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やっとの思いで実家に辿り着いた。重い荷物を抱えながら二度も乗り継ぎをし、腕は疲労で限界だし身体は冷えるしでうんざりする。
同じ都内と言えども移動は楽ではない。車が利用できればいいのだが、しがないサラリーマンの父の給料では車まで手が出ない。
自宅であるマンションの扉の前、重たい鞄を乱暴に地に下ろし、インターフォンを鳴らす。
すると、それに応える前に扉が開いた。

「楓ちゃん、おかえり」

「…びっくりしたな…ただいま」

出迎えてくれた弟は、また少し背が伸びたような気がする。最後に会ったのは夏休みなので約三ヶ月ぶりの再会だ。
顔まで大人びていて、たかが三ヶ月なのに中学生のそれは数年に値する変化だ。
自分もこんな風に思われていたのだろうかとぼんやり考えた。
室内に入り、リビングのソファに豪快に腰を下ろす。

「あー…疲れたー」

「お疲れ、なんか飲む?今コーヒー入れようと思ってたんだけど」

「んじゃ俺にも」

「了解」

大きめのパーカーに、細身で濃い色のジーンズを履いた薫は、風貌に似つかわしくないクマの顔付きスリッパの音を鳴らしながらキッチンでお湯を沸かし始めた。
意味もなくつけられたテレビと、テーブルの上にはノートと参考書が無造作に転がっていた。
その一冊を手に取り、ぱらぱらとページを捲り顔を歪めた。

「薫、お前こんな勉強してんのか?」

「こんなってなに?」

「これ数学?全然わかんねーんだけど」

「受験だから一応ね。楓ちゃんも勉強したでしょ」

こんな問題を解いた覚えはまったくない。そもそも東城は高校受験などないも同然だ。外部入学なら話しは別だが。
捲れば捲るほど記憶にない文字や数字が並んでいる。頭痛がおきそうでそれを元の位置に放り投げた。
こんなに一生懸命勉強しなくとも、薫ならば大抵の高校には合格できると思う。
兄の自分とは性格も、頭のできも正反対だ。

「はい、熱いよ」

「サンキュ」

真っ黒のカップを受け取る。
薫も勉強する手を休め、ソファに腰を下ろした。

「肩こっちゃってどうしようもないよ。マッサージ行こうかな」

「若者が何言ってんだよ」

「だってほんとに勉強大変なんだよ」

その気持ちは理解してあげられない。考査だろうがなんだろうが、基本勉強はしない。できないとわかっているから。
しようにも、最初の段階で躓いているため、何をしていいのかわからないのだ。
香坂に無理矢理一夜漬けを施されることはあるが、考査が終われば教科書の出番などない。
それに反して薫は要領がいい。少し勉強すれば、呑み込みが早いのかそれなりにできるらしい。
加えて努力型で堅実派ときている。
母親はできが違いすぎることに頭が痛いと愚痴るが、その度父がまあまあと宥めているらしい。
通知書が自宅に届くたびに、母から怒りの電話がくるのはお約束だ。

「楓ちゃん学校はどお?」

「んー…普通」

「つまんない高校生活だね。あの人は?」

薫の言葉に胸が一度大きく跳ねた。あの人、とは香坂のことであろう。

「…あの人って?」

「夏休みに来た男前の色男」

「…別に、何もねえよ」

「ふーん、つまんないな。もっと刺激的な話しはないわけですか?」

刺激的な話しならいくらでもある。受験勉強に退屈している薫には打ってつけだ。絶対に話さないけれど。
まるで自分の人生がドラマのような展開で、頭も心もついてはいかないのだから。

「別に、何もねえよ。普通の高校だし。お前は?」

「僕も別に何もない」

「彼女とかは?同じクラスに可愛い子とかいねえのかよ」

「んー…どうだろ。よくわかんない」

中学生といえば異性への興味だけでできているようなものなのに、薫はそういった素振りを一切見せない。
色恋に疎いとしても人生でのマイナスポイントになるわけではないし、構わないとは思っている。
もしかしたら、恋人を作るよりも勉強に時間を割きたいのかもしれない。受験生ならばそれで当然だ。
しかし妙に大人びていて、世間を斜めからみる癖のある薫が心配だ。
恋愛など下らないと一蹴しそうだし、人生を冷めてしまっては困る。
愛や恋がすべてではないし、他に熱中できるものがあるならいい。
けど、すべてではなくとも大半はその気持ちがあれば乗り越えられると思う。
仕事、友人、家族、やはりその感情はとても大切だ。
ここは一つ説法でも、と思ったが薫は自分の言う事など聴かないだろう。
どんなに尊いものなのだと訴えても自分が経験しなければ実感はないし、納得もしない。ましてや自分よりも学歴が劣る俺が相手では鼻で笑われるであろう。

