antidote

 テーブルの上に置かれた硝子瓶……厳密に言えばその中身を見ながら、アフロディーテは確認の為に口を開く。
「これが例のアレかい?」
 アフロディーテが問い掛けた先にいたのはミロだ。そして彼等がいるのはミロが守護する天蠍宮の居住スペースのリビング。
「ああ、間違いない。」
「これで全部?」
「今回はこれ一本だけだ。」
 ミロの手が瓶を掴み持ち上げる。ちゃぷんと中の液体が鳴った。
「君も災難だったな。アレを討伐するのに、態々休暇中に駆り出されるなんて。」
「別に嫌じゃなかったさ。それが聖闘士の役目だからな。それにアフロディーテが出られなかったから俺が出た…それだけの話だ。」
 ミロの言う通りアフロディーテは別に勅命を請けて聖域を空けていた。故に休暇を取ってアテネ市街に遊びに来ていたいたミロにそのお役が回ってきたのだ。何故ミロに……というのは、ただ単にその敵と相性が良いからであって特別他意は無い。適材適所というやつだ。
「それにアレの討伐となれば必然的にコレが手に入るんだからな。」

―――――……。

「……と、ミロがアフロディーテに言っているのを聞いたのだ。」
 ミロに用事があったというカミュは先程天蠍宮を訪れた際に、偶々ミロとアフロディーテの会話を聞いたと言う。立ち聞きする気は無かったのだが例のアレという、なんとも人の好奇心を擽る単語に見事カミュは興味をそそられたらしい。
「例のアレ、ねぇ?」
 そんなカミュの話を聞いていたデスマスクが夕食のサラダを咀嚼しながら例のアレに付いて考えるが皆目見当が付かない。なんか知っているかとシュラのほうを向くが、残念ながらシュラも心当たりが無いという。
「直接聞かなかったのか?」
 シュラの問い掛けに首を横に振るカミュ。
「聞ける訳ねぇだろ。ミロだけなら兎も角アフロディーテまでいるんだぞ?」
 デスマスクの言葉にカミュは今度はうんうんと頷いた。
 小さな頃から可愛い顔に似合わず勝ち気だった彼は、口喧嘩だなんだといったことは幼馴染みのデスマスクとシュラより一枚も二枚も上手だった。
 確かにミロ一人だけなら軽く吹っ掛けるだけでポロっと話すかもしれない。が、アフロディーテも一緒だとすると仮に聞いたとしてものらりくらりと言い躱されるのが目に見えている。
 デスマスクお手製のクリームパスタその他諸々を胃袋に収めながら、三人の夕食の時間は進んでいく。
「しかし…例のアレとは何だろうな?」
「まあ、この流れで気にならない訳がねぇよな。」
 くいっとワインを煽ったデスマスクの表情は、何かを企んでいる顔だった。幼馴染みのこの表情に嫌な予感を覚えたシュラとは反対に、珍しく食い付いたカミュはデスマスクの話に熱心に耳を傾けていた。


