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「僕の部屋でいい?」

「あ、はい…」

先輩は足を一歩踏み出し、それについて行くように俺も歩き出した。
半歩前を歩む先輩の後姿を、なんとなく見詰めた。
歩くたびに細いブロンドが光りを放って揺れる。
そういえば、秀吉は漸く神谷先輩の心を掴んだと言っていた。こんなに綺麗な、作り物のような人を手に入れて大層嬉しいだろう。
間近で見ても、神谷先輩は形容しがたい美しさを持っている。
その存在が高貴で、優雅な仕草に大らかな雰囲気は、育ちが良いのだというのが一目でわかる。まるで雲上人。
これだけ美しいと一日中見ていても飽きないと思う。先輩が少し動く度に、歓喜の溜め息が出そうだ。
傷だらけになって遊んだりしたことはあるのだろうか。温室で、大事に大事に育てられたイメージだ。飽く迄も勝手なイメージで、神谷先輩の家庭環境などプライベートは知らないけれど。

「はい、どうぞ」

「…お邪魔します…」

先輩に見惚れるあまり、目的地へ辿り着いたと気付かなかった。
先輩が扉を開け、先を促す。
一礼して足を踏み入れると、ソファに寝転がる木内先輩と視線がぶつかった。

「なんだ、翔が楓連れてくるなんて珍しいな」

「ちょっとね」

「そうか、席外すか?」

「自分の部屋に行くからいいよ。気遣わないで」

「わかった」

正直、木内先輩と目を合わせるのも辛かった。
友人を裏切った後輩をどう思っているかわからない。
香坂から水戸先輩へ乗り換えのだと噂は流れているし、木内先輩も当然耳にしているはずだ。
軽く頭を下げると片手をあげて応えてくれた。

「ちょっと散らかってるけど…」

神谷先輩は言うが整えられた部屋の中に散らかっている要素はない。
これで散らかっているなどと言ったら、自分の部屋は悲惨なものだ。

「適当に座って」

「あ、はい…」

「飲み物もってくるね」

「すいません…」

初めて神谷先輩の部屋に入った。シンプルに必要最低限の物が整理されている。
アースカラーで揃えられ、とても落ち着く。
イメージ的にはファンシーな物に囲まれていそうだが、神谷先輩も普通の男。やはりそんな事はなかった。それに多少がっかりしている自分がいる。
けれど、高校生男子とは連想されないようなとても心地良い香りが充満している。
お香でも炊いているのだろうかと、その香りの元を探したがそれらしきものは見当たらない。
先輩本人の体臭なのではないかと有り得ない想像をする。
まさか、そんな。馬鹿馬鹿しいと否定するが、神谷先輩となるとそのまさか、を実現していそうなのだ。

「おまたせ。今日はオレンジジュースにしたよ。果汁百%ですごく美味しいんだ」

ロウテーブルの上に細いグラスを置きながら説明してくれた。

「すいません……い、頂きます…」

「どうぞ」

ご丁寧に真っ黒なストローまでついている。まるでカフェに来た気分だ。
ストローを辿り口内に広がった酸味と甘みはとてもバランスがいい。新鮮だからこそ感じ得る仄かな苦味が大人の味だ。