「…好きな子とかは?」

お節介と承知の上で聞いた。

「別にいないなー。あ、でもうちの保健の先生すごく綺麗だよ」

「保健の、先生…」

「うん、三十過ぎてるけど、綺麗だよ」

「三十…もっと同い年とか後輩とか…真剣なお付き合いに発展しそうな、さ…」

「そういうのはいいよ。あんまり興味ないんだ」

長い溜息をわざとらしく吐き出す。
こういう弟だとわかっていたが、兄としては心配なのだ。過保護だと笑われることも承知だが。
長期休みしか会えない分、その成長を身近で感じられない。いつも駆け足で大人になろうとする弟に困惑し、憂慮する。
身体だけ大人に近付き精神が成長しない俺と、ここでも正反対だ。

「ってかさ、楓ちゃんまた身長のびたね」

「それはお前だろ」

「僕はまだ百七十くらいしかないよ。楓ちゃんは百七十五以上あるよね」

「どうだろな、測ってないしな」

「目線がまだ上だし…いいなー」

「これからもっと伸びるから安心しろ」

身長の高さは男子にとっては欠かせない話題だ。高い方が得だし、異性からの注目も変わってくる。だから日々友人と背の高さを競っている。今のところ景吾がライバルだ。

「ってか、母さん達は?」

今日は日曜なので仕事も休みのはずだ。それなのに気配がない。

「二人でスーパー行った。今日はご馳走なんだって」

「何かお祝いでもあんのか」

「楓ちゃんが帰ってきたからでしょ?」

「………」

我が家は平和だ。これ以上ないくらい。
毎回実家に帰省すると思うのだが、東城にいると色んな事柄に巻き込まれ、その度歓喜し、悲痛を抱え、刺激には困らないが、平穏さに欠けている。
その点、我が家は平凡を絵に描いたようなごく一般的な家庭だ。温かい春風に家全体が包まれている。
まだ実家にいた頃は平凡過ぎてつまらないとケチをつけていたが、平凡ほど幸せなことはない。
もう辛い想いをするのは勘弁だ。心を痛めたくない。一生生温い春風の中で守られていたい。
俺が求めているのは、傷すら知らないこんな一時だ。

「ただいまー!楓ー?帰ってるのー?」

「あ、噂をすれば帰ってきた」

「帰ってるよー!」

玄関から響く声に、こちらも大声で答える。ぱたぱたとスリッパを鳴らす音が近付き、リビングの扉が開いた。

「あら、本当だわ」

微笑みながらこちらに近づいてきた母親は、俺を見て一層笑った。

「お父さん、楓帰って来てるわよー」

完全に荷物持ちにされていた親父は、持ち手が千切れんばかりに伸びきった袋を必死に運びながら微笑を浮かべた。

「楓、おかえり」

「ただいまー」

買い物袋をキッチンに置くと、ゆっくりと親父がこちらへ近付き、隣に腰を下ろした。
相変わらず、気の弱そうな雰囲気は健在だ。完璧に母の尻に敷かれている。
俺の我の強さは母親譲りかもしれない。遺伝ならば仕方があるまいと自分を納得させようとしたが、親父の昔話しを思い出した。
今はあんな風だが、昔はしおらしかった、と心底残念そうに愚痴っていたことがあった。
母は強しというが、子供を産んでからこんな性格になってしまったのだと、苦笑を零していた。

「さ、早速ご飯作ろうかしら」

母親はビニールが擦れる音を立てながら、慌ただしくキッチンへ向かった。
うちは相変わらず騒々しい。

母が腕によりをかけた夕飯を食べ終え、家族団欒を済ませた。
母の手料理は相変わらずで特別美味くもなければ不味くもない。そんなことをぼやいたら鉄拳が飛ぶこと必至なので胸に秘めている。
しかし、薫も俺の料理の方が美味いといつか言っていたし、自分でもそう思ってしまう。
それでも、お袋の味というものは料理下手だとしても格別なものだ。心底ほっとできるような、内臓から身体と頭をじんわり解してくれる何かがある。
風呂も済ませ、久しぶりに入る自分の部屋で薫と他愛ない話しをして、くつろいでいた。

「じゃあそろそろ勉強に戻るね」

「おー、頑張れよ、受験生」

ひらひらと手を振りながら自室へと去って行く弟に、兄としてできることはなにもない。
勉強を教えられるわけでもなければ、受験へのプレッシャーを和らげる巧い言葉の一つも思い浮かばない。
そんなものは必要としていないだろうが、兄として務めを果たせない自分が情けない。