「お。カミュにシュラと、デスマスクも一緒か。」
 珍しいな、とミロは言いながら三人を居住スペースのリビングに快く迎え入れた。通されたリビングの奥、キッチンには自分とミロの分の夕食を作っているアフロディーテの姿があった。
("おいカミュ。例のアレってどんなだ?")
 ソファにどっかり座ったデスマスクが小宇宙通信でカミュに話し掛ける。勿論シュラにも聴こえる様に小宇宙を繋いで、ミロとアフロディーテには聴こえない様に細心の注意を払っていた。
("…彼処だ。キッチンのテーブルの上。")
 上手いこと三人が其々に視線が揃わない様に、各々テーブルの上を確認する。ワインボトルよりは大きい硝子瓶。ラベルは無い。中身はまず間違いなく液体だろう。色硝子のせいで何色か分からないが。
("ありゃあアルコールだな?")
("何故直ぐにお前はアルコールと決めつけるんだ…。")
("日本酒とか紹興酒って確かあんな感じで売ってるの見たんだよ。")
 アルコールに五月蝿いデスマスクが言うのだからほぼ間違い無いのだろう。
("カミュ、ミロは日本酒や紹興酒を飲むのか?")
("いや余り好んでは飲まないと思ったが…アフロディーテの方は?")
("あいつも飲まないことはないが進んでは飲まないな…。")
("デスマスクやはり違うのでは?")
("いーや!あれは間違いなく酒だ!")
「で?三人共何か用事か?」
 小宇宙通信でぎゃいぎゃい論争する三人を知らないミロは、切り子ガラスの中身を煽りながら何用かと問い掛ける。例のアレを飲んでいるのだろうか。気になるが切り込むにはまだ早い。二人で隠れて飲むような代物だ。先程巨蟹宮で話した通り、簡単に教えてくれるとは思えなかった。それに何よりここはミロの守護する天蠍宮……云わば敵陣にいる三人にとって、下手に動く訳にはいかない。それこそ下手すればスカーレット・ニードル、更には赤か黒の薔薇も飛んでくるかもしれない。
「あっ!もしかしてアフロディーテの飯狙ってきたのか?」
「いや夕食ならデスマスクのところで食べてきた。」
「ならデザートか?美味いもんなアフロディーテのアップルパイ。まあどちらにしろやらないけどー。」
 勘が良いのか悪いのか分からない蠍座は更にグラスを煽る。既に素面ではないことは三人には分かっていた。ミロは酔うとテンションが高くなる。そうはいうがミロもそこそこアルコールに強い為、例のアレのせいかそれとも別のアルコールのせいで酔っているのか判断しにくい。
「ミロー?皿はどれを使って良いんだい?」
「んー、今行く。」
 コトリ…とテーブルに置かれたミロのグラス。日本に遊びに言った時に気に入って買ったという切り子ガラスは、彼の星座を象徴するアンタレスの如く紅く色付けされて、見事な装飾が施されていた。
("デスマスク、ミロとアフロディーテが夕食に目を向けている内に味見を。")
("おう。折角だからセブンセンシズで…。")
("小宇宙燃やすなバレるだろうが馬鹿。パッとやって、P!って飲め。")
("P言うな。つかシュラお前酔ってんな?")
 深緑の三白眼が若干据わってきているシュラとカミュにせっつかれて、デスマスクは光速の無駄遣いでミロのグラスを持ってくる。そのグラスの中味は、ほぼ無色。小さく一口飲んでみた。
("……どうだ?")
("フツーの、紹興酒?")
 ほら、とデスマスクから渡されたグラスをシュラも飲んでみる。確かに以前飲んだ様な紹興酒の味だ。シュラが光速の無駄遣いですかさず元のテーブルに戻す。なんだ只の紹興酒か……と、見事に肩透かしを喰らった三人は、ミロとアフロディーテが完成した夕食でわいわいしている背後でがっくりと肩を落としていた。
「本当に君達は何をしに来たんだい?」
 何かをしに来た訳でもなく只居るだけで、そして妙に意気消沈している三人に首を傾げながらアフロディーテはグラスに液体を注ぐ。テーブルの上に置いてあった例のアレからだ。それをクイッと煽った。
「…あーもうまだるっこしいことはやめだ!直接聞いてやる!」
「おいデスマスク待て。」
「な、何だ?どうしたんだよ突然!?」
 夕食のパエリアを食べていたミロがデスマスク言葉に何事かと立ち上がる。アフロディーテもその美貌を曇らせた。ツカツカとデスマスクがテーブルを挟んでミロとアフロディーテに遂に例のアレが何かをぶつけてみ様と、テーブルを両手で叩く。
「…デスマスク?」
 言葉を発しようとしたデスマスクの顔色がみるみる青ざめていく。テーブルについてた両手はやがて力を無くし、その場に倒れ込んだ。そしてデスマスクの側に行こうとしたシュラも数歩歩いたところでその場に膝を付いて踞ってしまった。
「デスマスク、シュラ!」
 二人のこの状態にカミュが別の意味で青ざめる。何事か起きたか分からないが、脂汗を浮かべて苦しむデスマスクとシュラのこの状態は尋常ではない。
「まさか…お前達飲んだのか!?」
 いつの間に飲んだ…とデスマスクの症状を確認しながらアフロディーテは語気を強めて言った。その言葉に一瞬なんのことか理解出来なかったが、カミュは直ぐに先程のミロのグラスの中身をこっそりと頂戴した事だと理解する。
「ミロ解毒させるよ。」
「分かってる。少し痛いが我慢しろよ!」

***

「例のアレって毒酒のことだったのかよ…。」
 解毒処置は無事終わり、天蠍宮のリビングに転がったままのデスマスクがボヤく。
「済まないデスマスク、シュラ。」
「カミュのせいじゃねえよ。元はと言えばデスマスクが勝手に俺の飲んだんだから。」
「いやそれを言うならミロ、味見をしてくれと頼んだ私にも責任がある。」
 シュラとデスマスクに水を渡しながらカミュは再度彼等に謝っていた。自ら進んで飲んだのだから気にするな…とシュラが返す。まだ気分が優れ無いのかぼんやりとしていた。
「んで、何でお前等二人は毒酒なんか飲んでんだ?いやその前に何処から手に入れたんだよこんな物騒な酒。」
 質問に答えたのはアフロディーテだった。
「君達は"チン"という生き物を知っているかい?」
 其は古来中国に伝わる鳥獣の一種で、古くからその鳥獣は凶を運ぶ…つまりは縁起が悪い生き物とされてきた。
「チンが空を飛べば畑は枯れ果て、チンの羽が酒に浸かればそれは忽ち毒酒に変わると言われてね。」
「先日俺が受けた任務はそのチンの討伐だったんだ。」
 最近はこの鳥獣が出たという話を聞かなかったが、大都市より外れた小さな村でチンが目撃され、これ以上の被害を被る前に討伐せよと命令が出た……という話だ。
「それは理解した。しかし何故ミロとアフロディーテはその毒酒を飲んでいるんだ?」
「では逆に聞こう。その毒酒をその辺に破棄すればどうなる?」
 それは大地を始めとして、川、海、そしてやがて自分らの飲み水に影響が出る。その課程でも毒酒が染みた大地では植物は育たず、川や海の生き物は死に絶える。
「だからと言ってアフロディーテとミロが毒酒を飲むのは如何なものか…。」
「心配は要らないよ。幸い私はの身体は対毒体質だ。何万の人の命を危険に晒す位なら、幾らでも喜んでこの毒酒を飲もう。」
「最初は止めてたんだけど、アフロディーテが譲らないから俺も消費するの手伝ってるんだ。」
 毒酒と言えど元は紹興酒。味はそれなりに保証されていて美味いという。ミロも三人と同じくアフロディーテの様な対毒体質ではないが、毒を扱う蠍座には飲みながら解毒するぐらい造作も無いことらしい。
「何気にそれ飲むの楽しんでるなお前等…。」
「失敬だな君は、そんな訳ないだろう。」
「えーでもこれ実際美味いよな。」
「確かに美味いということには否定しない。しかしこんなの出ないほうが良いに決まってる。」
「同感だ。」
「という訳だ。これに関しては諦めたまえ。」
 つい先程死にかけた蟹座と山羊座、それに水瓶座は魚座と蠍座の毒コンビの言葉に何度も首を縦に振っていた。



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