「おいしい?」

「はい、うまいっす」

「よかった」

先輩も同じように飲み、納得したように微笑む。

「あの…俺に話って…」

「…ああ、それなんだけど……水戸先輩から電話来た?」

「え…?」

神谷先輩から水戸先輩の名前が出ただけでも驚くのに、先ほどの会話の内容を知っているような口ぶりに虚を突かれた。

「まだきてない?」

「いえ、きました、けど……」

「そっか、よかった」

「あの……なんで先輩がそのこと…」

斜め向かいに座る先輩を上目で覗き、慎重に聞いた。
先程から疑問ばかりで、許容範囲を超えた頭は破裂寸前だ。

「…秀吉君には口止めされてるんだ。だから、今から話すこと、絶対に秀吉君には言わないでほしいんだ」

先輩は罰が悪そうに笑った。また疑問が一つ増える。水戸先輩も秀吉の名を口にしたが、一体なんの関係があるのだろう。
曖昧に頷くと神谷先輩は続けた。

「秀吉君、楓君と涼が離れ離れなのが耐えられないって、どうにかしようって一人で躍起になってたみたいでね」

「え……そ、んなの、俺知らな――」

神谷先輩の穏やかな口調に眩暈をこらえた。

「僕もこの前知ったばっかりなんだ。色々あって、水戸先輩に今日二人で楓君を離してほしいってお願いしに行ったんだ。そしたら、わかったって、水戸先輩が納得してくれて。楓君に電話でちゃんと言うって約束してくれたから、どうかなって心配になって…」

淡々とした口調と澄んだ声は心地よい響きで頭の中にすとん、と入ってくる。それが自然すぎて、聞き逃してしまいそうなほどに。
秀吉がそんな風に思っていて、行動に移していたと知らなかった。知らなかった。
寂しそうにこちらを見つめ、思うようにすればいいと言っていた。別れを選ぶならば、それでいいとって言ったくせに。
整理すると胸が、急に熱くなった。
自分が友人にどれだけ恵まれているのか、痛いほどわかった。

「僕は、ちゃんと楓君に説明した方がって言ったけど、秀吉君はそんなのいらないって。自分がしたことを楓君が知る必要はないって。だから、内緒だよ」

「…っ、」

胸が苦しい。喉が熱い。声が音にならない。感情が暴れだしそうになり、ズボンをぎゅっと握りしめた。
秀吉がしてくれたこと、俺を想ってくれたこと、何も知らずにいた自分が酷く恥ずかしい。
自分のことで精一杯で、友人から送られるサインに気付けなかった。辛いと泣き叫ぶばかりで、周囲が目に入っていなかった。

「…カッコつけやがって…」

自嘲的に笑う。影で見守っているからなど、寒いセリフを言うのだろうか。
寂しそうに笑う秀吉が脳裏に浮かぶ。

「…楓君…」

爪が白くなるくらいに握り締めた手から視線を離せずにいた。
少しでも瞳を動かしたら涙が零れそうで。自分の涙腺は昨日からぶっ壊れたままだ。
そんな俺に気付いたのか、神谷先輩がぽんぽん、と肩を優しく叩いた。

「…俺、全然知らなくて…」

「…うん…」

「…あいつにはいつも見透かされて…いつも、いつも助けられてんのに、こんなことまで…俺の問題なのに、あいつ…」

「…うん」

「俺……」

「秀吉君は大事な人が苦しんでるのに見て見ぬふりはできない人だもん。楓君も知ってるよね?」

「…はい…」

「けど、楓君が申し訳なく感じたり、遠慮しちゃうんじゃないかって思ったから、秘密にしようとしたんだよね。だから、秀吉君の前では知らないふり、してくれるかな?今僕が話した事は、僕が勝手に判断しただけなんだ。秀吉君の意思を無駄にしちゃったけど」

先輩の言葉に何度も何度も頷いた。
たくさんの贈り物をくれる友人だが、自分はそれに見合う人間なのだろうか。
きちんと返せているのだろうか。
神谷先輩が秀吉の意思に背いてでも、と決断してくれてよかった。
でなければ一生秀吉に返せそうもない。いつか彼が難所に遭遇したときは、どこにいても誰といても、彼が拒否しても力になる。
教えてくれてありがとうございます、と深く頭を下げた。