ベットに寝転びながら携帯を開くと、二件の新着メール。
一件は景吾から、二件目は蓮から。
どちらも無事に到着したことと、休み中も遊ぼうと誘いの言葉が並んでいた。
寮でも学校でも鬱陶しいくらいにいつも一緒なのに、離れてまでこんな様子の二人に幸福な苦笑を浮かべる。
メールに短く返信し、画面をぼうっと眺めた。
ふいに、メモリーに入った香坂のアドレスと電話番号を開いてしまう。
あいつは何をしているのだろう。もう実家へ帰ったのだろうか。綾さんに会いたかったな。
距離はこんなにも近いのに、心の距離は遥か遠くに離れたままだ。
遠い、遠い、遠い。
地球の裏側以上、宇宙の果てほど遠い。

あの温もりが消えるなど予想していなかったから、急激な変化にまだ追いつかない。
片手を天井に向けて伸ばしぼんやりと眺めた。
そう、以前はこんな風に手を伸ばしただけでその身体に触れることができた。
ふいに抱きついたりすればひどく嬉しそうな顔をして、甘えん坊と茶化された。
それほど近い距離に香坂がいた。
今はどんなに手を伸ばしても空を切るばかりで、温もりは遥か彼方へ逃げていく。
淋しいという感情には疎かった。
いつも誰かが傍にいてくれて、家族が近くにおらずとも不便はなかった。
沢山の友人がいて、恋人もいた。
それなのに何故だろう、今は味わったこともないくらいに淋しい。
たった一人、香坂というパーツが欠けただけ。それなのに、パズルの中心がぽっかりと空白になってしまった。
家族が傍にいてくれる、友達も連絡をしてくれる。それでも埋まらない器はどうすれば満たされてくれるのだろう。
香坂がいないだけでこんなにも自分は弱ってしまうらしい。
思い知らされて、愕然とする。
一人の人間に人生が変わるほどに左右されて。だから恋愛なんてするもんじゃない。
蓮と別れたとき、思い知らされたはずなのに。皆が言うように、学習能力が足りないようだ。
もう二度と愛は欲しがらないと決めた。それでも人間は最後まで愛を求めてしまうらしい。とても愚かで滑稽だと思う。愛を求めるが故に深い傷を負うと承知のはずなのに。
唯一無二を一生をかけて探すのが本能なのだろうか。
だとしたら、香坂がそれだったと思う。
性別など些細な問題に思えた。同性同士だからこそ障害も多いだろうが、挫けながらも乗り越えられると思った。傍にいたい。単純な感情なのに、それだけで無敵になれる気がした。
あれも、それも、これも。
美しく鮮明に覚えているから性質が悪い。
思い切り頭をぶつけたら、香坂の記憶だけすっぽりと消えてくれないだろうかと思った。馬鹿馬鹿しい方法にも縋りたくなる。

なんだか急に寒くなり、布団に包まった。
どんなに光りをつけて温かく見せたって、何も変わらない。気休めにすら、なりやしない。
首までしっかり布団を被り、横を向いた。

一人のベットってこんなに広かっただろうか?
窮屈だったのに。
一人で眠るのってこんなに寒かっただろうか?
いつもすんなり眠れていたのに。

瞳を開けると、当然のように香坂の寝顔がそこにあったのに。今じゃ、穴が開くほど見つめても無人のまま。

「……香坂…」

呟けば、香坂が来てくれるのではないかと思って。
呼べば、きっといつものように笑って、どうしたんだよと抱きしめてくれるような気がして。

「香坂――」

名を呼ぶと想いは急激に溢れ、涙を誘った。
どんなに叫んだって来てくれないのに。
馬鹿だ。

もう思い切り泣いてしまおうと思った。
誰もいない。誰にも気を遣う必要がない。我慢ばかりで疲れてしまった。
独りの部屋で涙を流すのはとても滑稽に思えた。けれど、溢れた想いは涙に代わり、次から次へと枕を濡らした。

「お、れ…お前のこと…」

好きだ。今でも、前よりももっと。
想ったってどうしようもないのに。焦がれたところで戻ってこないのに。
何故、二度と手に入らないと思うと、益々気持ちが膨らんでしまうのだろう。
被害者面をして苦しむのは罪だろうか。
きっとこの辛さは香坂を傷つけた罰だ。自分ばかりを守った薄っぺらい愛情。
罪を犯した者はそれ相応の制裁を。俺に科せられた罰は、香坂への恋慕。
だってこんなに胸が痛い。

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