、空になった食器をシンクへ置く。
カップの中にはコーヒーが残っていたが、これ以上飲むと気持ちが悪くなってしまいそうだ。
薫の邪魔をしないようにその足で自室へ戻った。眠くはないがベットの上に転がる。
ポケットの中の携帯を取り出しディスプレイを眺めた。留守電が聞きたいような、聞きたくないような。
矛盾しながらせめぎ合う心は天秤に変わった。そして、聞かないという選択が勝る。
このまま放置していれば、そのうち留守電も消えてくれるだろう。
これ以上何も考えたくはない。どうせ、何事もマイナスにしか考えられないのだ。
自分で自分の首を絞める趣味はないし、自虐もしたくない。
辛い現実から目を背けるのは卑怯なやり方かもしれない。けれど、自分を守る唯一の方法がそれなのだと思う。

香坂を忘れ、思い出を忘れ、そしていつか立ち直ったとき、好きになれる子ができたなら、普通の恋愛をして、大事にしてあげて…。
自分が笑っている未来が想像できずにいるけれど、きっといつかそうなれる。
この苦しみが一生続くわけがないと信じたい。
その内何もかも忘れ、また懲りずに誰かに恋をするのだろう。
今度は女の子がいい。守ってあげられるような。
そうだな、蓮にようにおっとりしながらも一本芯が通っている子がいい。
髪は長くて、背も小さくて。そんな子と、普通の恋愛がしたい。
あいつのことなんて綺麗さっぱり忘れられて。顔すら思い出せないほどに。
想像するのは容易いのに、そんな現実はいつまで経っても訪れてくれない気がする。
恐怖に身震いをした。
一生、香坂という存在が付き纏う気がして。

いつの間にか眠ってしまい、携帯で時計を確認すると夕方六時を告げている。
リビングに戻ると、勉強の小休憩か、薫はドラマの再放送を眺めている。
雨はまだ止みそうもなく、それどころか益々ひどくなっている。
横殴りの雨は容赦なく窓を打ちつけ、雨粒が目に見えて大きい。
気持ちまで沈める空模様に、また溜め息が零れそうになった。
気持ちが頓挫しているときは、世の中のすべてが灰色に映る。天気一つをとっても。
すべてが悪い方向へ向かい、なにもかも思い通りにはならない。
テレビに集中している薫は、こちらを振り返らない。
黙ってソファに着くと、玄関を開錠する音が聞こえた。それと共に、空模様とは正反対の母の底抜けに明るい声が響いた。

「ただいまー!薫も楓もいるのー?」

「いるよー」

「あらやだ。イヴだってのに、なんでうちの子はモテないのかしらねえ…彼女でも連れてきてるのかと思ったわ」

そんな風に言うのならば、イケメンに産んでほしかった。

「酷い雨だわ、やんなっちゃう…」

母はコートに残った雨粒を払う。頬や鼻が真っ赤になっている。

「雨だから一段と寒くて…東京にしては珍しいくらい」

そんな風に言ってはいるが、その表情はどことなく明るい。やはり、クリスマスだからだろうか。父に何か強請ったのかもしれない。
安月給で家族を食わせ、尚且つ母さんにプレゼントを強請られては可哀想だ。同情してしまう。