「秀吉君は本当にカッコつけたがるよね」

茶化したように笑う先輩につられて、自分も笑顔になる。

「…それから…」

躊躇いがちに言い淀みつつ、先輩は続けた。

「水戸先輩がね、涼から君を奪ったのは――」

そして初めて聞かされたあいつの真実。
神谷先輩の口から聞いたからこそ、然程怒りも生まれなかったのかもしれない。
それと、僅かな同情。
到底許せないが、僅かな間水戸龍之介を近くで見て俺は知っている。寂しそうに笑う表情も、いつも苦しそうなことも、誰かに助けを求めていたことも――。
おどけたように振る舞う水戸先輩の態度に隠された真実を垣間見た気がした。
だから、本当は憎いけど、死ぬほど苦しんだけど、それでも許してしまうのだろう。
お人良しだろうか。
俺といた時間はもしかしたら水戸先輩も辛かったのかもしれない。
なんて、考えすぎだろうか。ただ、同情しているだけだろうか。けれど、きっと犯した罪の重大さをわかっていると思うのだ。

「……先輩、ほんと色々ありがとうございます…」

再び頭を下げると特別なことはしていないと、気にしないでほしいと言われた。

「でも、気にしてほしいことがあるんだ」

「はい…」

「色々一気に聞かされて混乱してると思うけど、涼のこと、考えてほしいんだ」

「…香坂のこと…?」

「君と別れてから荒れ放題。昔に戻ったような。いや、昔よりも酷いかな。仁も拓海も手におえないって呆れてたよ。だから涼のことも考えて欲しいんだ…」

先輩たちは口を揃えたように同様の言葉を言うけど、俺の中では一件落着などしていない。
実際水戸先輩とは何もなかったかもしれない。しかし、自分を守るためにあいつに嘘をつき、傷つけた。
聞こえがいい言葉を並べ、自分の自尊心を守ることに必死だった。そんな卑怯な真似をしてまで自分が可愛かった。
香坂はきっとこんな自分を許してはくれない。汚い奴だと失望するに決まっている。
今よりももっと軽蔑されるだろう。

「…でも俺…」

「君たちは一緒にいるべきだよ。勿論、簡単に気持ちが切り替わるなんて思っていない」

あんなことがあって、香坂を深く傷つけて、またお前が必要だなど、言えるわけがない。言えるわけがないんだ。

「……考えてみます…」

こんな有り体で濁した。苦笑を零した神谷先輩は一層強く肩を叩いた。そして、最後にこんな言葉を言った。

「涼には君が必要だよ。僕でもなく、仁でもなく、君が…」

神谷先輩の部屋から自室へ戻る間、ずっと香坂のことを考えた。
先輩が言うように、本当に俺は必要なのだろうか。
自分が香坂の中でそれほど大きな存在だったとは思えない。
好きだと囁く香坂の言葉を信じていたが、どこかでは遊びと本気の狭間で俺と接しているのだと思っていた。
別れが来てもすぐに忘れるだろうし、次の恋も容易いだろうと想像していた。だから、冷淡な瞳を向け、もう必要ないと言った時やはりと思った。
けれど、周りから聞こえてくる香坂は、あの時のあいつとかけ離れていて。信じられないし、自惚れたくはないけれど、まさか、まさかと胸がざわめく。
香坂を強く想うほど、臆病になる自分がいる。
認めたくなくて、もがいていたけれど、好きだからこそ、行動に移せない。
愛し合うために恋人になったのに、蓋をあければ傷つけ合った。
人為的な別れだとしても、それはただのきっかけであり、耐えられなかったのは俺の弱さであり、香坂の心だった。

立ち止まり、吐息を零す。
なんだか、酷く疲れた。
水戸先輩に振り回される日々は終わりを告げたが、どうも喜べない。
目一杯張っていた線がぷつりと切れたようで、脱力し、どうしていいのか、右も左も明日もわからない。
日常からただ水戸先輩の存在が消えただけで、何も変わらないと思う。
拗れた糸が、綺麗に解けるには時間がかかる。二度と戻らない場合もある。拗れたままゴミ箱に捨てられる。指で器用に操らなければ、どうにもならない。
今は、香坂のことを考える余裕がない。

折角解放されたのに、一向に俺の心は晴れなかった。むしろ、淀んで厚い雲に隠された本当の気持ちが、すっかり見えなくなってしまった。
俺は汚くて、臆病で、弱い人間で――。
だから香坂の傍にはいられない。一つ見える答えはそれだけだった。

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