「…父さんに何強請ったの?」

「え?なにも強請ってないわよ。この歳になってプレゼントなんていらないわよ」

「じゃあなんでそんなに機嫌いいの?」

「それがねー、素敵な男の子見ちゃって!芸能人かしらねー。モデルとか?」

「へー、そんなにカッコよかったんだ」

「そりゃもう!母さんがあと十歳若ければ…」

「二十歳の間違いじゃね?」

「失礼ね!…でもその人マンションの入り口でずっと雨に濡れてたわ…こんな寒いのに、風邪ひかなきゃいいけど…傘貸してあげようかしら…」

一瞬、まさかという言葉が頭をよぎった。

「…その人って…どんな人だった?」

「…うーん、髪は肩につかないくらいで、背が高くて、すごく整った顔で…思い出しても溜め息が出ちゃう。あんな子が息子だったらなあ」

「母さん、僕じゃ不満って事?」

「だってあなた私にそっくりでつまらないんだもん」

「つまらないってひどいなー」

薫と母の会話を呆然と聞きながら勢いよくソファから立ち上がった。急いで自室へ走る。

「あら楓、急に――」

呑気に会話をしている暇はない。
もしかしたら。思い違いならそれでいい。もし、もしもその人が――。

ベットの上に放り投げていた携帯をとり、一瞬躊躇ったが、勇気を出して留守電を聞くため携帯を耳元に寄せた。
一件の新しいメッセージがあります、という機械音の次に聞こえたのは、懐かしい、懐かしい声だった。

『…俺だ……渡したい物がある。お前のマンションの下で待ってる』

声を聞いただけで胸があらゆる感情で溢れ、マーブル模様になった。
悲しくなんてないのに涙腺が緩む。
久しぶりに聞く、心地よい低音の声。
心の隅っこに無理矢理押し込めた愛おしさが一瞬で手繰り寄せられる。
溢れ出して心が香坂一色に染まる。
辛い、悲しい、苦しい、痛い。
負の感情は恋しさの前で霧散した。

やはり母が言っていたのは香坂だ。けれど、この留守電が入ったのは昼で、今は夕方。何時間待っていたのか雑に計算する。五分も待てない香坂が、五時間以上も待っているとは考え難い。
しかも荒れた雨模様。何時間もこんな雨に打たれたら、身体を壊してしまう。
こうしている今も待っているかもしれない。
行かなくては。早く帰れよと言えば済む。
でも、香坂の顔を見て拒絶できるだろうか。その目に見つめられたなら、本音がするりと漏れてしまいそうで。逢いたかった、好きなんだよと。
それが怖い。
忘れなければいけないと、何度も何度もしつこいくらい言い聞かせてきた。それなのに、香坂の前ではその決意も無意味に散ってしまいそうだ。
だってこんなにも好きで。心の暴走を止められる自信などない。
今だって、香坂が近くにいると思っただけでこんなにも胸がざわつく。
逢いたいと叫んでいる。
エレベーターを降り、エントランスを抜ければ香坂がいる。
ほんの五分もすればそこに辿り着ける。
あんなに逢いたいと焦がれた人が、今そこにいるのだ。

でも、そんなことをしたら、俺はきっと――。

携帯をぐっと握り締め、留守番電話を削除した。
香坂には逢えない。もう二度とその姿を瞳に映さないと決めた。
揺れる心を、血を吐く思いで振り消した。
これくらは頑張れる。
いつだって香坂の言いなりになって、好きなようにさせて、心まで持っていかれていたけれど、そんな自分はもう卒業すると決めた。
その存在を忘れると何度も確かめた。
これ以上心を掻き回されるのは御免だから。すっきり忘れて、新しい恋でもしようと未来を思った。

これは、ちょっとした神様の悪戯だ。
唇を噛み締めて耐えていれば、この苦しみからもその内解放されると信じている。
だからもう関係ない。香坂と俺を繋ぐ糸は一本もない。

大荒れの天気と同調して、俺の心も荒れて始めた。
神様は、どれだけ弄べば気が済むのだろうか。もう勘弁して欲しい。
お願いだからそっとしてほしい。
もう何もいらないし、何も望まない。だから、お願いだから香坂涼を忘れさせてほしい。
自分の罪を何度懺悔すれば許してもらえるのだろうか。

こんな雨の中、ただ俺だけを待ち続けるあいつはどんな気持ちでいるのだろう。
これで最後だからと直接会って伝えたいことでもあるのだろうか。
何にせよ行けない。
あんな言葉を投げつけたのに、水戸がいなくなった途端に都合よくお前が欲しいと言ってしまいそうだから。
そんな自分が許せない。
だから、行けない。

心配などしたくない。一瞬でも香坂を思い出したくない。
だから諦めて早く帰ってほしい。
それが最高のクリスマスプレゼントだ。

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